喫茶店の人

「ナオちゃん、ナポリタンセット上がったよ」
「・・・・・・へぇい」
 マスターとウェイトレスの、いつものやり取り。ナオちゃんと呼ばれたウェイトレスが、機敏とは言い難い動きで料理や飲物をトレーに乗せ、テーブル席へ運んでいくのを巧也は見るともなく見ていた。
 この喫茶店『メディウス』は、駅からだいぶ離れた住宅街の小さな商店街の一角に立地する。ほぼシャッター通りと化していて商店街としての機能を果たしていない商店街だが、中には根強いファンが世代交代しながら長年にわたって支えている店もあり、開業四十年近い『メディウス』も、そういう人気店の一つだ。
 巧也は近所に住んでいて、「昭和な喫茶店」を知らない世代。物珍しさから入ってみたのが、通うようになったきっかけだ。焙煎からこだわった味が濃く香り高い本格コーヒーは、シアトル系コーヒーチェーンやコンビニのコーヒーに慣れた舌には衝撃的だった。カレーやスパゲティなどの食事メニューも美味しく、デザートのスイーツも充実していて、たいして便利でもない、人通りも多いとは言えない場所に立地しているのがもったいないと思えるほどのクオリティを誇っている。週末は欠かさず通うほど巧也にとってお気に入りの店になった。
 ただ、一つだけ、どうしても理解できない謎がある。ナオちゃんの存在だ。
 ランチタイムのピーク時でも、遅い午後の空いた時間帯でも、やる気があるのかないのか、ナオちゃんのペースは一定だ。マスターに声をかけられない限り動こうとしないし、お客にお冷やのお代わりを頼まれればサーバーを手に取るが、そうでなければコップが空になっていても知らんふり。カウンターの端が指定席で、背中を丸め頬杖をついただらしない姿勢で座り、スマホをいじったり、スポーツ新聞の競馬欄を読みふけっていたりしている。
 マスターも、そんな態度のナオちゃんに不満を抱いている様子がないのも不思議だった。叱ったり苛ついたりしているところを見たことがない。親子か親類なのかなと巧也は想像してみるが、どうもしっくりこない。ナオちゃんはマスターにも、たまに見かけるマスターの奥さんにも、まるで似ていないからだ。コロナ禍の最中はずっとマスクで隠されていたから気づかなかったが、最近はたまに外していることがある。マスクの下から目鼻立ちがくっきりとした美人の素顔が現れたことに巧也はたいそう驚いた。
 ただ、それだけになおさら、仕事ぶりのダラダラ加減が残念でもあった。
 
「ナオちゃん、カレーのランチセット一つ」
「ナオちゃん、こっちも注文頼む。ミートソースとオムライスね」
「・・・・・・へぇい」
 お客さんの間でのナオちゃん人気は高い。常連客はナオちゃんに話しかけるのを楽しみにしているようだし、ナオちゃんも言葉数は少ないものの、きちんと相手にしてあげている。愛想の要素がゼロなわけではないのだ。
 そういえば、と巧也は思い出す。通い始めてわりとすぐに顔を覚えてもらえたみたいで、席に座るとお冷やのグラスを置きながら「いらっしゃい。いつもの?」という聞き方でオーダー取りをするようになった。
「あ、はい。それでお願いします」と頷くと、ほんのわずか口の端を上げるミクロな微笑みを返してくる。それだけで、歓迎されていることが伝わってくるのがすごい。
 なるほど、と巧也は納得したものだ。いくら仕事に積極性が皆無でも、暇さえあれば新聞の競馬欄を愛読していても、誰も文句を言わないのは、これが理由なんだ、と。
「ナオちゃんって、ここでどれくらい働いているんですか」
 ある意味、客あしらいの隠れた天才なんじゃないかと思いながら、巧也はカウンター越しにマスターに聞いた。
「ん? えーっと、そうだな、10年にはなるな」
「は?」
 まさかそんなに長期間にわたって働いているとは思わなかったので、巧也は一瞬絶句する。「え、あの、アルバイト・・・・・・なんですよね?」
「そうだよ」
 それが何か、とでも言いたそうな口調でマスターは肯定した。
 いや10年非正規雇用って・・・・・・。そりゃマスターも個人事業主なんだろうけれど、従業員の雇用形態が10年変わらないってどうなんだろうか。それよりなにより、彼女は今いくつなのか。自分より二つ三つ年上くらいと見ていたのだが、どうやらだいぶ人生の先輩のようである。
 
