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アンチ変人コメントの分析Ⅱ

2016年に中央大学変人学部を設立して以来、「変人」にまつわる活動をしていると何度となく「アンチコメント」が寄せられる。SNS上のコメントという形もあれば、ブログという形もあれば、直接対面でコメントをいただくこともある。当初は悲しい気持ちになったり、かえって反発を覚えたりすることもあった。だが、そのようなコメントを受けることに慣れてくると、アンチコメントにはパターンがあることに気が付いた。そしてそれらのアンチコメントの背景には、人々の変人観が大きく作用していることに気づいた。


自称変人バッシングは、日本社会の不寛容さの表れか?

パターン①「アンチ自称変人型」
このパターンは、端的に言うと「変人を自称するのはおかしい」という意見である。そして、「本来、変人とは他人から判断されるもの」であり、「真の変人は自分を変人だと思っていない」と考えている。批判の対象は当然「変人を自称する人」である。余談だが、この批判をする方々は少々早とちりで、変人を自称していない人、例えば変人について議論をしている人や、変人に関する活動をしている人まで「変人を自称している人」だとみなして批判しがちだ。
ひとえに変人を自称している人といっても大きく2つのタイプがある。1つ目は、成長過程で自分自身が変人であると自覚するようになったタイプだ。このタイプは、例えば義務教育期間において集団行動に息苦しさを感じたり、周囲から変だと指摘されたりすることを通して、自らが「変」であるかもしれないと認識するようになる。そのような経験が積み重なることを通して、「変」かもしれないという認識は強化され、確信へと変わる。この場合、当初は周囲と馴染めないという疎外感や、なぜ自分だけみんなと一緒にできないのかといった劣等感を感じているケースも少なくない。自分自身が変人であるという自覚に対してネガティブな感情を持っている方はことさらに「自分は変人だ」と表明することはない。だが、なんらかのきっかけでネガティブな感情を克服し、自分の変さを個性や特性だとポジティブに捉えるようになると、変人であることは自己肯定感を高めたり、アイデンティティの一部となったりする。そして積極的に「自分は変人だ」と表明する人も現れる。
2つ目は、戦略的な変人だ。自らをある集団内で差別化して目立つために、客観的に何が変かを分析して、自ら設計した変人像に自分自身を努力して近づける。これは、芸能人が業界での生き残りをかけてキャラを立たせようとするなど、社会でも一般的に行われていることの一形態だ。だが、「自らを変人ではない」と自覚している人が、「自分は変人だ」と表明していることになる。
ではなぜ自称変人は批判されるのか。一つ目のタイプが「おまえは変人ではない」と批判される場合は、「普通とは何か、変とは何か」という価値観の衝突が起きているときだろう。つまり、Aさんが生まれ育った環境ではAさんが変だったが、Bさんの環境にとってはAさんの存在がなんら普通だった場合、人はどうしても自分自身の判断基準が他人も同じだと思いがちなので、Aさんに対してBさんは「なぜ普通なのに変人だと言っているのだろうか?」と感じるのだ。また、二つ目のタイプが「おまえは変人ではない」と批判される場合は、戦略的に変人になろうとしたものの、本人が無理をしている様子を周囲が感じてしまうなどその戦略的な意図が見え透いている場合や、設定した「変人像」が周囲の「変人像」からずれている時だろう。


変人称賛批判は企業や社会の安易な変人活用への警鐘か?

パターン②「アンチ変人称賛型」
このパターンは、「変人をいいものだとみなすこと」を嫌悪する意見だ。「変人は世界を変える」とか、「変人はイノベーションを生み出す」といった論調に対して、「変人はそんなにいいものではない」と批判する。この批判をする方々はもしかしたら、過去に変人から被害を受けたり、そういった事例を聞いたことがあったりするのかもしれない。「迷惑な変人」による被害を告発し、無批判に変人を称賛することを嫌う。変人の存在が誰かにとってよいものであるのと同様に、誰かにとっては迷惑な存在であることは間違いない。このパターンの批判をする方々は、非常に客観的かつ変人の本質を理解した視点を持っているように思える。つまり、変人は善悪や価値判断の枠外にある存在であるということだ。変人は、あくまで、「ある判断者が、ある集団の中で想定される普通の枠内に対象者が入っているかどうかを検討した結果、普通の枠内からは外れていると判断した人」のことでしかない。それが、善いことなのか悪いことなのか、価値があるのかないのかはわからない。そんな前提を忘れ、ことさらに変人を歓迎する風潮があることは私が以前「変人採用」の記事でも指摘した通りだ。


変人崇拝は、人々の可能性を消し、多様性の阻害要因に

パターン③「変人崇拝型」
このパターンは、簡単に言うと「変人はもっと偉大、あるいは極端な人々のことを指すので、あなたは変人ではない。」という内容の批判だ。この批判を行う人々にとって、変人は崇拝すべき全知全能の神のような存在だ。具体的にどんな人物が変人に該当するのかと尋ねると、スティーブ・ジョブズやレオナルド・ダ・ヴィンチのような人類の中でも一握りの異能・異才の名前を挙げる。変人への道のりは遠く、変人のハードルが高い。多少変なぐらいでは変人とは認めない。そんな人々だ。「普通」の範囲が極端に広いともいえる。この方々がやっかいな点は、批判が叱咤激励ではなく否定になっているところだ。もっと尖りなさい、変人になりなさいと応援するならともかく、おまえはたいしたことはない、変人はこんなにもとてつもない存在だけに与えられた称号だ、といった調子に潰しにかかる。出る杭を打っている状態だ。だが、おそらくこの人々が変人と認める人々も、最初はちょっと変なくらいからスタートしただろう。また、当然ながら変にも多様性がある。この批判は、今後大きく化けるかもしれないちょっと変の萌芽を摘み取り、社会の多様性を否定する方向に力が働く。

このように変人へのアンチコメントについて考察してきたが、ひとえに批判といっても様々なケースがあることをお分かりいただけただろう。変人を考える時、普通とは何かを考えることを避けて通ることはできない。そして、人々にとっての普通観は、それまでの生まれ育った環境やその人の価値観などが大きく影響するものだ。そのため、普段オブラートに包まれていた人々の相違点があぶりだされる。変人についてアンチコメントを寄せてくる方が、冷静な意見よりも感情的な意見が多いのだが、そういった背景があるからだろう。変人を議論することは、人々の究極な多様性を理解することにつながるし、変人の議論を踏まえた社会づくりは、真に多様性を尊重した組織づくりや社会づくりにつながるものだと考えている。

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