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50歳のノート「人生ハードモードのときに拾った言葉」



父の葬儀のとき高校一年生の私は涙を流さず制服で立っていた。
会場には父の会社の人たちが大勢駆けつけてくださっていた。
大人の大泣きを初めて見た。
けれど自分は何とも思わなかった。
今で言うと「会社の上司が亡くなった」くらいの感覚だった。

中学校ニ年生のとき、父が癌になったと告げられた。それまで健康で病気のなかった父が癌になるとは。母も驚いた。
当時日本で3人目といわれたほどの、細胞は良性なのに転移し続ける特殊な癌だった。
転移しては切り取るしかなく、治療の手立てがない。抗がん剤治療も効果が無かった。
父は入退院を繰り返し母と私は病院に通った。特に母は仕事の後毎日面会に行き、その時の父が食べることができるものを差し入れした。

私は見舞いに行くと父に「あんたが来てもしょうがない。来てアイスを食べて帰るだけ」と言われた。その通りだなと思い、もはや行きたくなかったが学校が休みの土日はバスに乗って病院に行った。

父の手術と入院費がかさんだ。
私は当時エスカレーター式の中学にいたが、塾の成績が良く外部の高校受験を控えていて期待されていた。
けれどある日「塾のお金が払えない」から辞めろと言われた。
成功、脱出、あらゆる可能性の道をボッキリ折られたように思い1人で泣いた。
私がどう思うか最早誰も気にしていない。
父の生き死にのほうが母親の頭をしめていた。

母親は私の小さい頃からエキセントリック(簡単に言うとおかしい)で、外面は良いが気に食わないことがあると狂ったように私を殴りつけののしった。抵抗しようとすると殴る蹴るを倍受けた。一瞬で気分が変わるので常に恐怖の対象だった。

私が口を開こうとすると母親が制して「知恵遅れ」とののしるので、自分は頭が悪いと思い込んでいた。
ところがあまりに勉強をしないので放り込まれた塾でめきめきと偏差値が上がった。
頭が悪いのではなかったと知った自分にとって成績は唯一のよりどころだった。
なのでそこを潰されることは大きな意味になった。言葉にならない悔しさで嗚咽した。

小学生低学年のとき、突然狂ったように殴りつける母親のことをおかしい、と父に言うと「お母さんを怒らせるあんたが悪い」と言われた。
困ったこと、つらいことがあると全部私が悪いことにされた。
風邪をひいても「風邪をひいた自分が悪い」とお金を出してくれず、貯金箱を開けて病院に1人で行った。
病院の人が小学生低学年が1人で病院に来たと心配して家に電話をかけてくれたほどだ。

父は同じく外面完璧で、休みの日は会社の人とスキーに行ったりバーベキューに行ったりしていた。気前よくお金を出すので好かれていたようだ。(当時は部下たちにとってそれがよきこととされていた)。
父が会社の人にお金を使いまくるのでとうとう母親が働き始め、母と私はつましく暮らしていた。
母親と一人娘である私は父の気が向いたときにたまにどこかに連れて行かれた。
当然私は楽しくも嬉しくもなく義務でつきあっていた。
母親は本人曰く父親が大好きで全肯定だった。
会社の人の前に連れ出される時は「お父さんに愛されている一人娘」のように見られた。
ところが実態は家族役を演じている、父にとって都合の良いスタッフのようなものだった。

スタッフだったので、父が死を迎えても何とも思わなかった。
15歳の私はさすがに何とも思わないのはおかしいかもしれない、と思い悩んだ。
同級生など身近に親を亡くした人がいなかったので誰にも聞けない。
当時SNSがなかったので他の人のことを知りようがなかった。

宮本輝の小説で主人公が父の死に目から逃げたシーンがあり、そう思ってもいいんだ、と少し救われた。

思春期だの反抗期だのは存在しなかった。
そもそも私自体が両親の中に存在していたかもあやしい。娘役のスタッフのようなものだった。

父の死後、母親は死んだようになった。
ただし、物音ひとつで狂ったように暴力を振るった。立てかけた掃除機の棒が倒れた音でキレ、掃除機の棒でめったうちにされた。

大学に入学するころ、暴力を振るう母親に、私は手近にあった目覚まし時計を壁に叩きつけた。目覚まし時計は粉々になった。
以来母親は暴力は振るわなくなった。
罵詈雑言と蔑みは続いたが。

