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取らぬ狸の皮算用


こんにちは、さるすべりです。

前回の記事では、
確率がどうだ期待値がどうだと
そんなお話をしてきたのですが、
ここで真っ直ぐ進んでしまうと思わぬ落とし穴にハマってしまうので、
少し息抜きがてら、まわり道をしながら進んでいきたいと思います。

確率なんて、都合の良い解釈だ

負けたからクズってことじゃなくて
可能性を追わないからクズ…
伊藤カイジ


前回の記事では、
来るだろうと見込める確率に見合わないオッズがついている選手を探す
という記載をしていたのですが、
この自分が思う見込みの確率は
いったい何を根拠としているのでしょうか。


一応は「連対率」のような
統計上のデータはありますが、
相手関係などで変化するので全面的には信用できるものでもありませんし、
結局は「主観」に頼るしかありませんよね。

その主観は、
選手の特徴であったり展示気配であったり、
さまざまな要素を積み重ねて出来るものですが、
人それぞれ信じる要素が違ってくる以上、
その主観から判断する見込みの確率についても
人それぞれであるということは言うまでもないでしょう。

見込みの確率は主観によって上下するものであることが分かるのですが、
実は見込みの確率であろうとなかろうと、
「確率」というものに対しては、
主観が影響するので確率の捉え方は人それぞれなのだそうです。


つまり、私たち人間には
「確率に主観的な重みづけをしてしまう」
という傾向があるようです。

これだけだとわかりにくいので、
いくつか事例を出してみましょう。


たとえば極端な例ですが、
墜落事故が怖いからといって飛行機に乗りたがらない人が一定数いるのですが、

こういう人は、
飛行機事故なんて滅多に起こるものでも無いのに「自分が乗った時に事故が起きたらどうしよう」なんて現実的でない不安を感じているのに、
飛行機に比べるとよっぽど事故を起こす確率が高い車には何の不安も感じず、平気で運転してたりするんですよね。

つまり、
飛行機事故が起こるという低い確率に対して、
自分が乗る場合(主観)には、その確率に
勝手に自分で重みをつけている状態です。

こういったことから、
私たち人間は主観によって
客観的な確率が低いものを高く評価し、
客観的な確率が高いものを低く評価してしまう
傾向があると言われています。


うーん。
主観、客観的というと
ちょっと分かりにくいかもしれないですね。



たとえば、宝くじの場合はどうでしょうか。
他人が買っているのを見ても当選確率を知っているので(客観的に)見ていても当たる訳がないと思うのに、
自分が買った時は(主観で)「万が一当たったらどうしよう」と低い可能性に過剰に重みづけをしているような状態になることが多いと思います。

余談ですが、
宝くじの1等当選確率は2000万分の1と言われています。
一般的な確率論では、ある程度の小数点以下の数字は0とみなしていいことになっているそうなので、宝くじの最高配当が当たる確率は0%と言っても良いらしいです(笑)

そんな確率の宝くじでさえ、
「買わなきゃ当たらない」
とかなんとか言って、都心のチャンスセンターなんかに行列を作ってしまうんですよね。

夢のないことを言うと、
買ってもまず当たらないし、
買わなければ損をすることはないんですが、
低い確率を実際より高く見積もって、結局損をしてしまうのが人間なんです。

まぁ実際に当たっている強運の持ち主はたしかに存在しますし、買って夢を見ることが楽しみでもあるので、買うこと自体を否定していません。
ただ、どこで買っても確率は変わらないのに、有名なところでわざわざ行列を作って待っているのは「時間の無駄なのにな」とは思ったりします。

脱線しすぎてしまいました、話を戻します。



こんな傾向が強い人がギャンブルをして負けているところを想像してみます。

例えば
スロットを打っていてボロ負けしている時に
「フリーズさえ引ければ・・・」
とそうそう出会わない低い確率のプレミア演出に期待を寄せて、もう辞めたほうが良いと分かっているのになかなか辞めれなかったり、

競艇で負けている時、
どう考えても本命レースでしかなさそうなレースでも「事故で荒れたレースになる可能性だってあるだろう」、「一番人気は来ないの法則」
とか言って、ガチガチにしか思えないレースでも
当たるわけがなさそうな無謀な宝くじ舟券を買ってしまったりすることもあるはずです(昔の僕です笑)。

要するに、
明確な確率の有無にかかわらず、
私たち人間は、主観で確率を捻じ曲げるので、
そもそも確率というものを正しく捉えることができない生き物である、
ということなんだそうです。

なので、
元も子もないことを言いますが、
期待値を追うだとか確率がどうだとか言ったって、
主観で確率の判断をしている限りは『取らぬ狸の皮算用』に終わってしまうことばかりだったりするんですよね。

カイジのように、
可能性を追うって言ったって、
その可能性は正しいかどうかなんてわかりっこないんです。

たしかに理論上は、
期待値が1を上回るギャンブルにのみ参加しているとプラスに収束していくはずなので、
「必勝法」のようにさえ思えるのですが、
実際はその計算の元となる確率が主観によって捻じ曲げられてしまうので、
そう簡単に上手くいくものでもないということです。

こういった人の持つ本能の部分については、
脳の構造の問題でもあるので、
知っていたところで取り除くことができるものでもありません。
知っていても、それ以上に人間の心理は複雑に絡み合っているので、
同じ過ちは繰り返してしまうんですよね。

それでも、
知らなければ過ちを繰り返していることにすら気付かないので、何度も同じ過ちを無意識に繰り返し続けてしまうのですが、
知ってさえいれば後から気付いて修正しようとすることができたり、直前で踏みとどまったり疑ったりするくらいはできます。

それって大きな差なんじゃないかと、
割と真剣に思っています。

感情や主観を完全に排除できるようなシステムを作って、特定の条件下のみ作動するようなプログラムを組むことができれば、
客観的な確率に基づいた必勝法も夢ではないのかもしれませんが、
私のような機械音痴の凡人には夢のまた夢な話です。

それができない以上私たちにできることとしては、
期待値感覚を持とうとする一方で、その見込んでいる確率はそもそも正しいものなのか、
何らかの思い込みで過剰に期待してしまっていないかと、
その都度確認しながら、少しずつ地道に修正して意思決定の質を高めていくことではないか、
なんてことを考えています。



つづく

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思い込みについて。







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