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【短編小説】カケアミ

カケアミ、というものを知っているだろうか。
イラストの背景や影などで濃淡を表現する技法の一つだ。一定の長さで描いた平行線の集まりを、角度を変えて重ね合わせることで濃淡が表現できる。
それを教えてくれたのは、学生時代の同輩だった。
漫画家を目指していると語っていた彼女は、私のノートの片隅を見て「カケアミみたい」と呟いて、それが何かを教えてくれた。

ノートの片隅に線を書く、というのは私の子供の頃からの手癖だ。特に意識しているわけでもなく、考え事をしたり、ぼんやりしている時に気が付くとノートの片隅に何重にも線を引いている。様々な角度の線の重なりは、確かにカケアミによく似ていた。

カケアミのことを考えると、いつも一緒に母のことも思い出す。
子供の頃、いつも母のことを羨ましいと言われた。
母はいつもにこやかで明るかった。毎日朝夕にはバランスも彩も良い食事を作り、手作りのお菓子やパンを鼻歌混じりに作っていた母。服も家もいつも清潔で、良い匂いで満ちていた。きっと私が学校に行っていた間は手芸にでも勤しんでいたのだろう。手作りのクッションカバーやぬいぐるみを近所の人たちに少しだけ恥ずかしそうにプレゼントしたりもしていた。当時は恥ずかしさを感じたりしたが、今思えば絵に描いたような良妻賢母だった。

けれど私が思い出す母は、周りの記憶とは少し違っている。
それがいつからだったかは思い出せないが、私は夜中に度々目を覚ますことがあった。
パラパラと紙を捲る音。押し殺したようなゆっくりと深い誰かの息遣い。それらに気がついて、私は少しだけ目を開ける。ベッドの横に置かれた勉強机に向かって、私のノートを捲っている母の姿。いつもにこにことしていて、たまに怒る時でも困ったような顔しかしなかった母が、目を見開いて、奥歯を噛み締めながら、鼻の穴を膨らませて一心不乱に私のノートを順番に確認していた。カーテンの隙間から漏れる街灯の灯りの中で、恐ろしい形相をしている母の顔が、今でも瞼の裏に焼きついている気がする。
私の日記からノートまで、全てを確認しながら母はページを破り取っていく。破り取ったそれらを集め、ハサミを使って細かく切り刻む。シュレッダーよりもずっと細かく、執拗とも言える程に念入りに切り刻んだそれらを集めて、母は私の方を振り向く。起きていることがバレないように私はすぐに目を瞑ったし、部屋はいつも電気を消していたので、その時の母がどんな顔をしていたかは今となっては知りようが無い。

そんな母は、私が中学3年生の時に失踪した。
塾からの帰り、私は家では滅多に嗅いだことのなかった焦げ臭さに気が付いて、戸惑いながらキッチンを覗いた。コンロにかけられた鍋から黒い煙がもくもくと上がっていて、私は慌てて駆け寄って火を消した。毎日使っているのにいつもピカピカに磨かれていた鍋の中で何かが真っ黒に焦げていた。「今日はシチューを作って待っているからね」と伺うように笑っていた母の顔を思い出した。私は大声で母を呼んだが、家は静まり返っていた。
仕事の飲み会だと言っていた父が日付が変わる頃に帰宅するまで、私は家中母を探したが、その日以降、母は見つかっていない。
父の通報で警察官が大勢やってきて、家中を掻き回すのを呆然と見ていた私は、冷蔵庫の下の隙間に紙が落ちているのを見つけた。
それは、小さな付箋で、当時受験生だった私が勉強のために使っていたものだった。志望校への推薦を得られず、酷く悩んでいた私は、その付箋にびっしりとカケアミを書き込んでいた。筆圧ででこぼこになった黄色の付箋は、真っ黒になっていた。

そんなことを思い出したのは、きっと私が今、酷く落ち込んでいるからだろう。タバコを咥えながら、気がつくとペンを握り、メモ帳に線を書きはじめていた。
私は先日、仕事で大失態を犯した。
酷いストレスを乗り越えて勝ち取った就職先。研修中の態度を高く評価してもらえた私は、先輩に連れられて大口顧客の接待に参加させてもらえた。営業としての素質を見込んでもらえている、と調子に乗っていたんだろう。勧められるがままに許容以上の酒を飲み、泥酔した私はあまり覚えていないが、先方の担当者にとんでもない失礼をしたらしい。
そのせいで契約を失うかもしれない、と言われたのは今朝のことだ。優しかった先輩や上司の態度は一変し、他の同僚たちの態度も冷ややかだった。

気が付くと、手元のメモ帳は黒い線で埋まり、でこぼこと波打っている。
私はペンを放り出してタバコの火を消した。眠れる気はしないが、とにかく明日も出社はしないと。クビになるかもしれないと思うと吐き気すらするが、欠勤して評価を更に落とすわけにもいかない。落ちるほどの評価が残っていないかもしれないが。
立ち上がろうと机に手を置いた私は、ふと違和感を感じて視線をメモ帳に戻した。
黒い線で埋まったメモ帳。不規則で辿々しいカケアミ。
その隙間に、何かが見えた気がする。
私が書き込んだ乱雑な線。その下に、私が書いたもの以外の線。メモ帳は用を終える度に破り取っているので、何も書いていないはずだった。
黒いカケアミの下にあるそれはーー。

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