見出し画像

対談は、文字にしても面白いのだ

一つ前の記事で、「雑談は、会話でなりたっているものだから、声のトーン、リズム、相槌、重なりなどが感じられない、文字起こしにしたものはつまらない」という主旨のものをかいた。
で、今回は、対談はどうなの?だ。

生物学者の池田清彦先生とマツコ・デラックスさんの対談本『マツ★キヨ: 「ヘンな人」で生きる技術 』
を読んでみて思うのは、対談は最初から、言葉のキャッチボールが前提の会話なので、文字にしても違和感がない。ということだ。

当事者たちの口調そのもので、文字お越しした対談本は、まるでそこで2人が話しているかのようで、面白い。
雑談を文字にしたときの、つまんなさは、全くない。

ということは、同じ、会話であっても、「雑談」と「対談」では全く違う会話形態と主旨をもつ。ということが明白だ。
対談は、おそらくあるテーマを元に対話が進められる。
相手の言葉をきちんときき、それに対して自分の言葉を返す。その繰り返しによって進んでいく。ある程度そのテーマについて当事者が納得いったら、キャッチボールが終わる。
と、とてもわかりやすい。
(だが、これも当事者がちゃんと筋道から離れない、ができればこそだ。もしすぐに論点からはずれていってしまう人の場合は、対談として成立しない上に雑談にもならず、ただの脱線するおしゃべりだ)

雑談も、時にはテーマを話しはじめていたのかもしれないが、相手の言葉をきちんときき、それに対して自分の意見を返す。というよりも、相手の言葉のリズムにのっていく。と言うほうが大事のような気がする。
リズムや韻、言葉遊び、比喩、連想などと発展していく方に話がひろがっていく。
そう!広がっていくのだ。だから、その場にいない(空気感がわからない)で文字だけでよむと、なんとなくその場からおいていかれている感じがして、一緒にその広がりにのっていかれなくて、つまらない。
ということいなるのだろう。

雑談は、その場にいるからこそ楽しめる。
対談は、自分の論点からずれず、また相手の主張も尊重できる人同士が、内容を展開していくことが面白い。

この対談本の中で、池田先生がコミュニケーションについて、こう語っておられる。

今の人って、自分がいて、相手がいて、その間で情報のやりとりをすることだけがコミュニケーションだと思っているんだよな。
コミュニケーションというのは、そういうものではないんだ。
やり取りすることによって自分や相手が変わることが本来のコミュニケーションなんだよ。
そうでなかったら、自分が変わることもないし、変わらなければ人間的に成長することもない。
他人とのやり取りの中で自分の考えを変えてみたり、「ああ、そういうふうな考えもあるのか」と認識を新たにしたりとか、お互いにいろいろと調整しながらうまく回っていくのが人間社会でしょう。

そう、ここで池田先生でいっておられるコミュニケーションこそ、まさに対談で行われていることだと思う。
対談でじっくりと話すことで、自分と相手がちょっとアップデート更新されるのだ。
そして読み手にも同じことが起こる。

そういう意味でも、お2人のような頭の回転の良い、とらわれない心をもった方たちの対談本はとっても面白いのだ!