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浮世と生活

かつて、明治時代くらいの高尚な生き方といえば、朝から晩まで学問と思索に明け暮れ、名声や地位を得て、家のことなどは妻と女中さんに任せ、4、50歳で壮年を引退すると、大きな家の離れや田舎の別荘で隠遁生活をし、知的生活の集大成となるエッセイをまとめるような生活だったと聞きます

生活のための一切の労働から解放された生き方は、高尚で、誉高い名士の暮らしとされたようです。

これが高度経済成長期の一億総中流の波が出現すると、農漁業や商業など、生活労働に明け暮れていた人々に、「勉学に励み、身を立て、良い企業のサラリーマンになることで、都会的な、文士的な生活ができるようになる」というふうに形を変えて、全国津々浦々に流布されました

長男には生活労働をさせず、朝から晩まで勉学で忙しくさせ、音楽や書の習い事を嗜ませる。

私の父もそんな昭和中期の典型的な庄屋の長男でした。

祖母は、北陸の裕福な庄屋の娘でしたが、当時の女性としては珍しく上京して大学の文学部を出て、子供には、作物の取れ高が安定しない農業に依存した生活よりも、都会的で裕福な文士生活をさせたいと、強く願って教育に投資をしました。

彼は田舎から大学に進学し、やがて都心郊外に家をもち、平日には農業や漁業、料理や掃除などの身辺労働から解放され、仕事に明け暮れた後に近くのスーパーやコンビニで日用品を揃え、休日には本を読み、一流の料理人のいるレストランに通い、豊かな生活を送るようになりました。

そんな生活と引き換えに、サラリーマンは企業から求められたどんなことにも応じないといけない責任が付きまといます。

職種の選択や勤務先の選択、上司の選択に不自由し、常に売り上げ向上、業績改善の成果を求められ、この達成のためには、時には健康的な生活を犠牲にし、心身の健康までも差し出さないと評価されない。

これがサラリーマンとしての都会的生活の二面性です。

そんな中で、バブルが崩壊し、経済が低成長、成熟期に入ると、サラリーマンの中に、都会的な文士生活を送るために、心身を捧げた会社が次々と傾く様を見て、会社のために生活をおろそかにし、売り上げ向上、業績改善のために粉骨砕身する生き方に疑問を覚える人が出てきたのではないでしょうか。

近年の自己回帰の風潮、企業への所属意識の薄まりは、このような流れを汲んだものと理解しています。

江戸時代の都市の人々は、享楽と理不尽の狭間に生きるこの世を「浮世」と呼びました。

私には、現代の都市生活は、金銭的安定のために生活を霞を食うように不安定にする浮世のように感じられます。

都会に生まれ育ち、文士的な学問に明け暮れた私が、生活を大切にすることを学んだのは、大人になって祖母の実家に里帰りしたお盆休みでした。

広い庭を快適に保つための草むしり、築50年の家の掃除。お手伝いに来てくださった方のために作る何十人分もの料理

大鍋をかき回したり、畳をひっくり返したり、マスクをして除草剤を撒くような生活の労働に触れて、初めて、これまで都市生活の中で自分がどれほど生かされてきたかを学びました。

都市生活は、時に生きている実感を失ってしまうほどに、自動化された生かされる装置の中で生きる生活です。

こんな生活に少し抗って、自分のことを自分でしたいと、ねがうこの頃です。

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