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私の遠野物語―「遺す」ということの考察(前編)

 8月の中旬の1週間、岩手県・遠野に滞在した。コロナという事態に直面し、これからの暮らし方や働き方を見直す必要があるかもしれないと思い、昨年は福島県内のコテージに2週間滞在し、試行実験を行った。そして今年、オリンピックを開催する東京が爆心地になって、感染が爆発した。都知事からは都民の旅行自粛要請があったが既にワクチン接種が終わっていて、他者との接触をほとんど行わないことから決行した。

 では、なぜ遠野なのか。NHK「100分de名著」で紹介されたことがきっかけとなって原作を読んだ遠野物語の世界にすっかり魅せられてしまったのだ。遠野物語は、日本の民俗学の礎を築いた柳田国男が、岩手県遠野に伝わる物語を聴き取り、それを書籍化した伝説的な一冊だ。ここから「民話」という言葉が生まれ、今では誰もが知る座敷童(ざしきわらし)や河童といった妖怪も、この物語で初めて世に出た。遠野市は物語の舞台を観光資源として保存していると知り、いつかは訪ねたいと願って来た。新型コロナという見えない存在に脅かされることで露になったのは、近代合理主義のほころびだ。その根底には、すべての事象が科学的に説明のつくもの、という人間の驕りがある。東京から離れ、今だからこそ「わからないもの、説明のつかないもの」についての思索を深めてみたい。日本人の原初的な風景に出逢いたい。そんな思いに突き動かされて遠野に向かった。

   滞在の1週間は、遠野だけでなく東日本大震災の震災地にも足を運んだが、旅を終えて浮かび上がって来たのが「遺(のこ)す」というキーワードだった。

 遠野は、その土地全体が物語を立体的に辿ることのできる美術館のようだ。例えば、至る所に氏神様を見ることができる。「荒神様」という氏神様は田んぼの真ん中にあって季節の移り変わりに応じて、水田の上に、あるいは黄金色の稲穂の上に浮かぶ姿が美しい。いくつもの集落にあるのが「駒形神社」という名前の氏神様。遠野は名馬を生み出す産地として全国的に有名だが、それは農民にとって馬は生活の中で切っても切り離せない存在だったという歴史的背景がある。輸送手段として農耕馬として馬は家族の一員だった。それを象徴するように、農家は「曲り家」と呼ばれる人間の住まいと厩舎(きゅうしゃ)が一体となった形態をしている。遠野物語でも、人間の女性と契りを結んだ馬が「オシラ様」として崇められるようになった話が紹介され、人と馬が対になった人形が守り神として遠野の民家の座敷に備えられて来た。この氏神様こそが日本人の価値観の源泉となった、と柳田国男は唱えた。

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    柳田は1875年に生まれ、農務官僚としてそのキャリアをスタートさせた。日清・日露戦争に勝利し国際舞台に躍り出た日本にあって、行き過ぎた工業化・輸出振興は過度な拡大主義につながることを危惧し、農民が自立し農産業が成長することでそれを防ぐという構想を描いていたようだ。その過程で、失われようとする日本の原初的な生活と価値観を調べ遺すことへの強い問題意識を持ち、生活する人の言葉に耳を傾け探求する独自の民俗学の開拓に至る。それぞれのご先祖を敬う気持ちから生まれた氏神様の集積が、欧米の一神教とは真逆の「八百万の神」につながった、とする。それは日本の近代化に伴って生まれた国家神道と全く異なるものだ。

 遠野物語に登場する民話と同じような話は、おそらく他の地域でも伝えられて来たものかもしれない。だが、柳田はそれらを口伝えではなく文字として遺したことで、日本に「民話」というジャンルが生まれたのだ。

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    さて。遠野の旅で最も心に残ったのは、物語の中心となる山口の集落での風景だった。ここでは、田んぼを挟んで両脇に小高い丘がある。その一方は「ダンノハナ」と呼ばれ、代々の祖先の墓地となっている。片方の丘は「デンデラノ」と呼ばれ、60歳となった農民は、家族の負担になることを防ぐために集落を離れ、村を去りここに移り住む。ダンノハナの丘から、そこに住む人たちがかつて住んでいた集落を見下ろした時、何とも切ない気持ちになった。農民たちは日々、先祖や引退した親族から見守られ、現役時代、引退後そして死後の生活が一体となった場で暮らしていた。だからこそ、先人を敬う気持ちも生まれたはずだ。特別養護ホームや先祖の墓所が生活から切り離された現代の生活空間では、先人の視線や気配を身近に感じることもできない。 

 見えないものの存在に、いつから私たちは気づかなくなったのだろう。私の母方の祖母は、ある夏の日に、重い病に臥せっているはずの近所の娘さんに出逢い、正にその時間に亡くなっていたという話をしてくれたことがある。かつての日本人には、目には見えないものや気配を確かに感じ取る能力が在ったことを、遠野の地に居ると信じることが出来るような気がした。

#遠野物語 #柳田国男



 

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