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シラサギの飛び立つとき-終|小説

 ひとしきり滑ったあと曾祖母の家に帰って、夕食の後は疲れてすぐに眠ってしまった。目が覚めたのは朝の四時だ。今日ここを発つのに、荷造りがまだ終わっていない。慌てて広げた荷物を片し始める。ひと段落したところでまた寝ようとベッドに潜るが、なかなか寝付けない。仕方がないので居間に下りて暖かい物でも飲もうと思い立つ。
 キッチンに灯りがついている。よく見ると曾祖母が料理をしていた。こんな朝早くからいつも朝ご飯を作ってくれていたのかと驚く。ロシア語でおはようと挨拶する。
「あら、おはよう。今日は早いね」
「うん……」
 目が覚めてしまって荷造りをしていたとロシア語では言えそうになかった。スマホでロシア語翻訳アプリを出す。早起きの理由を翻訳機越しに伝える。「おお、そうかそうか」と言われたので、意味は通じているようだ。
「毎朝こんなに早くからご飯を作ってくれてたの?」
「いいや。今日はおまえたちが日暮れ前には帰るだろう。だから朝くらい豪勢にしようと思っただけだよ。それに今日からマースレニツァだからね」
「そうだったんだ。朝食の準備、私も手伝うよ」
「あらそうかい。じゃあ、まずはブリヌイを焼いてもらおうかね」
 ブリヌイは確か、クレープのことだ。そういえば今日から一週間、ロシアではマースレニツァというお祭りがある。肉食が禁じられていて、小麦粉料理と乳製品と魚しか食べられないかわりに、思う存分食べるという祭りだ。マースレニツァの間はとにかくたくさんブリヌイを食べるのだと前に来た時に父に教わった。今日からそのお祭りなのだ。
 ブリヌイのタネとおたまを渡される。手伝うとは言ったものの、クレープを焼くのは初めてだ。タネをおたま一杯分すくって、熱されたフライパンに落とす。薄くなるようにフライパンを傾ける。少しタネの量が多かったようで分厚くなってしまった。焦げ付かないように急いでフライ返しでブリヌイをひっくり返す。曾祖母が私の様子を見て「うまいじゃないか」と言ってくれた(と思う)ので、一安心する。作るうちにタネの量の調節もうまくなって、最終的にはフライ返しを使わずとも生地をひっくり返せるようになった。ブリヌイ作りは結構向いているかもしれない。家に帰ったらまた作ろうか。
 私がブリヌイを三十枚ほど焼いている間に、曾祖母はフィッシュパイを焼いていた。パイ生地にサーモンとゆで卵がぎっしり入っている。他にシチーと呼ばれる野菜スープとオムレツを作って、ヨーグルトと食器類を食卓に並べる頃にちょうど家族が降りてきた。母が「わぁ、豪華!」と歓声を上げる。「すみません、手伝えなくて。」と母が曾祖母に言うと「いいんだよ、カモメが代わりに手伝ってくれたからね」と笑った。


 朝食はどれも美味しかった。ただ、作っている間も薄々感じていたが、三十枚のブリヌイは多かった。私はフィッシュパイがとても気に入ってそればかり食べていた。
「フィッシュパイ、気に入った?」
 イリヤが私に聞いてくる。
「うん。サーモンと卵をこんなに思う存分食べられる料理、はじめてだよ」
「はは!それは良かった。これはナクリョーポクっていうんだ」
「そっか、また食べたいな」
「またおいでよ」
 笑顔でイリヤが言った。次、もし本当に来るとしたら、家族とではなく一人でどうにか都合をつけることになるだろう。
「本当に、また来たいな。スケートも楽しかったし」
「スケート靴の場所、教えておいてよかっただろ?」
「うん。なんというか、スケートして心が慰められた気がしたよ」
 英語でうまく言えているかどうかわからない。
「なにかあった?」
「ううん、いや、最近失恋して。ついでに、昔スケートをやめたことも思い出してたの」
「それは……大変だったね」
「大丈夫だよ。スケートをしていたら元気になったから」
「そうか、チャイカは立派だ。ニーナも顔負けだね」
「ニーナ?」
「ああ、君と同じ名前の舞台がロシアにあるんだよ。もはや君にとっては退屈かもしれない内容だけどね」
「そうなんだ?」
「どにかく、君がここで元気になってくれて、ロシア料理も好きになってくれてよかったよ」
 こちらこそありがとうとイリヤに言う。帰ったらその舞台について調べてみようか。
 朝食を食べ終えて、父に出発の時刻を確認する。まだ時間はある。最後に少し滑ってくると両親に告げて、急いで湖の方へ向かう。


