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ヒップホップ系のアーティストはなぜ曲を大量に作るのか

ラッパーやビートメイカーなどのヒップホップ系のアーティストが、曲を大量に作って早いペースでリリースするようになったのにはどういう流れがあったのかを考えました。


止まらない嬉しい悲鳴

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「未発表曲が2700曲ある」。Lil Uzi Vertは2017年、Beats1のZane Loweの番組に出演した際にそう話し、ヒップホップファンをざわつかせた。2018年にはAnderson .PaakがやはりZane Loweの番組で「俺には65000曲のストックがある」と話した。Interview Magazineで今まで作った曲数を質問されたYoung Thugは、「多分15000曲くらい」と答えた。2020年、Lil WayneはMTVのインタビューで「最近、一晩に53曲作った」と語った。彼らの話す数字が本当かどうかはわからないが、アメリカのヒップホップ系アーティストがかなりのハイペースで制作に取り組んでいることは疑いようがない。
今ではアーティストが一年に何枚もリリースすることも、デラックス・エディションでアルバム一枚分のボーナストラックが追加されることも珍しくない。このリリースペースのおかげで、ヒップホップリスナーは毎週のように嬉しい悲鳴を上げている。気付けば当たり前のようになったこの制作の量とスピード感だが、一体どうしてこのような状況が出来上がったのだろうか。本稿では、ヒップホップ史に名を残す多作なアーティストを振り返り、この過剰とも言える制作ペースの源流を探っていく。


2Pacの異様な制作意欲

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制作ペースの鬼といえば、まず重要なのがベイエリアの伝説的ラッパーの2Pacだ。1996年に亡くなった2Pacは、生前にソロアルバムを4枚とグループのThug Lifeでのアルバムを1枚、没後にはソロアルバムを6枚とグループのOutlawzでのアルバムを1枚リリースしている。遺作となった1996年のアルバム「All Eyez on Me」は2枚組のアルバムだ。没後のアルバムも、2004年の「Loyal to the Game」と2006年の「Pac’s Life」以外は2枚組。2Pacは音楽だけではなく映画俳優としても活動しており、しかも出演映画の多くではメインの役を演じていた。さらに服役して活動ができなかった期間もあり、まだスマートフォンがない時代だと思うと、その制作ペースは現行のアーティストと比べても異様だ。
生前最後の作品となった「All Eyez on Me」は、2週間以内にレコーディングを終えていたという逸話がある。Makaveli名義で発表した没後の初作品「The Don Killuminati: The 7 Day Theory」では、3日間でレコーディングを終わらせたという。同作の収録曲は12曲だが、この時には21曲分レコーディングしていたと伝えられている。それ以前から精力的に制作を行っていた2Pacだが、この最後の一年は特に凄まじい。「All Eyez on Me」と「The Don Killuminati: The 7 Day Theory」のレコーディングにまつわるエピソードは、2Pacのクリエイティヴィティを象徴するエピソードとして語り継がれていった。
「All Eyez on Me」制作前、2Pacは8ヶ月間服役していた。服役中は意外にも曲は一曲しか書かず、読書に時間を費やしていたという。この時に2Pacが読んだと伝えられている本では、自身の変名にも採用したマキャヴェリの「君主論」が有名だが、そのほかにも興味深い一冊がある。Bone Thugs-n-Harmonyもアルバムタイトルに使った「The Art of War」(2Pacの客演曲もあり!)こと、孫子の兵法書だ。
この二冊に共通して書かれていることがある。それは、「攻める時は一気に」ということだ。当時の2Pacは、いわゆる「東西抗争」と呼ばれている東海岸勢とのビーフの真っ最中。元々ハイペースで制作していた2Pacだが、出所後に即この異様なペースでのレコーディングに挑んだのは、この「攻める時は一気に」という考え方でライバルたちを引き離す意図があったのではないだろうか。
2Pacはそのカリスマ性や曲作りのセンス、巧みなストーリーテリングや人の心に刺さる作詞能力などで、生前からヒップホップを代表するアイコンとなっていた。そして、その存在感は死後にリリースされる作品を通してさらに強まった。そんな彼の制作に対する姿勢が、後のアーティストに大きな影響を与えたことは想像に難くない。