我ながらよく正気でいられたなと思う。
母親の姉である叔母が近くに住んでいて、何くれとなく気を遣ってくれた。
叔母といると安心していられた。
叔母がよくスーパー銭湯に連れ出してくれた。
温泉とサウナが癒しだった。
叔母が「お母さんはおかしいから」と言った。
もともとおかしかったようだ。
歳をとっておとなしくなるからそれまでハイハイと言うことを聞いたふりをしておくようにと言った。

大学生のころ母親の母である祖母が一緒に住むようになった。
母の当たり散らしが私から祖母に移った。
祖母は黙って耐えていた。
祖母に聞くと「お母さんは女手一人、男にならなければならないから」と気遣った。
父が生きている時からおかしかったのだがそこは考慮されていなかった。
数年して祖母がこの世を去ると母親は大袈裟に悲しがった。
自分がどんな罵詈雑言を祖母にぶつけたか馬覚えていなかった。

この家族の中で、私の痛みを考慮してくれる人は誰もいなかった(叔母を除いては)。
そこできっちり刷り込まれたのは

・自分がつらいのは自分が悪いせい
・誰も自分を助けてくれない
・他人の中に自分はいない

ことだった。

やがて結婚して家を出た。
母親と暮らしたくないから家を出る口実だった。愛しているとか好きとかもよくわからなかった。
静かな相手と静かに暮らしたかった。

数年後、仕事のストレスがかさみ酒に酔った相手に突如、暴力を振るわれた。
流石に驚いた。全然ハッピーエンドになっていない。
母親と違い、復讐したいという強い思いが強く湧いてきた。

このままでは自分が加害者になってしまう。
そう思った自分はいろいろと調べた。
当時はSNSが今ほどなく、ネットの掲示板を見て情報を集めた。
被害者の女性が集まる掲示板では暴力の痕跡を証拠として集めたり、女性相談室に行って相談の履歴を残しておくと良い、という実用情報があった。

ある掲示板では、被害者の女性たちが「自分の怪我の被害度」について争っていた。壁に頭を叩きつけられたとか、どこそこを骨折したとか、その度合いを自分の方が酷い目にあっている、と言い合っていた。
どうしてすぐさま脱出しないのか不思議に思った。
おそらく天罰とか復讐の完遂を待っているように思えた。

早速情報をまとめて女性相談所に行くと、女性弁護士の方が話をしてくれた。
子供がいないし仕事があって収入があるので、すぐ離婚できるだろうと言われた。
理路整然と情報をまとめて話せるし、全然ダメージを受けてないように見える、もっとひどい人がいるのだとなじられた。

なぜなじられるのだろうと思ったが、そもそも、相手は法的な罰を受けないのか? と思い聞いてみると、そういうものはないそうだ。
「幸せになることがいちばんの復讐よ」と女性相談所の弁護士さんは言った。
憎しみに満ちた目で言われたので全く内容が刺さらなかった。

何より弁護士さんやそこの女性スタッフさんたちが、みな100キロを超えているような体躯だった。ぼんやりと膨張した体でグレーっぽい服を着てのそのそと静かに歩く様子はまるでゾウの群れだった。
自分も体重が激増していたので何か関連があると思った。

相談所の帰りに「もう天罰は待たない」と言う言葉がぽつんと降りてきた。
どうにもいられなくなって、突然さっと貴重品を持って(貯蓄の半分はきれいに残して)実家に一時避難した。

離婚の手続きを始めようとすると相手から印鑑が無いと問い合わせが入った。
聞くと印鑑ケースがあって中身が無いそうだ。
調べると、私が家を出た日にマンションに泥棒が入り印鑑と保険証を使って預金をおろして行ったそう。
警察に届けたが犯人は捕まらなかった。

元夫のために残したお金をきれいに持って行かれた。お金に執着していたひとだっただけになんと、このタイミングで、、と思った。
むしろあのまま部屋にいたら私が泥棒と鉢合わせになっていた。

これを天罰、、と思ってしまうのかもしれないと思ったが、そう思いたいだけかもしれない。
天罰というものはなくて、やりたい放題は放置。それを取り締まる神さまみたいな機構はないのかも。相手がたまたま嫌な目にあったことを「ざまあみろ」と思うのを天罰というのかもしれない。

