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【#04】 運命と使命(メッセージの断片集1)

いざ札幌へ

 10月9日(日)の礼拝を終えて、いざ、札幌へ(約300km!)。3年ぶりに対面で北海道聖会が開かれたのでした。この時の模様は、また追々記すことになるでしょう。と言っても私は今回、会計を担当しているので、ほとんど集会には出席しておらず、会計の部屋で会計としての恵みを味わっていました。
 今回、札幌に来て思う最初のことは、「あったかい」でした。これは釧路のS先生も全く同じ言葉を口にされていました。同じ北海道でも、5時間近くかけて移動すると、体感温度も変わってきますね。

断片集

 さて火曜日の記事は旧blogにならって、2日前の日曜日の様子に触れて、礼拝メッセージの断片集をお届けします。全体を要約したものではなく、つまみ食いのような形での紹介なので、断片集ということですね。全編を味わいたい方は、ぜひ礼拝へご出席ください!(今後、この断片集は、noteの機能である「マガジン」としてまとめていく予定です)

▲ 250字のエッセンスは、コチラ

主の御心を求める

 「あなたがたには、あすのことはわからないのです」(ヤコブ4:14)まさにその通りです。まるで明日のことを分かっているかのように、自分で計画して、自分で決めて、自分で物事を進めていくことには、高ぶりが潜んでいるということです。
 だいたい私たちの人生は、自分の計画通りには進んでいないものです。私もそうでしたし、今でもそうです。もちろん無計画を勧めているのではありません。計画を立てる時に、主の御心を求めていくことが大切だということです。
 自分の計画が実現すること以上に、主の御心がなることこそが、最も善いことだという、主を100%信頼していく信仰をこそ持たせていただきたいのです。

主の御心を知る

 自分の計画が挫折したかに見える時も、神の計画はなっていることを後で知ることも多くあります。私たちの計画には病気になることや、試練にあうことなども入っていません。しかし予定外の出来事が入って来た時、こんなはずでは無かったと思う時に、主を信じる者は、病気や失敗でさえも、神の愛の御手の中にあることを知るのです。実は自分の計画通りにいかなかったと思うそこにこそ、キリストの愛とか恵みとか、喜びを、今まで以上に深い意味で体験することができるのです。それこそが主の御心と言っても良いでしょう。

行わないことも

 「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』・・・こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です」(ヤコブ4:15、17)
 自分を誇り高ぶらない信仰者の姿勢とは、「主の御心ならば、あれもし、これもします。しかし主がお許しにならないならば、しません」ということです。罪とは何か悪いことをすることなのですが、主の御心を知っているのに、それを行わないことも罪だという厳しい指摘がなされています。

運命と使命

 先週金曜のオリーブ会(三浦綾子読書会)で「われ弱ければ〜矢嶋楫子伝」の動画を分かち合いました。その中で「運命と使命」について語られていたことが、とても印象的でした。運命とは、命を運に任せることです。こうなる定めだった、仕方がないこと、諦めにも陥っていきます。一方。使命とは、命を使うことです。どんな状況でも、自分の命を使う役割・意味がそこに与えられていると見出していくことです。

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