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昨日の私と今日の私、そして、明日の私

 昨日の自分と今日の自分を比べたことはありますか?そして、明日の自分をイメージしていますか?
 私は、常に前向きに、昨日よりも今日、そして今日よりも明日。なりたい自分をイメージして生きることを習慣化しています。だってね、なりたい姿になれるって思うと嬉しいでしょ?楽しいでしょ?毎日のワクワクが、みんなに伝わりますように…毎日の幸せがみんなを幸せにしますように…って思うんです。
 そして、自分を客観視することってありますか?私は、何をしても、常に自分を客観的に見るように努めています。それは、何故かって?答えは簡単。客観的な視点を養うため。
 自分を自分で評価することは難しいです。ただし、客観的に見る習慣をつけていると、いつの間にか、自分のことを評価できるようになります。過大評価は必要ないけれど、正当な情報を元に分析された自分を見ることができるのです。これは、結構楽しいことだって知りました。評価とは、事物や人物の、善悪・美醜などの価値を判断して決めること。ある事物や人物について、その意義・価値を認めることを意味し、「外見で人を評価する」「評価できる内容」「仕事ぶりを評価する」として使用されます。
 小学生の頃の私は、よく父親と仕事をしていました。仕事をしていました?おかしな表現ですが、厳密に言えば、仕事の手伝いをしていたという方が正しいかもしれません。トラックの中古車自動車の販売だったので、手伝いと言っても男の子が手伝うような内容なんですけどね。これが結構面白いのです。トラックに乗ったり、クレーンの運転補助をしたり、エンジン運んだり…いやいや、おかしいやん…と気付いたそこのあなた、そう、おかしいですよね〜
 だって、私は小学生!
 運転したらあかんでしょ〜〜トラック乗ったらあかんでしょ〜〜
なんですよね。
 クレーンの補助はもっと楽しかったです。上下左右に回転、重さと傾きなどなど高校生のときにやっと理解できた運転も、色々とさせてもらいました。多分、私って、この頃から、ある意味女子を捨てていたんでしょ?と振り返ってみました。いや、女子に扱われていなかった。という方が正しいかも?ですね。
 今でも覚えていますが、これは父がよく言っていた言葉です。
「男は客観的にモノを見ることができるが、女は主観でモノを言う。」
「主観」も「客観」も、そもそもの言葉の意味が分からない小学生に向かって言うんだから、父って何者なんだろう?と思いますよね。多分、言って分からなくてもきっと分かる時が来る。だから感じたままを説明するってことに注力したのかな?って思います。
 私は小学生ながらに、この言葉を聞いた時、
「私は女だけれど、絶対に主観でモノを見ないし、主観でモノを言わない。」
って決めました。小学生の私は、「決断する」ということを難しいと感じなかったのです。ある意味すごいですよね。我ながら感心です。でも遺伝子はもっと凄いですよ。うちの三人の子供達はみんな「決断」できます。何事も自分で決めます。もちろん、決めるための相談には乗ります。だけど、私は決定はしません。「決断する」ということを教えるのも親の役目だと思います。と余談でしたが、我が家の子供達でした。
 私は、いつだって、自分で決めてきました。小学生で徹夜していたことも、進学先を妥協しなかったことも、結果受験に失敗したけどめげずに頑張ったことも。でもこれって、きっと父が教えてくれていたんだろうなと思います。