天罰を待っていた自分は天罰をあきらめた。
盗まれたお金は賃貸にかけていた盗難保証で
400万まで元夫に戻ってくることを知った。
金額は到底足りないが、当時の部屋を自分の名義で借りていたため元夫のためにその手続きをした。
そこまでする必要が無かったかもしれない。
けれど天罰をあきらめたことの解放感のほうがすごかった。

離婚後、なぜ自分にこんなことが起きたのか、理解にじわじわと苦しんだ。
当時、毒親、アダルトチルドレン、機能不全家族というキーワードが台頭し始めていて、本を読んで愕然とした。

海外の著者で海外の家族のエピソードであるにもかかわらず、毒親の描写があまりにも酷似していた。
自分のパートナーとその関係を繰り返すこともぞっとした。

親ガチャという言葉があるが、まさにそれだった。
親が与える烙印のようなもので子供の世界観が決まってしまう。
さらにそうとわかったあと、次にどうしたら良いかわからないところが次の沼だった。

自分の世界が常に理不尽で自分の手に負えない。理不尽から守ってくれる人もいない。自分の気持ち、痛みをわかってくれる人がいない。
これが私の烙印である。
この世界観で生きることになる。  

それにあらがうために、自分の戦闘能力を突き詰めて高めたりする。同時に誰かに救われることを密かに願っていたりする。
まさに漫画「ベルセルク」の世界である。

そうではない人はこの世界観にいない。
生きる世界がそもそも安全だった人は人生がイージーモードである。
シンプルにいいなぁ、と思う。
どれだけ余力があることか。
余力がある分、人を助けたりすることができるかもしれない。

烙印の有無によって生きる世界が変わってしまう。
問題は、世界観をどう変えることができるか、になる。
さすがにずっと「ベルセルク」はキツい。
烙印をあきらめて共に生きるか、烙印を消すか。

烙印を無かったことにして、ただの明るい普通の人としてしれっと生きたかったが、繰り返し「烙印世界」が目の前に現れる。
自分が烙印で世界を見ていることを認めざるを得なかった。

この後、40歳のときにもう一度打ちのめされることがあった。
その後、烙印と世界観の結びつきを観察できるところまできた。
観察できるようになると世界観が薄らいでくる。

50歳になった今、確実にいえることは、たとえ毒親育ちの烙印があったとしても「元はとれない」ということだ。

「自分は人を助けるためにこんな経験をしてたんですね…!」というコースに入って行く人をたくさん見た。そして救われるどころかどんどん沼って行った。
さらに、「本当は自分は親に愛されていたんだ…!」というのもあやしい。
そう言っている人は顔がうつろで目に怒りが満ちている。
怒りを麻痺させるために偽りのハッピーエンドに上書きしただけで何も解消されていない。

あるいは、そんな体験をしたと打ち明けた相手から押し付けられた価値観だ。
聞いた相手がそんなことを共有したくないから「めんどくせえ」と押し返されただけである。
別に共感やハッピーエンドを相手にもらわなくてもいいけれども、相手の作為を見てしまうとそれはそれでぞっとする。
そこに余計に傷つき怒りは深まっていく。

思うに、ひどい経験と自分の間に因果関係がない。
本当は意味があったんだ! ということにして、元をとろうとすればするほど時間やお金を溶かして深みにはまっていく。

損得もなければ罪も罰もないと仮定したらどうだろう。まして救いもないとしたら。
さっさとエグい環境に見切りをつけてしまうのではないだろうか。
だってその場所にいる意味が無いのだから。

スキル「捨てる」を会得した私は離婚しちゃうし転職もバンバンしてしまう。
父の葬儀にぼんやり立つ15歳の自分にも「何とも思わなくていいよ」と言ってあげる。
そこには何もなかったのだから。
愛情も憎しみも、執着すらない、いちスタッフだったのだから。

何かあると期待してはそこには何もないと気づく。気づいて我に返り、期待が失せて先に進む。
これの繰り返しである。
繰り返すうち、いつのまに世界が静かになってきた。
(「ベルセルク」で言うとガッツにむらがるモンスターが減ってきた)。

たぶん、烙印の克服みたいな凄惨なテーマが終わって次のテーマになるのかもしれない。

ハッピーエンドをあきらめて過ごすうち、ハッピーエンドにすら、ならなくてもいいと思い始めている。

「ああ、こういうことか」という言葉を拾いながら歩いて行く。
散歩で落ち葉を拾ってみるように。

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