 周に告白したのは昨年の十二月、もう三か月も前のことだ。グランプリファイナルが終わって帰省のために一時帰国するというので、それに合わせて地元の同級生数人で飲み会を開いた。初めのうちは皆「この前のやつ、テレビで見たよ!」、「もうすっかり有名人じゃん!」と口々に周の活躍を称えたが、酒が入るとすぐにどんちゃん騒ぎになった。明け方になるまで飲んだ後の帰り道、周とまだ変な調子のまま笑いながら帰っていた。凍るような冬の朝だったけれど、体温は高かった。二人で並んで歩きながら、そういえば小中学校までは家が近いので二人でよく帰っていたことを思い出した。懐かしい気持ちになって、周と昔話をした。小学生の頃、私が自動販売機の缶のコーンスープが好きで練習が終わると毎回それを飲んでいたこと。周が高校進学する時、引っ越しの荷造りが終わらなくて私が手伝いに駆り出されたこと。会話は思いの外弾んで、話足りないからと公園に寄っていく流れになった。
 二人でベンチに座りながら自販機のホットコーヒーを飲んだ。小学生の頃通っていたスケート教室のコーチの口癖を真似して笑い転げる。そのうちに二人とも笑い疲れて無言になった。すっかり日は登っている。朝の澄んだ空気が心地よかった。
 無言のまましばらく経った。この前のグランプリファイナルのことを思い出す。周の順位は五位だった。シリーズ戦の調子は良かったが、ファイナルではミスが目立った。私はテレビの前で泣きながら周を見ていた。けれどそれは不安や心配からの涙ではなくて、感動の涙だった。フリーのベートーヴェンの『月光』は本当に良かった。ジャンプは天から糸でつられているようだったし、得意のステップでは生き生きとしていた。何より、着地に失敗しても心折れることなく最後までやり遂げようとする意志の強さが、迫力が、画面越しにも伝わってきた。周に良かったよ、と一言伝えたいのに、うまく言葉にならない。とっくに酔いは醒めていた。
 そろそろ行こうか、と周が立ち上がる。こちらを向いた彼とばちりと目が合う。周の長いまつげに縁どられた目は綺麗だった。澄んだ瞳に私が映りこむ。瞬間、「好きだよ」と口が勝手に動いていた。
「えっ」
「えっと、あー……いや、周のスケート好きだよって言おうと思って。この前のグランプリファイナル、順位は惜しかったけど、私はあのフリーが今まで一番好きだったよ」
「あ、ああ、うん。ありがとう」
 周は困ったように笑った。私も立ち上がって帰ろうとしたけれど、脚が動かない。それに視界がぼやけてくる。目の縁から水がこぼれて、水滴はいくつも頬を伝って首筋まで流れる。自分が泣いていると気づいた。声を出したら嗚咽してしまいそうで、無言のままその場に立ちつくす。「かもめ?どうした?」と周が振り返って、私の姿をみてぎょっとした。
「えっ、ど、どうした?大丈夫か、体調悪い?」
「あ、え、あれ……?あはは、なんか、自分でもわかんないんだけど、別に具合が悪いとかではなくて」
 結局、嗚咽交じりになんとか説明する。
「あー、ごめん、無理にしゃべらなくていいから。落ち着いて。とにかく座ろう」
 このとき、周に介抱されながら、自分は周のことが好きなのだと初めて自覚した。
 昔から周には嫉妬ばかりしていた。幼い頃は、ちょこまかとついてくるのがうざったいと思うこともあった。スケートをやめてからも周にコンプレックスは抱いていた。でも、それ以上に周のことが好きだった。友達を大切にするところとも、引っ込み思案なところも、ちょっと天然なところも、けっこう生活がだらしないところも、家事の中で料理だけは得意なところも、スケートに一心なところも、たぶん、全部好きなのだ。
 いや、違う。きっと、あのグランプリファイナルのフリーを見たときに気がついていた。私は周のことが好きだ。けれど周はフィギュアの世界でどんどん高みに上っていく。あの『月光』で、周の背中には翼が生えて天高く飛んでいくことがわかった。対して私は、渡り鳥みたいにふらふらしているだけ。私が周のことが好きだとして何になるのだと自分を冷笑する声と、周にこれ以上遠くに行ってほしくないという気持ちがぶつかり合って反響して、抑えきれなくなった。
 十分ほど経つと大分落ち着いて、周にお礼を言った。それから、意を決して告白した。こんな恥ずかしいところまで見られたのだ、いまさら何を保身する必要があるのかと思った。周は驚いた顔で、「考えさせてほしい」と言った。
 翌日の夜、同じ公園に呼び出された。しばらく沈黙があった。ふと、人と一緒に黙っていると静けさを感じるなと思った。一人きりで無言でいても、静かだとはあまり思わない。人といるときこそ本当の静寂を感じるのではないか、とぼうっとしながら考えていた。
「えっと、まずは、告白してくれてありがとう。幼馴染だけどさ、正直そんな風に思われてると気づかなくてびっくりしたよ。」
「うん」
「それで、ごめん、かもめのことは友達としてしか見れない。そうじゃなくても、忙しいっていうのもあるんだ」
「うん」
「でもさ、俺も、かもめのことは好きだよ。かもめが幼馴染じゃなくても、スケートやったことが無くても、きっと友達になったと思う。だから、これからも友達でいて欲しいんだ」
「……うん」


