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「火男さんの一生」No.61

           61,
 鹿木は、年配の女子介護職員を掴まえ、古い友人だが、ここに入所している上村吉信君の現状を知りたくて訪ねて来た、しかし上村君の家族には、ここの住所さえ教えて貰えない位面会することを禁じられている。私は、様子だけ見れば充分なので、と云いながら、万札1枚を、職員の手に握らせた、職員は驚いた様子を見せたが、その顔はすぐ笑顔になった。 
 麓に~と云う喫茶店が在る、そこで会って話すことになった、自分はもう少しで夜勤明けになる、終われば自分の車でそこまで送る、着替えてもう一度そこへ戻るからと、鹿木は喫茶店まで送って貰った。
 
 女子介護職員は、友達に久しぶりに会ったようによく喋った、
「入所されてきた当初は、なかなか体も思うように動かせなくて、辛そうでしたが、うちに機能訓練専門の優秀な職員がいまして、大概厳しいんですが、そのせいか、何年も掛けて次第と手も足も動くようになってきて、ご本人は喋ることは今も出来ないんですが、顔に精一杯、体を動かせる、杖を突きながらでもそこそこ歩けるようになった喜びを見せるようになりました、
 このまま順調に行けば、先に入所している高齢の方の誰よりも早く歩けるようになる、とみんなで云っていました、
 ご本人は、その訓練士の指導で、施設のごみ焼却の仕事をするようになり、その訓練士、徳山さんて云うんですが、上村さんに、ごみ焼却任せるようになって以後、生ごみも、入所者の、汚い話で申し訳ないんですが、排泄物も、以前は、燃え切らずに燻って悪臭が辺りに流れて来ていたんですが、上村さんに任すようになってからは、どんなゴミでも、メリケン粉の粉のような、さらさらの灰になるぐらいまで、きれいに償却してくれると褒めていました。
 ですが、或る日、元々、脳梗塞の後遺症で、手足が不自由になってらしたんですが、軽い脳梗塞を再発して、救急に手当を受けて、大したことならずに退院してきたんですが、その後は、認知症状が出るようになったんです、脳梗塞のあと、認知症になってしまうひとはうちでもけっこう多くて、皆な心配していたんですが…
 でも、上村さんは体は動く、それで夜中に徘徊するようになりました、この頃から上村さん、すっかり変わってしまって、ほぼ毎朝、食事の隙を狙って施設を抜け出し、施設から、そう遠くない、でも歩けば普通の人の足で小一時間も掛かるゴミ焼却場へと向かい、柵を乗り越えて侵入し、日がな一日、焼却施設の中で炎を眺めて過ごすようになりました、
 事故に遭わないようにと、ここだけの話、ベッドに拘束されるようになったのですが、 朝の、朝食配膳の隙を狙って施設を脱出して、町へ行き、町で、手当たり次第、見つけ次第に、ごみ置き場や、郵便受けの新聞に火をつけるようになったんです、
 初めはボヤ程度で済んでいましたんですけど、やがて、ちょっとした火事騒ぎを起こしてしまって、町の人たちが心配するようになったんです、
 警察が警戒して見張っていたところ、施設の寝間着姿のまま、通りをうろうろする上村さんを見つけ、尾行けて監視しているその目の前で、郵便受けから朝刊を抜き取り、マッチで火をつけ、あの曲がってしまった口で炎を煽って、その家の庭に放り投げたんです、
 当然その場で取り押さえられたんですが、新聞紙につけた火を煽る上村さんの口元を見た警官がその口を真似て、
「まるで火男、ひょっとこさん、みたいな顔をしていた」
とうちで職員に説明して以来、上村さんは
「火男さん、ひょっとこさん」
と呼ばれるようになりました、
 認知症と記憶障害で不起訴となり、暫くして施設に戻ってきましたが、それでもすぐ早朝に脱出を繰り返すようになりました、今では、施設ではほとほと手を焼いています」
 
 鹿木には、この話を聞けただけで十分だった。吉信は、脳梗塞を再発し、そして認知症に罹かったと云う。鹿木は介護職員に礼を云って別れて、来て良かった、とつくづく思った、頭の中が、いつも雲霞のように、吉信のことが気に成って晴れることはなかったが、久々に、気持ちが楽になった。
 しかし、鹿木は、喫茶店でタクシーを呼んで貰い、再度、吉信の入所する施設へ戻った。
 施設の、正面のではなく、やや離れた駐車場でタクシーを止め、タクシーを待たせて、駐車場の車の間をゆっくり歩きながら、そこから介護施設の入居棟を見上げた。
 吉信の住む部屋の、何号棟の何番の部屋かは、富子宛に送られてくる請求書を見て知っている。だがそれが、どの棟の、何階かさえも、玄関側か、それとも反対側かは判らない、だがどうでも良かった、もう、今後、認知症を患った、正に「ひょっとこさん」と呼ばれて、町を徘徊して放火する重症認知症状に堕ちた、ほぼ廃人となった吉信が、ここのどの部屋で暮らしていようがもうどうでも良くなった、のだ。
 歩きながら、建物を眺めたり、山の風景を眺めたり、もうこれで終わった、と体中の、凝り固まった血がほぐれて心地よく流れて行くのを実感していた。
 戻ろうと、鹿木、タクシーの方に向き掛けた時、一つの棟の、3,4階の端の部屋のガラス窓に、ふと人影が見えた、ような気がして、鹿木は足を停めて振り返った。
 窓に、人の影、はっきり分らないが、施設の寝間着を着た、男、その男が、ガラス窓に、口をくっつけて、鹿木の方を見ている、ように見えた、認知症の入所者が、子供の頃そうしたように窓ガラスに口をくっつけている、ように鹿木には見えた、しかし、その、窓ガラスに顔をくっつけた人影が、よく観てみると、人影は、はっきりと鹿木の方を見下している…
 はっきり判らない、だが、鹿木は幽霊でも見ているように、体が寒気に襲われ、凍えるように体ががたがたと震え出した。
窓に立つ男、吉信?男は、ガラスに口をくっつけてはいないのだ、窓の傍に立つ顔そのものが、口が引き攣ったように逸れている…
「吉信…」
 男は両手をゆっくり上げて背伸びした、挙げた両腕をゆっくり回しながら、ラジオ体操するように、体をぐるりと回した、そして、その男は、逸れた口を開け、歯を見せた…顔は、はっきりと鹿木の方を向いている。
 
 鹿木は、息がとまりそうに、咳込んだ、そしてよろけながら、タクシーに向かい、鹿木の様子の急変に気付いた運転手が鹿木の体を支えて車に乗せた。

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