機械クジラとシュレディンガーの猫


バンジョーとカズーイの大冒険っていうゲームが私を形成してる
好きだった
箱庭ゲームというのが好きだった

いろんな世界が、空間があって
でも世界の果てが明確に存在してて
空も海も、境界に行くと音楽がゆっくり消えて
急に無機質なポリゴンになる感じ
トゥルーマン・ショーと同じ

今のゲームは隅々まで人の手が行き届いていて違う
今の感覚で古いゲームをやったところで手に入らない感覚

あの空虚は
小さい頃にワクワクしながらやったゲームの中でしか手に入らない

ディズニーランドのカリブの海賊を乗っていた時に小さな私は
ずっと天井の照明とキャットウォークを見ていた

大人が作った嘘の空間
夢と現実が同じ空間に共存している事に気づく瞬間
それに惹かれる



小さい頃から洞窟とか
IKEAの倉庫みたいな空間が好きだった

バンジョーとカズーイの大冒険と同じで
大きいのに果てがある空間に安心を感じる

私はディズニーシーのミステリアスアイランドの岩陰から空を観るのが好き
岩場の中にぽっかりある空は、飛んでいけばいつかポリゴンがあると思ってしまう

自然が好きだという気持ちには共感できない
私は夜の公園で走っている間も、どこかこの公園自体もポリゴンで出来ていると感じてしまう

それ自体が夢想だけど
私は夢想に入りきれない夢想の感覚がある



演劇を観ても照明や袖を見てしまう
構造を探ってしまう
私は世界を構造的に捉えているんだとおもう

初めてバンジョーとカズーイの大冒険で世界の果てを見た時に
夢から醒めて自分を客観視する感覚を得た

小さい頃だからそんな論理的には捉えてないけど
ワクワクが消えて「これは機械だ」となった瞬間
全く別の感情が生まれた


私はどんなものを観ても
制作者の意図通りに世界に入り込む事は出来ない
何を伝えたくて描いたんだろうとか
なんでこんな風に振る舞うんだろうとか
そんなことばっかり考えてしまうのは
私は世界がポリゴンで出来ていると感じてしまうからだと思う
私は構造を知りたい


言葉を言葉通りに受け取れない
表出しているものは全部ガワで
内部構造がどうなっていて、要するに何を言いたいのかを探ってしまう





バンジョーとカズーイの大冒険の中に
クランカーの洞窟というステージがあって

そこは汚水の中のゴミ処理場で
真ん中にはクランカーという機械クジラが鎖で繋がれていて
クランカーはゴミを噛み砕いて処理する為の存在で、最初にそのクランカーの鎖を解いてやるところから始まる

でもそのステージは、大きなクランカーが外に逃げる場所は無くて
本当に箱庭で、天井も封鎖されてて、鎖を外してもクランカーが汚水から浮上して汚い空気を吸えるだけ
クランカーはゴミ処理施設でごみを処理する為だけに作られた意思のある機械クジラ


なのにクランカーは悲観していない
「助けてもらえませんか?空気が吸いたいんです〜」
みたいな
敬語で穏やかで大きな事を求めない

細い配管を泳いだ先に居るクランカーは
初めに会った瞬間は心臓が止まるほど怖い
泳いでいたら突然目の前に途方もない大きな捕食者の目と口が現れるから

危害を加えてくるような見た目をしているのに
汚くて薄暗い、水に沈んだゴミ処理場の中なのに
クランカーは自分の運命を悲観していない



私クランカーになりたい
機械クジラになりたい

クランカーは大海を求めてない
汚れていても空気が吸えれば良くて
ちょっと虫歯が痛いから折ってもらえたら
それで良くて

誰も居ない空間の中で
薄暗い箱庭の汚水の中で
永遠にゴミ処理をしている

ものすごく残酷な運命の中にいるのにそれに気付かない無垢さが羨ましく感じる


私が今埃を被せてしまっているバンジョーとカズーイの大冒険のカセットの中で今もクランカーは一人でゴミ処理してる
90年代のポリゴンの汚水の中で息してる
色んな人にトラウマ与えながらも楽観的に世界捉えてる
クランカーは大海を知らない、空の深さも知らない
だからずっと心が無垢なまま



