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考えることは泳ぐこと|エッセイ

 片づけをしていたら、高校生のときに使っていたメモ帳を見つけた。そのなかに、わりと芯を食った文章があったので、保存用に書き起こしてみる。

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 私は演劇部に入っていて、今はもう引退してしまったけど、あれはたぶん夏になったばかりの話だと思う。

 そのとき、部員である私と他高校生4人とコーチ2人がいた。私たちは文化祭公演で銀河鉄道の夜というとても難しい作品を演じるにあたって、練習をしてはいたけど、なんというか漠ぜんとしていて、なぜ銀河鉄道の夜という作品を公演するのか?お客さんになにをしたいのか?という部分がすっぽりぬけていた。

 それを見ていたコーチに私たちはそれがわかるまで話し合えと言われた。私はそのとき話し合えってどういうこと?という感じだった。まあ別によくわかんないしだまっていればいいかと思っていたら私が仕切れと言われてしまった。私はもう完全にパニックだった。その場にいる高校生のうち2人は私と同い年だけど、私は出戻りして1年間空白期間があったし、その時の私は本当に演劇がダメで、しかもこんな考える系のなんてめちゃくちゃ苦手だし、でもやるしかないと思ってとりあえず仕切りながら話し合いを始めた。

 まず、銀河鉄道の夜という作品は自己犠牲というのがテーマのうちの1つでそれをお客さんにしてほしいのか?という話になった。いやでもお客さんに自己犠牲を強いるとかは嫌だという意見が出て、たしかに。
 あとは友情の大切さ?とかいろいろ出て、たしかどうにかまとめてコーチに言ったと思う。でもそれはピシャリという感じだった。

 その後もこの話はこういうことだから~と作品のテーマにそって考えていたと思う。私はどうにか仕切ろうとししていたと思うけどまったくできていなかった。出てくる意見のどれを取捨選択すればいいかわからないし、私はどうも自信過剰なところがあって自分の意見を通してしまうし、でも自信が無くて、しかも脳カラなのでそもそもない意見を通すかだまるかしかしていなかった。

 テーマにそってお客さんに伝えたいことを考えてコーチに言ってもすべてちがうと言われた。今考えてみれば分かるけど、そういうことじゃないのだ。「私たち」が何を伝えたいのか?ということが大事なのだ。というようなことをたぶんコーチに言われ話し合いが再開。

 でももう私は、いみがわからなかった。コーチがどういう答えをまってるのか、何が模範解答なのか分からなくて、もう思考をやめかけていたと思う。いろんな意見が出た。もうおぼえていないけど。私は答えをさがすことしかしてないので、なにか案がでても、合ってるのかちがうのかでもう考えが止まっていた。「そもそもそれってなに?」という感じに。みんながとりあえずこれじゃない?と思う案を掘りすすめていくなかで、私はひとりもやもやしていた。自分がバカすぎて、みんなが何を言っているのかよくわからないというのもあって、本当に、「そもそもそれってなに?」ときかないと何の話をしているのかすら分からなかった。それで発言している気になっていた。だけど違うのだ。考えるというのは海をもぐりながら海底にある宝箱をさがすようなもので、その海っていうのはたいてい暗い深海で、ライトももっていなくて、自分がどこに向かってるのか、どこにいるのか、前もうしろも分からない状態でそれでも宝箱をさがすことを「考える」というのだ。私が「そもそもそれって」と言っていたのは、泳ぐのがつかれたからとクロールをやめて、海面にあがってきてしまうことをいうのだ。このときの私は、考えるということをナメきっていた。考えるということはめちゃくちゃ難しいことなのだ。

 この話し合いには、途中からコーチも助け船をだしてくれて、私はすぐに浮き輪につかまってしまう常習犯だったので、私がちょっと話を戻したり止めようとすると(しかも無自覚に)、「浮くな!」と言ってくれた。だからあのとき私は本当に考えた。考えていてもまったく分からなくて、そもそも考えるという行為がこれで合ってるのか?とまた無自覚に浮き、かろうじてだせた答えも1㎝深くもぐったようなものだった。

 それでも私のまわりの部員は相当頭が良いので、みんな意見を出し合って、答えが出た。肝心の答えは忘れてしまった。たぶん、みんなで一生懸命がんばって、お客さんに銀河鉄道の夜を伝える、みたいな感じだったと思う。私は「は?」と思った。なんだその答えになっていないような答えは、と思って、なんならイラついた。でもこれも今考えれば分かることだけど、当時部活は、中1がどっと増えて、仕切っていくのがまだまだできていなくて、中2や中3ともしっかりコミュニケーションがとれていない状態だった。だから、たぶんこれは合っていたんだと思う。でもまあそのときの私は全然いみわからず、こんなことかよと思っていらいらして、自分が全然考えることができずみんなの足をひっぱることしかできなかったことにふがいなさを感じて、とにかく悔しくてしょうがなくて、部活が終わったあと最寄りのホームのベンチにすわりながら泣いたんじゃないかと思う。もしくは自分の部屋のベッドで。本当にそのくらい悔しかった。

 こんなことが答えか、とあのときは思ったけど、本当にきっと世の中のあらゆる問題の答えは「こんなこと」なんだ。それを私は小難しいなにかだろうと決めつけていたから考えが進まなかったというのもあった。考えることは算数などとはちがって、答えは決まっていないという当たりまえのことが、このときの私には分からなかった。

 思い返せば、私は昔からたとえば音楽を聴いて、ちょっと内容が難しかったら、すぐにパソコンを開いてネットでいろんな人の解釈を見て満足していたし、なにか本をよみおわっても、すぐにスマホで本を読んだ人の感想を読んで、それを無意識に自分の感想として取りこんで面白かったとかつまんなかったとか一人前に思ったりしていた。

 私はこの16年間生きてきて、まるで自分の意見をもったことがなかったのだとあの話し合いのあと気がついた。どれだけあらゆるものを、自分の頭で考えなかったことで無駄にしてきたかも分かった。本当に、私には考える力がなかった。私は今でも、やっぱり考える力が足りない。考えるのをやめてしまうとき、合ってるかどうかばかりを気にして前に進めないときがある。例えば、受験勉強なんかでも本当にこんなことを勉強して意味があるのか?と悩んでしまうことがよくある。でもそれは、泳ぐのをやめて浮いているのと同じで、とにかくやってみなければ、なにも分からないのだ。合ってるかは分からなくても、「とりあえずやってみる」ことが一番大事で、それが正解だと思っても基本的にはまちがいだということ。昔の人だかが、理解することのほとんどは誤解だ、とか言ってたと思うけど、本当にその通りで、それでも怖がらずに、積極的に誤解していかなければ答えにはたどりつけないのだ。

 今の時代、スマホがあるから、調べればすぐにいろんなことが分かってしまうけど、そうではなくて、まず自分で考えること。そして考えるのをやめないこと。それが、本当に、生きていく上で必要な力だ。

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