1990年代後半のルイジアナ勢のクリエイティヴィティ

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現行シーンを代表する多作なアーティストであるLil Wayneは、その制作に向かう姿勢について2020年のRolling StonesでのLil Babyとの対談で次のように語っている。
「それは(Cash Money Recordsの」BirdmanとSlim、そしてMannie Freshから学んだ。彼らは俺たちにこのやり方を刻み込んだんだ。彼らはスタジオに月曜日から日曜日まで毎日通う。なんでもいいから働けって頭に叩き込まれた。まだ学校に通っていた頃だ。13歳とか14歳で、こっちに試験があるとかなんとか知っているのにまったくお構いなし」。
Lil Wayneは1982年生まれなので、13歳か14歳ということは1996年頃だ。つまり、2Pacが「All Eyez on Me」と「The Don Killuminati: The 7 Day Theory」をリリースした時期とも重なる。実際に影響を受けていたかは定かではないが、2Pacの存在の大きさを思えば可能性は否定できないだろう。
しかし、この頃のCash Money Recordsは所属アーティストも少なくリリース量もさほど多くない。それに対し、膨大な量のリリースを行いシーンの頂点へと駆け上がっていったレーベルがあった。同じルイジアナを代表するレーベル、No Limit Recordsだ。
No Limit RecordsのオーナーのMaster Pは、出身はルイジアナだが一時期ベイエリアで暮らしていた時期があった。ベイエリアといえば2Pacだ。Master Pはラップスタイルからして2Pacの影響を感じさせるもので、死後には追悼曲も発表している。そして、その制作に向かう姿勢も2Pacから引き継いでいた。
No Limit RecordsはMaster Pが1996年にリリースしたアルバム「Ice Cream Man」頃から頭角を現し、1997年にはMaster Pの名盤「Ghetto D」など8枚のアルバムをリリース。ブレイクと前後してメンバーも増加し、プロダクションチームのBeats By The Poundを組織してペースをさらに加速。1998年にはC-Loc周辺から登場したYoung Bleedの「My Balls & My Word」やSnoop Doggの「Da Game Is to Be Sold, Not to Be Told」など、23枚(!)という桁違いのリリース量でシーンの頂点に登っていった。
リリースは少なかったものの密かに大量の曲を制作していたCash Money Recordsと、膨大なリリースでシーンを駆け上がっていったNo Limit Records。共に1990年代後半に大きな人気を獲得し、ヒップホップは南部の時代へと突入していく。そして彼らの影響は、後のシーンに大きな影響を与えていった。


ミックステープ時代の到来

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1990年代後半には、東海岸に目を向けてもハイペースなリリースが目立っていた。この時期に登場したラッパーとしては、DMXが挙げられる。DMXは1998年から1999年の二年間で三枚のアルバムをリリースし、急速に頭角を現していった。Jay-Zも一年に一枚のペースでアルバムをリリースするなど、ラッパーたちの制作ペースは確実に早まっていた。そして2000年代に入って訪れたラッパーの売り方の変化が、その早さをさらに加速させていく。NYのラッパー、50 Centの登場に伴うミックステープ時代の到来だ。
50 Centは2000年に起きたトラブルにより、一度アメリカの音楽業界からブラックリストに入れられてしまった。そこで、再起をかけて取り組んだのが、それまでDJが主導して作るものだったミックステープをラッパー主導で作ることだった。このミックステープでの活動が話題を集め、2002年にはEminem率いるShady Records及びDr. DreのレーベルのAftermathとの契約を掴んだ。
この頃の50 Cent(とG-Unit)のリリース量は、当時のラッパーとしてはなかなか多い。2002年の公式作品だけでも、「Guess Who’s Back?」、「50 Cent is the Future」、「No Mercy, No Fear」、「God’s Plan」と4枚もある。そしてその姿勢はメジャー契約後も変わらず、デビューアルバム「Get Rich or Die Tryin’」をリリースした2003年にも、G-Unitのデビューアルバム「Beg for Mercy」に加えて「G-Unit Radio」シリーズなどミックステープを数枚放っている。50 Centのブレイク以降、多くのラッパーがミックステープ経由で登場した。そして、既に成功を収めていたラッパーもミックステープでさらなる高みに上っていった。その筆頭がLil Wayneだ。
Lil Wayneは2000年代半ば頃からミックステープを多く発表。客演やリーク音源なども多く、かなりのハイペースでLil Wayneの新しいラップが世の中に届けられていった。こうしてLil Wayneは人気が爆発。10代の頃に染み付いたクリエイティヴィティが時代の流れと合わさり、2Pac以来の新しい「制作の鬼」のイメージがLil Wayneに定着していった。そして、Lil Wayneがシーンのトップに立ったことで、またさらに多くのラッパーがLil Wayneの影響を受けていき、ヒップホップの流れはさらに加速していった。