世界なんて知るから苦しい
人間は世界を知るからこの世の苦しみを知って
旅をして旅をして人生掛けてやっと真理を知って苦しみが緩和されて
でもその最期にも死苦が来る

クランカーは自我が育たない箱庭に生まれたから
永遠に同じ動作を繰り返してても悲観が生まれない
今もカセットの中でゴミを噛んでる
最初から苦しみを知らないクランカーは旅なんかしなくても苦しくない

胎児に戻りたい感覚と同じなんだと思うけど
胎児もいつか外に解放されてしまう
クランカーは外に出る事がない
ゲームが壊れてもゲームの中で消えるだけ




クランカーに苦しみが訪れる時は海を見た時だと思う

私はかけがえの無いみーちゃんという猫を失って
みーちゃんは私が生きている限り絶対に越えられない壁の向こう側に行ってしまった
私はこの自分の命っていう壁の向こう側にみーちゃんが居ると思っている
もう居ないかもしれない
でも見ないと、私が死んだ先にみーちゃんが居るのか居ないのかを知らないといけない

私は世界を構造的に捉えている
シュレディンガーの箱の中に私の一番大切なみーちゃんが入れられてしまった
私はその箱をずっと抱えていて、開けなければいけないっていう焦燥感に駆られている

スピリチュアルを信じる事が出来るなら「この箱にはきっと生きたみーちゃんが居るから箱ごと愛そうね」ってなれるんだけど
私はどうしても世界を0と1で確認しないと気が済まない

これを開けないとみーちゃんに会えないなら開けたい
もしこの箱の中にみーちゃんが居ないなら私も消滅するだけだからそれで良い

私は今後の人生で、みーちゃん以上に大切に思えるものが出来るとは到底思えない
みーちゃんの代わりに何を手に入れられようともみーちゃんを選択する
クランカーにとっての海、私にとってのみーちゃん

何をしたって手に入らないものが
壁の向こう側に存在してて
クランカーはゴミ処理場の壁の向こう側に海があると知ってしまったら全てを知ってしまう

私はみーちゃんに出会って後悔なんか何一つ無い
でもあまりにも存在が大きくなり過ぎた
私にとっての世界になってしまった
突然、みーちゃんの居ない世界に放り出された
みーちゃんの物理を感じられない世界に私は来てしまった

どれだけ悟りを開こうとも
最後のみーちゃんの真理だけは理解したくない
だからシュレディンガーの箱を開けたくなる


クランカーが海を知ったらポリゴンを壊そうとする
自分を形成するポリゴンが、自分の一番求める世界に行かせないなら壊すよ


クランカーは何も知らない事を許されている
何も知らなくても良いなんて羨ましい

私には許されていなくて
だからみーちゃんに出会えた
そしてみーちゃんを失った




アトモスフィアという曲を作ったことがある


私は今、自分がガラスの半球の中に居ると知ってしまった雪だるまで
もう外があると知ってしまった以上、宇宙を知りたいと思ってしまった

自分が壊れる何年も前にこの曲を書いていたってことは、私はとっくに外に行きたがっていた
みーちゃんはスノードームの中にもう居ない
みーちゃんは恒星になった

乾いた空に幾千の道 
巻き上がる灰に包まれていた 
引力の渦 斥力の風  
銀河に向かい歩き続けた

夜空を舞って気流に乗って
大気圏すら気付けば越えて
そうして知った 銀河にとって
僕の存在は特別じゃないと


知る事がこんなにも苦しみを伴うなんて知らなかった
でももう私はクランカーになれない
知らなかった自分に戻れない


私は機械クジラになりたい
でもなれない
私は大海も空の深さも知ってしまった

何かの真理を一つすらも知らなければ
独りきりで汚水の箱庭の中で永遠にゴミを噛む事は苦しい事ではなくなる
究極の無明の中にも極楽があるなら、それもまた魂のゴールな気がしてならない


虫とか植物みたいに、とりあえず今の科学では自我が無いとされている命は
もしかしたら人間よりも徳が高いのかもしれないよね

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