猿飛橋の絶景
機微、ほんの些細な差分に気付けないもの。
当たり前とは本当に恐ろしいと思う。
目の前に何でもあるのに何もないと宣う。
やってみせる。
そうしてはじめて気付く。
いや、それでも気付こうとしない、それを拒絶する人たちもいる。
つまり何もわかっていないのです。
彼らは彼らなりの思考で生きてきたいこと、それ自体は否定すべきものでもないので良い。
でも、何かを成そうとするのであれば頭のてっぺんから煙が出るくらい考えよと言いたい。またはそれが出来ぬなら予算と共に一緒にやらない?とその一言くらい言えても良くないかな。
直感的に繋がって、今濃密に連携する連中はまだまだとは言え、大きな波に乗ろうとして自己学習を夜中まで続けている。
周りがどうとか、もはやどうでもいいと思っていて、そんなことより着々と大きな成果に繋がる感触さえ掴んでいると思う。
何度も言うけど、まだまだだけど😂
もしその流れに乗りたいのなら、声をかけてください。
写真は猿飛橋の現在と大正時代の実際。
随分変わったが、この差が思考深度の差になっているように見えて仕方ない。もっと太古の昔、この崖を蟹歩きで通った記録が北越雪譜の挿絵にあるそうな。(国会図書館が保管している原本を見ることができるのですが、それを合間の合間にペラペラ眺めていますが、まだそこまで辿り着いていないので、なんともわかりません)
大きな鉄橋を掛けるのではなく、大正時代の簡素な橋を今一度掛けることがこの場所には最適なのではないか・・
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