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詩は感情の伝達のために存在する?|エッセイ

 アンドロイドの彼氏がほしいと本気で願うときがある。最初にこの願望を抱いたのは、前の彼氏と別れたときだ。自分から振ったくせに、この世の終わりみたく落ち込んで、ゲームや本を楽しめなくなって、ただ天井を見つめるだけの不規則な生活になった。
 深夜、コンビニから酒を買ってきた帰りに、「私の気持ちや願望をなんでも受け入れてくれて、容姿端麗な、私のためだけに作られたアンドロイド彼氏がいればいいのに」と本気で思った。それから数年経った今でも、仕事や人間関係で疲れたときはアンドロイドの彼氏に慰めてもらう妄想をしている。我ながら気持ち悪い趣味だなと思うし、誰にも打ち明けたことはない。

 先日、家族にいらないことを言って傷つけてしまった。私の場合、人にいらないことを言ってしまうときは大抵「自分の気持ちを相手に汲んで欲しい」という願望が隠れている。私は毎日忙しくて、こんなに疲れているのに、なぜ分かってくれないのだ、という身勝手な感情。自分はいつも感情に振り回されてばかりだ。自分の感情を優先させたことで何度人を傷つけてきたのだろう。

 自分なりにこれを反省して、対処法を考えた。有用なのは、おそらく「目的を伝えること」だ。
 忙しくて辛い、という感情をそのまま伝えるのでは良くない。自分の忙しいという状況を相手に伝えるだけでも不十分。重要なのは、相手にどうしてほしいかを伝えることだ。忙しいから一人で休む時間が欲しいのか、プライベートを支えて欲しいのか、ただ慰めて欲しいのか、いずれにせよ目的を伝えることで相手をコントロールすることが大事だ。
 コントロールと言うといかにも上から目線のようだが、一方で、いつまでも「自分の気持ちを分かって欲しい」という態度のままだと、コミュニケーションにおいては下手に出続けることになる。これでは自分の要望は一生通らないだろう。だから、自分を理解してもらうのではなく、相手を動かす方が容易で効率が良いのだ。

 と、ここまで反省したところで、はて、では自分の感情はどこにいくのだろう、と思った。
 先ほどの「なんちゃってコミュニケーション方法論」の改善点を求めているのではない。もっと根本的な話だ。人はコミュニケーションを円滑に進めるために、自分の感情とは相反する行動をし、目的を最優先させ、相手の身分を保証するための共感をする。たまに本心から湧き出た感情が、相手の感情の波長と合うようなことがある。そうやってごまかしごまかしやっていくのが人間関係ではないか。

 世間の人々は、もっと純粋な気持ちで人と関わっているのかもしれない。けれど、私にはどうしてなかなか難しい。気の置けない相手などいない。いや、いなくはないけれど、そういう相手は3か月に1度会うか会わないかくらいの友人だけで、そういう相手に対する「気の置けない」というのは、言い換えれば「無責任」ということだ。
 近頃は、家族や彼氏に対して、この人たちはどこまでいっても他人なのだ、と思うことが多くなった。近ければ近い存在であるほど、自分との差異が見えてくる。相手は尊重しなければならない。それは相手本人のためなのか、もしくは相手との生活のためなのか。生活に追われて、お互いの関係性を保つためだけの言葉が口から勝手に出ていき、自分の感情は排除されていく。人と一緒に生活をするということは、そういう側面があるかもしれない。

 そうして、行き場のなくなった鬱憤や憂鬱や悦びの行きつく掃きだめが、詩や小説なのではなかろうか。自分の感情を最大限尊重する営み。もしくは、感情のコミュニケーションの手段。

 そうは言っても、詩や小説がコミュニケーションになるときはいつか、という問題はなかなか難しい。詩や小説は基本的に一方通行だ。人に読まれて初めて作品として成立するというし、一方で、読者のなかで全く新しい作品が再構成されるともいう。
 私の所感では、創作と言うのはどこまでいっても自己満足だ。人のために書くなんて、とんだ欺瞞だと思う。自己満足でなければ、よいものは生み出せない。

 そう考えると、私の「アンドロイドの彼氏が欲しい」という素っ頓狂な願望は、思いのほか詩や小説といった領域に近いものかもしれない。どちらにも、自分好みの対話相手をシステムとして構築したいという願望が隠れているのではないか。

 アンドロイドの彼氏を作るには、まず自分の意のままにコントロールできることが最重要事項だ。アンドロイドは、私の感情の波長とぴったりおなじに共感できる必要がある。たまのアクシデントやエラーが、人間どうしのコミュニケーションらしい自然さを生み出す。お互いが分かりあうに至るまでの障壁は、システムを組むうえでのトライアンドエラーの記憶が肩代わりしてくれる……

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