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日常に散歩を、生活に音楽を、心に花束を

昨日、イヤホンガイドの経験もある歌舞伎ソムリエ・おくだ健太郎さんの「オンライン歌舞伎講座」に参加。

そこで「外国人を歌舞伎にお連れする際、どう案内すればいいか?」という質問が出ました。おくださんの答えは、

「歌舞伎座のロビーや売店などをお見せすればいかが?」

という意外なもの。

歌舞伎鑑賞といえば私たちは「演目の内容を理解しよう」とします。しかし、それは本当に正しいのか? 「理解」に集中するあまり、大切なものを見落としているのではないか? これはビジネスや生活、人間関係のあらゆる場面に通じる話かもしれません。思わず自問自答しました。

「私たちは、身近にある大切なものを見落としていないか?」


「大切なもの」を後まわしにする本末転倒

そんな話を聞いたからというわけではないですが、天気もいいので仕事場へ向かう前、歌舞伎座まで散歩しました。

私の事務所から歌舞伎座までは十分散歩で行ける距離です。この「近さ」こそが曲者。「いつでも行ける」と思うからこそ、人間はそこへ行かないのです。

つい近くにあるものを後まわしにする私たち。思い起こせば昔のほうがよく歌舞伎を観にいってました。「行こうと思えばいつでも行ける」距離になった今のほうが行ってません。

「遠くて行っていない」海外のことはよく考えるのに、いつでも行けるところには行こうとしない。
難しくことを教えてくれるセミナーのことはいつも気になるのに、身近な学びについては意識が希薄。
久しぶりに会う仕事関係者には丁寧に対応するのに、身近な人間には感謝の言葉を掛けることすら疎かに。

・いつでも行ける
・いつでもやれる
・いつでも言える

だからこそ後まわしにする本末転倒にハタと気が付きました。まったくもっていけませんねえ。


無意識に「ビジネスモード」に入ってしまう私たち

歌舞伎を観るときも同じです。つい「内容を理解」することに全力を注いでしまう。難解な言葉が多いからこそ、その意味を読み取ろうとします。その反面、大向こうからの「よっ、成田屋!」という掛け声はじめ、その場の空気を「楽しむ」余裕を失っている。ビジネスセミナー・モード全開、頭でっかちの具体的な学びグセ。大事なことが後まわしになっている。

私も著者としてビジネス本を書くとき、「わかりやすく・具体的に」書くよう心掛けます。それが業界の常識だから。こうして書棚には「わかりやすく・具体的で・直ぐ役立つ」ビジネス本があふれます。いつしか書き手も読み手も、その空気に慣れてしまう。すると歌舞伎鑑賞でも「言葉の意味がわからない」ことに苦痛を感じるのです。

なんだかなあ、というもやもや気分を抱えて散歩に出れば、歌舞伎座までの道のりにはいろんな店があります。おいしそうなレストランや、楽しげなグッズのお店、あやしいサービスのお店などなど・・・。いつもとちがう道のりには、ちょっぴり新鮮な発見があります。別に映画館や美術館に行かなくても、身近なところに花は咲いている。家と職場の往復を繰り返すうち、そこに目を向ける感性を失ってしまっていたわけです。

「劇の内容そのものより、雰囲気を楽しむこと」

おくださんの何気ない一言は、具体的に生き過ぎている私たちへの警鐘に聞こえました。

たった50mにあった悲しみと喜びと

銀座4丁目まで歩くと、とんでもない光景を目にしました。
あんぱん木村屋の横にあるはずの銀座山野楽器がありません! なんてこった! ビルの1階は某携帯キャリアのショップになり、CD売り場はビルの上階へ移動したそうです。CD売上げ不振とはいえ、とうとう山野楽器がなくなってしまうとはあまりに悲しい。広々とした売り場をめぐりながら「見知らぬ音楽」との出会いを楽しむ場がなくなってしまった。

かなりのショックですが、気を取り直してその横の教文館書店に入ります。すると、誰かの書いた「名画で学ぶ経済の世界史」が売れ行きランキングに入っているではないか! 思わず書店員さんに声を掛けると「売れてます。まとめ買いも入っています!」との嬉しいお言葉。やはり銀座のお客さんはお目が高い。書店員さんに深々と御礼して店を後にしました。


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悲しんだり、喜んだり。距離にしてほんの50mの喜怒哀楽。
これだけの散歩で心は動くもの。明日に向けてやる気がでます。さあ、いい音楽聴きながら原稿を書こう。そこにある日常を楽しむことを忘れずに。

道ばたに咲く小さな花を見落とさない心の余裕を失わぬよう。

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