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赤い鼻|創作

 父はだるま職人だった。俺の家の一階は、だるまを作るための作業場になっている。作業場には生地を流し入れてだるまの形に成型する機械や、だるまを赤く塗るためのスプレーや、顔を書くための筆と絵具が並んでいて、いつも塗料や古紙の独特な匂いがしていた。

 幼いころは、よく父がだるまを作る様子を見ていた。とくに、だるまの顔を描く様子が面白かった。それまでに成型や着色といったほとんどの工程は終わっていて、あとは顔だけだというのに、その顔描きが一番難しい。顔描きは職人が一つ一つ手作業でやる必要があった。父はいつも、だるまの目のふちを金の絵具でなぞることから始めた。赤い筆で鼻と口を描いたら、今度は眉とひげを描く。真っ黒に塗りつぶされた楕円形から、細かい線を等間隔に伸ばし、毛が本物らしくだるまの顔に馴染むようにする。とくに眉の毛の細かさや、目のふちの綺麗な円形は子供ながらほれぼれするような職人芸だった。そうして完成しただるまは、どれも光沢を持って、自慢げな顔をしているように見える。幼年の頃の俺は、美しさというものをだるまから教わったような気がする。



 朝、学校に行き教室に入ると、いつものように雰囲気がなんとなく淀んでいるのがわかった。ここ最近はずっとこんな状態だ。それは、ある女子生徒がいじめられているからだった。誰の目に見てもそのいじめはエスカレートしていて、はじめは無視をするとか輪に入れないとかその程度のものだったのが、だんだん筆箱や上履きが隠されるようになり、エロ女だのビッチなどささやかれるようになったみたいだ。そうは言っても主にいじめているのは女子グループの数人で、あとのクラスメイトは静観しているだけ。俺もそのうちの一人だった。今時こんな昭和みたいないじめがあるかよと思うし、さすがに止めに入るやつもいたけど、そしたら今度はクラスメイトにばれないようにより陰湿ないじめ方をしているようだった。

 放課後、部活の練習中に忘れ物に気づいて教室に戻ると、誰かが地べたに胡坐をかいて座っていた。そいつは窓の方を向いて座っていたから顔は見えない。ただ、髪が背中まであるので女子だとわかった。自分の席がちょうど窓際の後ろの席だったから、素通りするわけにもいかない。俺は席に向いながら横目でそいつを見て、息を呑んだ。夕暮時で教室の中が暗く、遠くからではわからなかったが、近くで見るとその女子は下着しか着けていなかった。白いブラジャーと下着姿で、こちらに背を向けて座っていた。俺はその場に硬直してしまい、あ、と小さな声を漏らすと、その女子は

「こっちに来ないで」

と言った。我に返った俺は「ごめん」と言い、急いで教室を出て行こうとした。

「待って、体操着貸してくれない?」

「え?」

「制服、濡れちゃって。自分の体操着も見つからなくて」

 彼女は座ったまま左上を指さした。言われて、窓の方をみると彼女の制服が干してあった。俺は、相手があのいじめられている女子だと気が付いた。制服を濡らされ、体操服は隠されてしまったのだろう。

 少し迷った末に、自分のロッカーから体操服を取り出しながら、

「男子に体操服借りたなんてばれたら、梶田さんはもっといじめられるかもしれない」

と言った。自分が貸したことがいじめているやつらにばれると後々ばれるとやっかいだという気持ちもあった。すると彼女は俺の考えを見透かしたように

「大丈夫。うまくやるから」

と言う。まあどうにでもなれと思いながら彼女の方に体操服を投げた。

「ありがとう。……着替えるからあっち向いてて」

俺は慌てて廊下の方を向く。彼女の声が背中越しに聞こえる。

「笠原君の家、坂上ったとこにあるでしょ」

「うん。え、なんで知ってるの?」

「やっぱりそうなんだ。朝見かけたことあるんだよね。私の家あそこのはす向かいなの。笠原君の部屋の窓は?」

「窓?」

「どの向きについてる?」

「え、向きって言われても……路地に面してるけど」

「そう、わかった。もうこっち向いて大丈夫」

 俺は振り返った。彼女の目は泣きはらした後なのか、すこし腫れていた。長い髪が夕日に照らされて、少し茶色く見える。風が吹いて、彼女の髪が揺れた。白い肌に浮き出た目鼻の赤さが、脳裏に焼き付いた。

