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【#54】宮下奈都『羊と鋼の森』(読んできた本のこと2)

美しいなあ

 ピアノ、主人公が調律師、そして北海道が舞台というだけで、読まずにはおれません。「美しいなあ」という読後感でした。数年前に読んだ本ですが、もう一度読み返すと、きっとさらに発見があるだろうなあと思います。(2018年に映画化もされています)

 本の紹介には「高校生の時、偶然ピアノ調律師の板鳥と出会って以来、調律の世界に魅せられた外村。ピアノを愛する姉妹や先輩、恩師との交流を通じて、成長していく青年の姿を、温かく静謐な筆致で綴った感動作」と記されていました。心に残る言葉が幾つもあります。そしてキリスト者としての歩みに通じるものも多くあります。

「ピアノが、どこかに溶けている美しいものを取り出して耳に届く形にできる奇跡だとしたら、僕はよろこんでそのしもべになろう」

「誰も調律師の腕のことなど考えない。それでいい。ピアニストが称賛されても、ピアニストの手柄でさえないのだろう。それは、音楽の手柄だ」

「ここに素晴らしい音楽がある。辺鄙な町の人間にも、それを楽しむことはできるんだと。むしろ、都会の人間が飛行機に乗って板鳥くんのピアノを聴きにくればいい、くらいに私は思ってるんだが」

「・・・善いっていう字は、羊から来てるんですって」
「美しいっていう文字も、羊から来てるって、こないだ読んだの」

宮下奈都『羊と鋼の森』

全てが包まれて

 一番心に残った言葉は、駆け出し調律師の主人公が挫折を体験した時、先輩調律師に目指す音を尋ねて返ってきた、原民喜の引用でした。

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」

 ベクトルが異なるような二つのことが共有されて、包まれているような音色。二律背反とでも言うのでしょうか。書名からしてもそうですが、この本の中にもそのような表現が多く出てきます。

「言葉を信じちゃだめだっていうか、いや、言葉を信じなきゃだめだっていうか」、「今最もかけてきてほしくない相手であり、最もかけてきてほしい相手でもあった」、「開けた場所に出たときのような、狭い袋小路に入り込んだときのような、相反する気持ち」、「泣けばいいと思うのと同時に、涙が流れるところを見なくて済んだことに僕はほっとしている」、「言ってはいけない。だけど、言わずにはいられない。そういう声だった」、「ただの高校生だけど、ただの高校生じゃない」

宮下奈都『羊と鋼の森』

 確かにあっちとこっちに揺れているのですが、その大きな揺れがさらにもっと大きなものに包まれていくという感じです。「どちらかひとつだけがいいなんてことはないと思うから」という言葉に昇華されるでしょうか。

見える風景が変わる

 矛盾していることがら、相反していると思うことが、神様の大きな御手の中に包まれていると知っていく時、コペルニクス的な主客転倒がなされ、見える風景、そして視座までもが大きく変わってくるのでしょう。(著者はそうは言っていないかもしれませんが、私はそのように感じました)

「ま、板鳥くんの場合は、ちょっとばかしピアノに愛されすぎてる気もするけど」、「汚れているように見えた世界を、柳さんはゆるしだんだろうか。それともゆるされたんだろうか」、「できないんじゃない。やらないんだ」、「音楽が始まる前からすでに音楽を聴いていた気がした」、「『ピアノで食べていこうなんて思っていない』和音は言った。『ピアノを食べて生きていくんだよ』」、「『私、やっぱりピアノをあきらめたくないです』 あきらめる、あきらめない。ーーそれは、どちらかを選べるものなのか。選ぶのではなく、選ばれてしまうものなのではないか」

宮下奈都『羊と鋼の森』

メッセージの音色

 この本で知った上記の原民喜の言葉を書き留めて、愛用のiMacの右下部分に貼り付けていました(PCを買い替えた時、そのメモをどこに置いたのか、行方不明中です)。それは「神の愛に包まれ憩うような説教、偉大な主を畏れてひざまずくような説教、麗しき天の御国への憧れを持ちつつ、現実のこの世を生きる確かな力となる説教」を、音色にしたいと思ったからです。

 さあ、明日は2月最初の礼拝です。最も聖なるお方を心から礼拝します。
今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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