見出し画像

「火男さんの一生」No.62

            62(終回)
 火男さんが、朝、食事の時間に食堂に起きて来ないので担当職員が起こしに行った、いつもならベッドを揺すれば閉じた目をゆっくり開けて、職員の顔を無表情に見つめるのだが、この朝は、布団をめくって耳元で名前を呼んでも、目を覚まさない、頬を抓っても目を開けない、抓られて伸び切った頬の皮膚が、何となく冷たい、揺り動かすと、体はどことなく固い。死人を扱い慣れた職員、慌てもせず、部屋の外に出て、廊下を通って事務所に戻り、
「誰か、あとで、先生に連絡しといて、火男さん、死んでるって。あ、私は駄目、朝食の介助で手が一杯、お願い、ね」
 
 
 火葬場から施設の駐車場に着き、車を降りて、施設運転手、時山は後部座席のドアを開けた。
「無い…?」
そこに在るべきものが無い?上村吉信の遺骨と遺灰を納めた、白布で包んだ骨壺が無い。シートの下にも頭を突っ込んで覗いて探したが無かった。
時山は、火葬場の職員から、上村吉信の骨壺を受け取って以後を、順を追って思い出してみた。その過程のどこにも時山の不注意、失念、手違いは何も無かった、と確証した、だが、肝心の骨壺がない。
 時山は、火葬場から駅まで乗せてやった元警官、杉下が、何かの間違い、勘違いで、後部座席に載せた骨壺を、上着と一緒に持って行った、としか思えなかった。
 時山は携帯電話で杉下の名刺に書いてあった会社の電話番号にダイヤルした。誰か電話に出てくれれば杉下の携帯番号、自宅などの連絡先教えて貰えばいいし、骨壺の事で電話が有った、折り返し電話して欲しいと伝言して貰ってもいい。
 ようやく目先に希望の灯りが見えて来たような気がして、それでも時山、震えの治まらぬ手に持つ携帯を耳に当てた、直ぐに女の声が聞こえた、杉下の会社の事務員か、用件を云おうとした時山の耳に聞こえたのは、
「お架けの番号は現在使われておりません、お確かめの上…」
 
 
 地中から剥き出して絡み合う木の根を踏みながら鹿木は島の上の邸へと狭い坂を上る。
 長い一日、だった、紀州の山合いまでの長い道程をたった一日で往復した疲れが一気に、やはり老いた鹿木の体に重く圧しかかってくる。
 全ては、終わった、吉信の死によって全てが闇に消え、心配事は一切、闇に溶けるように消えた、のだ…だが、実感が無い、ただ酷い疲労感に鹿木は襲われて、もう一歩も坂を登れない…
 それでも、歯を食いしばって、坂を登り、そして笹竹で囲われた狭い墓地の前を通り掛かる。
息が切れて鹿木、そのまま立ち止まり、呼吸が整うのを待った。墓地を覗くと、磯に転がる岩や石を積み上げただけの粗末な墓が苔むして数個、まばらに並んでいる。
 鹿木の脳裏に、警官数人が、由美子の墓を暴いて、まだ肉片の残る遺体を掘り出し、そして白骨化した定信の遺体も掘り出した、あの日の光景が蘇る。
 鹿木は、笹竹を跨いで墓地に入り、その内の一つの墓石の前に立った。汐風に腐った卒塔婆が斜めに傾いて、今にも倒れそうだった。由美子の遺体を再度埋葬した墓、だった。
 海を泳いできて棲みついている猪が、掘り返したのか、墓の周辺の土が、もこもこと盛り上がっている。
 鹿木は長い時間、由美子の墓を睨むように見下ろし過ぎた昔を思い出していた、が、急に何か思い出し、その時の怒りがまざまざと思い出され、気持ちを抑えきれなくなった鹿木、コートに隠すように包んでいた骨壺を取り出すと、頭上高く両手で骨壺を持ち上げ、足元の、由美子の墓石の角目掛けて投げつけた。
 骨壺は破裂し、破片が一帯に飛び散り、数個の真っ白な骨片が辺りに撒き散り、遺灰が墓石の上や辺りの地面を白く覆った。
 撥ね散った一個の骨片が鹿木の靴の前に落ちて転がってきた。鹿木は暫しその骨片を憎々し気に睨んでいたが、その骨片を、たばこの吸い殻を消すように踏みにじった。
 骨片は、煎餅菓子でも踏むような音を立てて粉々になった、鹿木は、由美子の墓石の角の下が、骨壺を投げつけた辺りが、人の手で掘ったような穴があることに気が付いた。
 警官が、墓下の由美子の遺体を掘り出した時に掘った穴か、と思ったが、もう何十年も昔のこと、今もその痕跡が残っているとは思えない、ふと、その穴の奥から、月の明かりを反射してか、何かが一瞬、光ったように見えた。
 覗いてみると、確かに、穴の中に、手首の深さのところに、何か金属片か、ガラス片のようなものが在る…
 鹿木は、掘り出した、旧日本兵用の、水筒、だった…
 
                    終
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?