 その晩、家に帰ってゲームをしていると、窓に何かが当たったような音がした。ゴン、と鈍く響いたので、俺は驚いて飛び上がってしまった。小石を当てられたみたいだ。俺はおそるおそる窓に近づいた。開けて下を見ると、白い光がゆらゆら揺れているのが見える。誰かが懐中電灯を持って手を振っているらしい。下から「おーい」と声が聞こえた。俺は状況が飲み込めないまま右手を挙げた。すると、下から女の声で「離れて」と聞こえた。俺は「なにー?」と大声で聞くと、「窓から離れて」とまた大声で返って来た。仕方ないので言われた通りに窓から二歩ほど下がると、白い袋が投げ入れられて俺の腹に当たった。白い袋は俺の体操服入れだった。体操服を抱えながら窓の下をもう一度見ると、懐中電灯で照らされた顔は梶田だとわかった。そのとき俺は、彼女が体操服を返しに来たのだと合点がいった。窓の下に「ありがとう」と言うと、彼女は手を振りながら走って帰っていった。すごい投擲力だなと感心しつつ、そういえば彼女がハンドボール部だったのを思い出した。そして後から聞いた話では、彼女は部活の先輩にいびられたのをきっかけに、教室でもいじめられていたのだった。

 翌日、学校で俺と梶田は言葉どころか目線も交さなかった。とくに彼女の方が、まるで何事もなかった風にするのがうまかった。ただ、この日以降、俺は彼女のことをよく盗み見るようになった。登校中にたまたま会えないかと思って家を出る時間をずらしたりもしたが、被ることはなかった。学校での彼女は、どんな嫌がらせをうけても表情をぴくりとも変えなかった。キッと前をにらんでいるようにも見える彼女の顔を、俺はばれないように見つめていた。顔を見るたびに、あの夕暮れの放課後で泣きはらした目をした彼女がフラッシュバックした。



 もう十何年も前の話だ。今では俺もだるま職人として、父の跡を継ぎ一日中だるまの顔を描いている。いじめられていた女子生徒、梶田恵はその後すぐに転校した。

 その晩、夢を見た。俺は完成しただるまを持って電車に乗っている。この車両には俺とだるま以外誰もいなかった。窓の外は一面の海だ。太陽の光がきらきらと海に反射していた。ほら、きれいだよと、俺はだるまに話しかける。気づくとだるまは梶田の顔に変わっている。窓の外も気が付くとあの日の夕暮れに変わっていた。彼女の眼はさっきまで泣いていたようで赤くはれている。俺は彼女の頬についた涙の跡をぬぐった。彼女の首を持ち上げて、顔を見た。白い肌に夕日が当たって赤く染まる。俺はそのまま彼女の唇にキスをした。

 目が覚めると、背中が汗でぐっしょりと濡れていた。変な夢を見たなと思った。時計を見ると朝の五時半だった。少し早いが仕事を始めてしまおう、と思い身支度をして一階の作業場に下りる。自分の定位置となっている椅子に向おうとすると、なにかがゴン、と足にあたる。足元をみると、それはだるまを梱包している箱だった。梱包し終わっただるまは決められた場所にあるはずで、なぜこんなところにあるのかと思いながら持ち上げると、異様に重たい。だるまは古紙で作られているから軽いはずだった。俺は持ち上げた箱をおろした。悪寒がする。昨晩見た夢を思い出した。鼓動が速くなる。もしかしてこの箱の中には、だるまではない何かが入っているのではないか、このずしんとくる重さもそれくらいの、そう、あの顔が……。気のせいだ、工具が間違って入ってしまったのだと冷静に考えながら、一方で、半ば期待するように箱を開けた。果たして、そこには、梶田の顔があった。それも、十何年も前の学生のときのままの顔だった。俺はおそるおそる彼女の顔を持ち上げた。肌は白く、眼はまっすぐ前を向いていた。今にも動き出しそうなほど瑞々しいのに、首と髪がその長さまでですぱっと切られている。俺は不思議と落ち着いた気分で彼女の顔を眺めてから、箱に戻した。そして箱を持ち上げて歩き出した。電車に乗ろうと思った。

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