老人ホームほすぴたるの里第五回「トシさんの荒城の月」

トシさん、87歳。
足腰はもう立たない。
かろうじてポータブルトイレに座れる。
トシさんは食べることが好きだった。
この病院暮らしの中での楽しみは食べることだった。
担当のケアマネージャーが頼まれて、ごはんのふりかけやごはんのお供を買ってくる。
だが、トシさんは経済的にあまり与力がないのだ。
「家はどうなっているかしら、庭は草だらけじゃかいかなぁ。」
もう入院して2年ほど経つらしい。

私は介護療養病床のあるクリニックに勤め出して、すぐ根を上げた。
入って3日で辞めさせてほしいと言った。
まだ寝たきりの方への介助や知識がない私は病院でのルーティンワークにびびってしまった。
幸か不幸か辞めさせてはくれなかった。

「こうじさん、周りの看護師さんたちがあなたすぐ辞めるんじゃないか、どうせ役にたたないんだろう、って言ってた。だから、アンタ辞めちゃいけないわよ。」
トシさんが陰口を叩かれているのを教えてくれた。
利用者さんは職員が何を話しているかちゃんと聞いているのである。

ある日、トシさんのポータブルトイレでの介助をしていたら、私の胸ポケットに入れてあったボールペンがポータブルトイレの中に落ちてしまった。
どうせ、100円しない代物である。また、買えばいい。 
「ごめんね。」
トシさんは申し訳なさそうに謝った。
「いや、いいんだよ。安物なんだから。」

翌日、トシさんの病室に行くと、
「はい、これ。昨日はありがとうね。」
と、ティッシュペーパーに綺麗に包まれたものを渡された。中には千円札が入っていた。
「いや、いや、トシさん、これは受けとれないよ。それにあれは100円もしないもんなんだ。」
「あれが100円であるもんね。あなたはこれを受けとらないとダメ。私に恥をかかせるつもり?」
私は負けてとりあえず受け取った。
「そう、それでいいの。」
トシさんはニコっと笑って言った。
師長さんやケアマネージャーさんに事情を話したが、それはトシさんに返さないと、と言われた。
結局、私がその千円を預かることになった。

「あなたに頼みがあるの。これ買ってきてくれない?」
トシさんは空になったごはんの供の容器を私に差し出した。
ケアマネージャーさんが代わりに買ってくるのは月2回と決まっていて、どうやらそれを待たずに空になってしまったらしい。
私は迷ったが、買ってきてあげることにした。
「お金渡しとく。」
それを私は制した。
「いや、お金はこの前の千円があるから大丈夫。」
実際には手をつけずに引き出しにしまったままだ。手をつけるわけにはいかない。

「ねぇ、これ絶対バレたらダメだよ。バレたらオレクビになるからね。」
翌日買ってきたものを渡すときにトシさんに念を押した。
「それは心配ご無用。」
何故かトシさんは笑って言うのだった。

数日後、ある職員同士の会話が聞こえてきた。
「トシさん、あれどうやって手に入れたのかしら。」
「なんか、デイに来てる仲の良い利用者さんから買ってきてもらったって言ってるけど。」
凄い。トシさんは最初からつく嘘を決めていたのだ。
やるな、トシさん。
私はトシさんの博打に乗っかってみることにした。
結果、トシさんの狙い通りに事は進んだ。

それから半年後あたりになった頃だろうか。
トシさんは必ずごはんを残すようになった。
「あれ、どうしたの、トシさん。またごはん残してるけど。」
「うーん、なんだかねぇ、ちょっと食欲がないのよ。」
食事量が落ちるときは何かを疑わなくてはならない。ましてや、食べるのが好きだった人なら尚更。

やがて病棟は廃止になり、トシさんは新しい特別養護老人ホームに移ることになった。
私は系列のグループホームに移動を申し出た。
その際にあの日渡された千円を特養にいっしよに移る師長さんに渡した。

2年ほど経った頃だろうか、その特養にいっしよに移った職員とばったり会ったときにトシさんの死を告げられた。
「あれは雨の日だったかな。前日からトシさん体調が悪くなって。病院の先生は病院に連れてこい、と言う。あの先生でしょ(笑)往診してくれればいいのに。連れて行く準備までして。
そしたら、翌朝、トシさんはそのまんま亡くなった。
多分トシさんは病院に行きたくなかったんだよ。」
「私もそう思います。」

トシさんはいつも病院の廊下の窓から車椅子に乗って滝蓮太郎の「荒城の月」を歌っていた。

春紅楼の花の宴
めぐる盃 かげさして

ぼんやりとその面影が聞こえてきた。

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