小説~否定に着地する二重否定~【1】

ビールは何色なのか?もちろん、わたしの視覚はビールのその色というものを認識しているし、おそらく金色または黄金色とわたしは言おうとしている。しかし、果たして本当にそうなのだろうか?世論調査なるものを取れば、おそらくわたしが宣言した色が首位の座に座るであろう。しかし、なにかピンとこない。右下の奥歯にはさまってしまったたこ焼きのタコ部分みたいに。正解がどうでもよさそうなこの問いを頭の中に浮遊させながら、わたしはホワイトベルグをのどに運んでいる。フルーティーな香りと缶には刻まれているが、なんとも不思議な日本語だなと思った。フルーティーという言葉は、味の修飾語句にもなりえるし、当然においの修飾語句にもなっている。カタカナ語はなんて汎用性というものが高い言語なのだろう。誰にでも良い顔をする八方美人みたいだ。そもそも、ひらがな、カタカナ、漢字の3言語を駆使する日本人はなんと高度な人種なのだろう。グローバル化という標識のもと英語教育の重要性が問われているが、これら3言語の読み書きに卓越している時点で日本人はトリリンガルを名乗ってよいのではないかとも思う。

このように、缶ビールを手にして口に流し込んでいると、少なくとも義務教育では扱われるべきではない問いがわたしの感情というか理性を支配する。アルコールのせいなのか?つまみのたこ焼きが例にならって歯にはさまるからか?上半身と下半身との継ぎ目を90度にして床に座りながら金曜ロードショーを孤独に見つめているからであろうか?その金曜ロードショーの中でCMが多すぎて脳が苛立ちを覚えているからであろうか?いずれの答えも正解になりうる。どれが正解かは重要ではない。

ここまで書いた文字数は699字。気づいたことは、やけに「問い」や「正解」という単語が多く並んでいるという事実だ。ある意味、義務教育は私の中で成就したと言えよう。もちろん二元論を過度に推し進める日本の教育に対する皮肉のつもりで成就したと言ったが。口癖が人の性格を暗に示すものだと言われているが、口頭で話すときよりもパソコンのワープロに文字をある程度大量に打ち込んでいるときの方がより癖が荒ぶると考える。ワープロという単語は令和に両足を踏み入れたいま死語であるが、あえて使用した方が理解が進むと思い打ち込んだ。口から音声として放たれるその言葉よりも、手を介してのビジブル(目に見える)な言葉のほうがより性格やヒトトナリというものをさらけ出せるのではないか。

暫定的な結論はこうだ。自己紹介は「慶應義塾大学3年の○○です。XXXというダンスサークルに所属しています。休日はNetflix三昧です。あ、最寄り駅は芝公園なので遊びにきてくださーい。」と、AIじみた打算的な笑顔を添えてビブラートが不細工に効いた声で響かせるよりも、「わたしの取り扱い説明書」を400字程度にwordに書き殴り6部片面コピーを準備して配布した方がきっと少なくとも合コンという場においては適切なのである。ちなみに、この段落で文字に起こしたものを合コンの序盤5分においてfeat.早口で口走ったらジ・エンドだ。ノーサイドもクソもない。そういうものなのだ、結局世の中って。そんな他人の顔色至上主義の世の中も私は毛嫌いはしていないが。

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