 親の決めたレールに乗る。親の言いなりになりがちな長女。実際逆らったこともなく、なんでも「うん」と頷いてきた子供の頃。楽しい父だったけど、本当は怖かったです。叱られるのが怖くて、すごく真面目に取り組んだ中学校時代。思い起こせば色々なことが出てきます。すっごい真面目に勉強もしたし、部活にも取り組んだのに、高校受験には失敗し、大学浪人ならぬ高校浪人になりました。一気に友達をなくし、世界が変わり、付き合う人も変わってしまった、定時制高校時代。それはそれで、懐かしい思い出です。苦しい中に楽しみがあることも15歳で知ったような気がします。15歳で経験しないことを経験してくると人間強くなるものです。そして人の痛みの分かる人間にも成長するものです。
 そして私は、そこから這い上がり、再受験に試み、割と難しいと言われた国立高松工業高等専門学校に合格し、人並みの高校生活を送ることができました。これも父のお陰だと思います。私に忍耐と強い精神力、他者を比較にしない生き方を教えてくれたのですから。
 浪人時代は高校の定時制に通いながら、昼間は経理専門学校へ通いました。夏で定時制を自主退学して、昼間の経理専門学校を続けながら、夜は再受験の勉強に取り組む日々。明けても暮れても、訳のわからない簿記用語との戦いと中学の復習が入り乱れる日々。今思い出しても胸が苦しくなるような毎日だったなと思います。でも、それが実現できたのは、父がいてくれたから。経済的には大変な負担をかけてしまったなと思いつつの一年。何も言わなかっただけに、二度と失敗はできないと感じた一年でもありました。
 簿記の資格も15歳で取得できる全てを取得しました。国家資格は実務がないと受験できないという理由で受験こそできませんでしたが、一通り合格できたから、15歳にしては大したものです。
 高専は国立なので、公立高校よりも一足早い受験でしたが、無事に合格。涙の出そうな再受験でした。何が何でも「受かる」と決めた15歳。再受験なんてモノめずらしいから、試験官も必ず私だけを残す有様でした。聞かれた内容は対して覚えていないけど、多分「なぜ再受験したのですか?」だったような気がします。そんなこんなの15歳は、語っても語り尽くせない一年間でした。いや〜33年前の私、本当によく頑張りました。
 実はそんな苦労ばかりの私は無邪気な「3」という数字を持つ人。ここにきて33年前のことを語るとは、何と面白いことでしょう…どこまで3にご縁があるのかと思います。あっ!ちなみに起業したのは33歳の時です。ここにも「33」
 数秘から見た私は「3」の人。数秘って何なの〜?なんて思っていた私が数秘に出会ったのは、3年前。あっ、また3。数秘と刺繍【みるまに】を経営されている中組先生との出会いが始まりでした。数秘を知りたいというよりも、刺繍がしたいというところだったのですが。数字を刺繍する楽しい会で、刺繍は当然のように楽しくて、そこに数秘が合わさるものだから更に楽しいのです。
 そして、中組先生の数秘の読み解きが素晴らしくて、言葉を組み合わせることが苦手な私にとって本当に感動ものなのです。中組先生に言わせたらリードのついた子犬なのに、リードついてること知らないの。だから、自分はどこへでも行けると思ってる。ですって。一言でいうと無邪気なのか、バカなのか、ですけどね。
 大好きな中組先生のブログから抜粋させて頂いた言葉を少しご紹介します。
 「数秘3の人がお喋りになる理由(言葉に色をつける)」
 なにも考えていなさそうで意外と、会話の内容に期待している。情熱的で建設的で創造的で感動的。そして何より、彩りを感じること。色味のない殺風景(社交辞令的)な会話が嫌い。でもそれもできないこともない。(愛想がいいから)色味のないところに自ら色をつけようとなんとか埋めようと頑張った結果、おしゃべりとなる。色がないこと空白になってしまうことが落ち着かない。埋めたい欲求。その埋めたい欲求がプラスに働くと、かなりのハイクオリティーのものを創造するし、建設的で未来的で斬新ないいコミュニケーションが生まれる。それがマイナスに働くと愚痴・不平・不満・悪口・批判となる。
 そのときの自分から出てくる表現に色をつける。何色?それ好きな色?あなたの采配でその色を変えることができる。いま。あなたが発したその言葉は何色になってる?
 で、そんな私は3の人。そう。何にでも彩利が大切。楽しいことワクワクすること大前提。だから私のモットーはワクワク!なのです。
 「挫折と決断」を父ありきの人生を語ってみましたが、実は父は17年前に他界しています。そう56歳でした。若いですよね〜怖かった父、優しかった父、子供想いの父、頑張り屋の父。父の想いは今も私の心に今も生き続けています。きっとね、父は不安そうに私を見ているに違いありません。遠くのお墓から、じっーーとみていると。
「あいつは大丈夫か?」と聞こえてきそうです。。
 無邪気な子犬はしっかり者だけどおっちょこちょい。心配させることが得意な元気な娘。父が生きていたら73歳です。生きていてほしかったな。けど、父が生きていたら今の私の人生はないかな?とも思います。
 最後に、56歳で他界した父を想うと「人生とは何と儚いものなのか」と感じることがあります。今日の私は昨日よりすごくて、明日の私は今日よりももっともっとすごいのです!今日は二度と帰ってきません。明日があると思わないようにしています。今を大切に生きよう!精一杯の今を!と思います。父に感謝。そして父を支えてくれた母に感謝です。

 昨日の私と今日の私。そして明日の私、いつだって最高!です。

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