ビートメイクの分野での制作の鬼

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制作の鬼はラッパーだけではない。ビートメイクの分野にも、多くの制作の鬼がいた。
その筆頭は、デトロイトのプロデューサーのJ Dillaだ。1990年代に登場して多くの曲を手掛けていったJ Dillaは、2000年代に入ってからはそのクリエイティヴィティがさらに強く発揮していった。売れっ子プロデューサーとして多くのアーティストの曲を手掛けつつ、ソロ作品や自身が所属するグループのSlum Villageのアルバムなどもリリース。持病の悪化により入院生活を余儀なくされても病室に機材を持ち込み、亡くなるその日までひたすらビートメイクに勤しんでいたというその姿勢は、多くのビートメイカーに影響を与えた。2006年に亡くなってしまったが、死後も「The Shining」、「Jay Love Japan」、「Jay Stay Paid」など多くの作品がリリースされている。しかもJ Dillaの時代もまだスマートフォンがない時代である。
また、J DillaとレーベルメイトだったMadlibもかなり多作なアーティストだ。変名やタッグ作なども織り交ぜて膨大な作品をリリースしていったMadlibは、J Dillaと並んで多くのビートメイカーに影響を与えた。J DillaやMadlibは、ラッパーへの提供だけではなくインスト作品もリリースしていた。J Dillaが2006年にリリースした「Donuts」は名盤として語り継がれ、いわゆるビートテープと呼ばれる同様の形式の作品はビートメイカーの間で定番となった。
ブーンバップ以外の方面だと、Mannie Freshの仕事量も多い。Cash Money RecordsのハウスプロデューサーだったMannie Freshは、同レーベルの作品を一時期ほぼ全て一人で手掛けていた。Cash Money Recordsが一人に任せていたのに対し、No Limit Recordsでは先述した通りチームのBeats by the Poundがビートを担当。数の力でNo Limit Recordsの大量のリリースを支えていった。また、Bad Boy Recordsも1990年代から制作チームのThe Hitmenを組織し、数々の名作を生み出した。
J DillaやMadlib、Beats by the Poundなどの活動は、後のシーンに大きな影響を与えた。制作チームも多く結成され、2PacやLil Wayneの影響を受けたラッパーたちのクリエイティヴィティを受け止められる状況が出来上がっていった。


インターネット時代のノー・リミットなクリエイティヴィティ

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Datpiffのようなサービスの普及もあり、2000年代後半からミックステープはCD形式での発表からインターネット上でのフリーダウンロード形式での発表が増加していった。収録時間に制限があるCDから無制限のデータへ。この変化により、今まで考えられなかったような曲数の作品が登場していく。
インディアナのラッパー、Freddie Gibbsは2009年に「The Labels Tryin’ to Kill Me: The Best of Freddie Gibbs」というミックステープを発表した。同ミックステープの曲数はなんと81曲。Freddie Gibbsは同年にほかにも「The Miseducation of Freddie Gibbs」や「midwestgangstaboxframecadillacmuzik」なども発表しており、ハイペースに作品を発表する姿勢とその高い実力で注目を集めていった。
「The Labels Tryin’ to Kill Me: The Best of Freddie Gibbs」のジャケットとタイトルは、Master Pの1994年のアルバム「The Ghettos Tryin’ to Kill Me!」へのオマージュだ。Freddie Gibbsはラップスタイルからして2Pacの影響が強いが、この高いクリエイティヴィティにはそれに加えてMaster Pの影響があったことがここから伺える。
しかし、Freddie Gibbsの81曲入りはほんの序の口だ。収録時間がノー・リミットになったインターネット時代のミックステープには、さらなる恐ろしい曲数のミックステープが登場する。2Pacと同じベイエリアのラッパー、Lil Bの作品群だ。
Lil Bは2010年頃から大量のミックステープを発表。20曲を越えるものも多かったが、時には曲数が3桁にも上る作品もあった。Lil Bはミックステープのジャケットに、No Limit Recordsがブレイク時に起用していたデザイン会社のPen & Pixel Graphics風のデザインを好んで使用。また、2011年には2Pacオマージュの「BasedGod Velli」というタイトルのミックステープも発表している。No Limit Recordsと2Pacの影響が、ここにも表れていた。
そのほかにもGucci ManeやFutureなども精力的にミックステープを発表。J DillaやMadlibの系譜のプロデューサーでも、Knxeledgeなどが膨大な作品をリリースしていった。Beats by the Poundのようにチームを組んだ808 Mafiaのような集団も登場。SoundCloudやBandcampといったツールの浸透やスマートフォンの普及などで自主での活動が行いやすくなったこともあり、ラッパーもプロデューサーもさらに動きを加速させていった。


加速するシーン

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2010年代にはFutureやLil Bなどの人気が高まり、Lil Uzi VertやYoung Thugなど彼らに影響を受けたアーティストも次々と登場していった。Lil Wayneの影響力も依然として強い。また、この流れはヒップホップだけに留まらず、ヒップホップの近接ジャンルであるR&Bにも浸透。Chris Brownなどが二枚組アルバムをハイペースでリリースしながら「俺には未発表曲が800曲ある」などと言うようになっていった。そして、2010年代後半には「~っぽいビート」を売買する「タイプ・ビート」も定着。駆け出しのラッパーでもビートが容易に入手できる環境が整った。また、サンプルパックやチュートリアル動画の充実などもあり、ビートメイカー側も制作を行いやすくなっていった。こうして現在のような制作ペースが完全に浸透。毎週のように嬉しい悲鳴を上げ続ける状況が出来上がっていった。
2PacやJ Dillaに始まり、No Limit RecordsやCash Money Recordsに繋がり、ミックステープの浸透で加速して現代へ。今では日本でもGREEN ASSASSIN DOLLARやmatatabiなどが精力的にビートテープを発表し、50曲入りのアルバムをリリースするweek dudusのようなラッパーも登場してきている。ライブの機会が減ったコロナ禍では、制作の時間を増やすアーティストも多いだろう。2021年もヒップホップは猛スピードで進んでいくに違いない。そんな状況を受け、私も未公開のレビュー記事が70000本溜まってしまった。嘘です。

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