 氷の上に、刃がすーっと通った跡を残していく。朝のロシアの空気は恐ろしいほど冷たい。息を吸い込むごとに肺が凍りそうになる。現役の頃、最後に練習していたプログラムを思い出す。ベートーヴェンの『春』。記憶を頼りに滑ってみる。ヴァイオリンの軽やかな音色が頭に流れ出す。腕を優雅に広げて動き出す。大きな氷の塊にぶつかってよろけるのもお構いなしに、最初のジャンプを跳ぶ。助走をつけて一回転、しっかり着地する。スケートは楽しい。そんな単純なことをずっと忘れていた。帰ったら、前に通っていたスケートリンクに滑りに行こう。滑りたければいつだって滑れるのだ。
 周のことも好きなままでいたっていいんだ。彼が私に言ってくれたように、私は周が友達でも、恋人でも、女の子でも、おじいちゃんでも、スケートをしていても、していなくても、彼のことを好きになっただろう。周は周で、私は私だ。それはずっと変わらない。


 ヴァイオリンとピアノの最後の音が聞こえる。夢中になって滑り終えた。肩で息をしながら顔を上げると、遠くのほうに白くて脚が長い鳥が氷の上に立っているのが見えた。目を凝らすと、白鷺だと分かる。なんでこんなところに白鷺がいるのか、めずらしいなと思っていると、頭にぴんと電撃が走るように過去の記憶が蘇った。そうだ。三年前、ロシアに来た時、今日と同じようにここで白鷺を見たのだ。そのときはスケート靴だけ持って湖まで行くものの、怪我をしたのが怖くて結局一度も滑らずに帰ったのだった。湖畔で散歩しながら遠くの方に白鷺が一羽見えて、不思議だなと思った。どうして忘れていたのだろう。
 あの時と同じように白鷺が氷の上に止まるなんて、すごい偶然だ。気がつくと、白鷺は一羽だけではなく幾羽にも増えていて、点々と散らばって止まっていた。白い氷の上に白鷺が何羽も止まっているのは幻想的な光景だった。
 どこからともなく、一羽の白鷺が空に飛び立ち始めた。続いて何羽も後を追うように羽を広げる。いくつもの羽が空を舞っている。私は一番初めに見つけた白鷺に目をつけて、氷の上を滑り出した。あの白鷺に近づきたい。刃が氷に当たって削られていくのもお構いなしに、スピードスケートのように上半身を低くして走っていく。冷たい風を切るうちに肌の感覚が消えていく。滑るうちに、私の体からは白い羽毛がふさふさと生えはじめ、手は大きな翼になり、脚は黒く細くなった。気づくと私は地面を離れて、白鷺の群れの一員となり空へ飛んで行った。
 そんな自分を湖畔から見つめていた。私はスケート靴を脱いで、曾祖母の家に帰っていった。

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