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【詩】幸せだと詩が書けない説

「詩を書きたい」

もしくは

「詩が書きたい」

・・・などとふと思い筆を走らす、もといキーボードを打ち始めるのだが、文字を打ち始めた途端に、果たして何を書こうとしていたのかさえよくわからなくなり、詩はおろか気持ちそのものさえ雲散霧消してしまうという体たらく。そしてもうこの己の存在価値とか意義さえもないのではないかと絶望のどん底に突き落とされてしまうような感覚。そんなこと皆さんもありませんかね?先日、車の中で壊れかけのRadioを聴いていると、ある人が「幸せな状態にいると詩が書けない!詩は鬱屈した負の感情からのみ紡ぎだせる表現物なのだ!」と少し大袈裟に脚色をしているがそれに近いことを話していて、僕は「なるほど(棒)」と思ったのだった。つまり今僕が詩を書けないのは、今僕が幸せだという証明なのではないか。証明完了。それならそれでまあいいかと、詩を書こうとしていたことさえ忘却してしまうのである。忘却完了。でもなんか書きたいよね。若いころに書いていたような言葉にすることでギリギリの均衡を保って生きているようなリアルな感覚とか、言葉だけで価値を生み出せるような全能感をもう一度、味わいたい。

「だったら幸せなことをそのまま詩にすればいいんじゃない?」

・・・と思われるかもしれないが、妻にもそう言われたような気がするが、全くその通りである。しかし僕はずっと似非中二病患者でもあったので、絶望とかそっち方面の思考回路からしか、詩という表現をすることが難しい傾向があるようなのだ。わかりやすく言うと「どんなに幸せでもいつか死んじゃうよな」とかそういう面倒くさい傾向のことである。そんなことを考えていると、今の幸せをそのまま詩として表現したいのか、はたまたその幸せの先にある闇にまでスポットを当てて表現することで、詩に奥行きなんぞを持たせる必要があるのかが、よくわからなくなってしまうのであろう。そしてこの今の幸せを詩にすることにどういう意味があるのだろうか。もしかしたら幸せかと思っている中に一片の曇りなどを見つけてしまったらどうしようとか、妙な心配が過りはじめる。そういえば写真を撮るときは今の幸せを保存したいからとか思っていたけど、それならば写真を撮るように詩を紡げばいいのではないだろうかとふと思った。そのままを写し取るように詩にする。そこには奇を衒った表現だとか、こねくり回した理屈などは必要ない。差し詰め写実主義の詩といったところだろうか。うーん・・・なんかますますどんどん難しくなってきた。もうこうなったら巷間に跋扈しているAIに書いてもらうかと思い立ち、いわゆるChat〇PTに「妻と出逢った幸せな思い出で作詩をして」と頼んだ次第である。なんのこっちゃ。

あなたの声が 私の心に響いて
心の中に太陽が生まれた
それはとても暖かい光をまとい
なによりも大切なものとなった
お互いの声が響き合うなかで
それは光となり 熱となり 愛となった
愛は二人に安心をもたらし
幸せな思い出が紡ぎだされた
あらゆる光景が輝き始めた
まるで嘘のように突然に春が訪れた
光のスピードで進み始めた二人は
もうだれにも止められない
そうして次々と積み重なる日々が
幸せな思い出となって蓄積する
それは確固たるチーズリングの塔だ
あの空の本当の太陽が消えたとしても
心の中のこの太陽は消えないだろう


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