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天神様の使い。家族の一員だった牛と日本人の関係を考える

こんばんは、クラフトビア子です。

平日はほぼ、息子のお弁当をつくっています。お弁当づくりを始めて一年が経とうとしており、おかずづくりにもだいぶ慣れてきました。

息子がよく食べてくれるのが牛肉のしぐれ煮。生姜としょうゆ、みりんなどで甘辛くした王道のおかずです。調理が簡単で傷みにくいので、結構な頻度でつくっています。

そんなありがたい食材の牛肉ですが、日本人が日常的に食べるようになったのは明治維新のあと。牛鍋屋が都市部ではやるようになって、牛肉食が定着していったのだとか。

今では当たり前のように牛肉を食べていますが、普及するまでには心理的抵抗もあったようです。

世界でも牛を食べるのをタブー視する地域・宗教があります。私たちの先祖はどうして抵抗を感じたのか、どのようにして牛肉食が普及していったのかについて、今夜はスポットを当ててみたいと思います。


肉食は薬食いとされていた江戸時代

江戸時代以前も、日本人は野鳥の肉を食べていました。哺乳類ですが、魚とみなされていたクジラやイルカも食べていました。

狩人や皮革製品のために屠畜する人などは、殺した動物の肉を食べていましたが、神道や仏教が肉食を禁じていた社会の中で、肉食であるがゆえに差別の対象となっていました。

イノシシやシカは食べられていましたが、公然と食べられるわけではなく、病気をなおすための滋養をつけるための「薬食い」として食べられるだけでした。

黒船でやってきた欧米人たちが牛を食べ始める

幕末近くなって、黒船でやってきた欧米人たちが横浜に居留するようになると、食用として牛を買い求めるようになりました。

当時は農家で牛を飼うのはごく当たり前で、牛に鋤を引かせたり重い荷物を運ばせたりするなどしていたので、欧米人たちは近くの農家の牛を買おうとします。

ところが買われた牛が食用のために殺されるとわかると、どの農家も売ろうとしなくなったのだそう。というのも、農家にとって牛は家族も同然。死んでしまったら埋葬するほどに大切にしていたのです。

現代の感覚で言えば、犬に近いのかもしれません。古民家の展示を観に行くのが好きなのですが、江戸時代の農家には牛や馬を飼う納屋が必ずあります。家によっては、土間に納屋のスペースがつくられているケースも。人と近いところで牛が一緒に暮らしてきたのがわかります。

牛は天神様の使い。撫で牛で病が治るという風習も

菅原道真公を祀る天神様でも、牛は天神様の使いとしてあがめられてきました。天神社の境内には、牛の像があります。

江戸時代にはこうした牛の像を撫でると、病気やケガが治るという風習がひろまりました。病などの穢れを、牛の像の同じ個所を撫でることでもらってもらう、というまじないだったようです。

信仰対象にもなるような牛の肉を食べるなんて、特に農村部の人々にはにわかには受け入れがたかったのです。

国が牛肉を卸し、兵士に牛肉食を布教した

文明開化を推し進め、脱亜入欧のために欧米列強の文化を取り入れるのが、明治政府の掲げた方針でした。鹿鳴館や断髪と同じように、これまでタブーだった牛肉食を取り入れるのは、文明開化の象徴の一つだったのです。

明治維新によって、居留地以外の地域で欧米人が暮らすようになると、西洋式レストランがあちこちにつくられるようになりました。幕末には農家から牛が買えなかった欧米人は神戸牛に着眼し、ここからいまの和牛が発展していきます。

西洋式レストランは一般市民が気軽に行けるような値段ではありませんでしたが、牛鍋屋があちこちにできるようになりました。いまのすき焼きの原型となる料理を出すお店です。こうしたお店に対して、明治維新の翌年に大蔵省が国営の「牛馬会社」をつくり、牛肉を卸すようになります。

「牛馬会社」は幕府直営の牧場で飼われていた牛や馬をどんどん屠殺して、その肉が出回るようにしました。さらに戊辰戦争で負傷した兵士たちに、回復のために半ば強引に牛肉を食べさせました。当初は肉食に抵抗があった兵士たちも、食べてみたらおいしかったようで、故郷にもどると牛肉のおいしさを喧伝するようになったそうです。

ほかにも伊藤博文が牛肉を好んだとか、明治天皇の膳にも牛肉が出たとか、要人を挙げて牛肉食を推進した結果、一般市民にも牛肉食がひろまるようになりました。

最初の頃は牛鍋屋の前を通るときに、肉の匂いを嗅がないようにと口や鼻をおおっていた人たちが、明治維新から10年も経つ頃には好んで食べるようになったというので、そのスピードたるやという感じです。

農村では、やはり牛肉への抵抗が大きかった

日清戦争など、たびたびの戦争の際にも牛肉は兵士の食糧に取り入れられ、都市部や若者を中心に牛肉食はすっかり定着していきます。兵士の食糧となったのが、冒頭のお弁当のおかずとして紹介したしぐれ煮にそっくりな大和煮。

と、ここまで調べて気づいたのが、しぐれ煮と大和煮って同じものなのでは…ということ。調べたら、しぐれ煮とはハマグリやあさりの佃煮で、大和煮は肉や鯨肉の佃煮を指すようです。味付けはどちらも醤油や砂糖、生姜に酒なので、しぐれ煮は大和煮と同じみたいです。

というわけで、若者にはすっかりなじんだ牛肉食も、牛を家族同然に扱ってきた農村部では抵抗がありました。肉食そのものも、穢れとタブー視する傾向が強く、家の中で煮炊きすることもためらわれたようです。

通常の料理で使う鍋も穢れるからと、関西の方では農具の鋤を使って外で調理したのだとか。ここからすき焼きが生まれました。

農村部では時の流れとともに、牛肉食に抵抗のあった世代がいなくなり、肉食を受け入れる若い世代が増えて、牛肉食が広まっていきました。

まさか牛肉の普及に、ここまで政府が旗振りをしていたとは思いませんでした。明治維新は日本の食文化をも大きく変化させる役割を果たしていたのですね。

その後、自動車が牛に代わるようになって、農村で牛が飼育されることはほとんどなくなりました。いまは、当時の農機具や農家のつくり、絵や写真、文学などから、往時の農村の牛たちと人の関わりが垣間見える程度です。

乳牛や肉牛だけでなかった、日本人と牛とのかかわりに想いを馳せた金曜日の夜でした。


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