 ある週末、用事を済ませた後、巧也は少し遅めのお昼にしようと『メディウス』に寄った。ピークを過ぎているせいか、客の姿はなく、カウンターの中でマスターが暇そうにしていた。
「おう、巧也君、いらっしゃい」
 ナオちゃんはホームポジションであるカウンターの端で、いつものように背中を丸めて頬杖をつき、スポーツ新聞を読んでいたが、ふと顔を上げた。巧也と目が合うと、小さく頷いて立ち上がる。お冷やのコップを巧也の前に置き、「ランチのカレーは終わり」と低い声で囁いた。
「そ、そうですか」
「今日はやたらとカレーが出る日でさ、あっという間になくなっちゃったんだ」
 マスターが頭を振りながら説明した。「まぁ、今日は早仕舞いだからちょうどよかったかもな」
「早仕舞い?」
「外に貼ってあるポスター、見なかった? 今夜はライブだよ。機材を入れたり客席を作ったりの準備があるから喫茶店は三時で閉店」
「ライブ・・・・・・って、誰がライブやるんですか」
「ナオちゃんだよ。決まってんだろ。コロナでずっとできなかったメディウス名物のライブが三年ぶりに復活するんだ」
「へぇ、ナオちゃんが歌うんですか」
 巧也は驚いて、マスターとナオちゃんを交互に見た。「なんか、すごく意外」
 人前で歌うようなタイプとは思わなかった、そう言うと、今度はマスターがギョッとした顔をする。
「・・・・・・ちょっと待て、巧也君。キミ、まさか知らなかったのか」
「え?」
「ナオちゃんはもともとプロの歌手だぞ。十代の頃はアイドルで、テレビにもよく出てたんだが・・・・・」
 巧也はコップを口に近づけた格好のまま凝固した。口はあんぐりと開き、目はこぼれ落ちそうなほど見開かれている。
 その姿をチラッと見たナオちゃんがフッと笑った。
「私がアイドルやってた頃、この人まだ幼稚園とかでしょ。知るわけないよ」
 
 マスターの奥さんのお兄さんのお嫁さんの兄弟の娘。それがナオちゃんなのだそうだ。もはや親族と言っていいのか判断に迷う薄いつながりだが、ナオちゃんは芸能界を引退した後、親類が経営している店だからという理由で『メディウス』を頼ったらしい。詳しくは聞いていないが、実家に戻れない事情があるのだという。
 ちなみに10年アルバイトの待遇で満足しているのは、「アイドル時代に一生働かなくてもいいくらい稼いだから、趣味でバイトしてるんだ」とマスターは言う。そんな出来の悪い都市伝説のような話を信じるほど巧也は世間知らずではない。ただ、趣味という部分には少し共感した。たぶん、ナオちゃんにとっては音楽が「本業」なのだ。
 『メディウス』でのライブは、しっかり聞かせてもらった。アコースティックギターを抱えて、のびやかな歌声を響かせるナオちゃんは、すごくカッコよかった。感染症対策のため15席ほどしか設けていなかったことが残念に思えた。
「コロナになる前は、立ち見も入れて50人以上のお客さんが来たんだよ。来年はそれくらい世の中が復活しているといいねぇ」
 マスターの言葉に、巧也は素直に頷いた。
 しかし、それにしても。『メディウス』はもの凄い宝物をバイトで雇っているんだな。便利ではない立地といい、なのに繁盛していることといい、従業員といい、不思議な店だと巧也は首を捻るしかない。
 ナオちゃんの謎が解けた代わりに、今度は『メディウス』自体が謎の魔宮めいて見えてきてしまうのだった。

(稲毛新聞 2023年1月号・2月号に掲載)
 


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