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日本誕生の謎を解く⑬戦時体制を強化する倭国


孝徳天皇の時代

乙巳の変後に即位した孝徳天皇は飛鳥から難波に遷都しました。
難波は今の大阪。
半島情勢に対応するための遷都と思われます。

唐は高句麗の反唐クーデターの発生を確認し、644年11月には高句麗への軍事侵攻を開始し、翌645年2月、太宗みずから大軍を率いて高句麗へ進軍しました。

百済は高句麗と連携して新羅に攻め込みました。
百済は倭国へも軍事支援を要請したはずですが、細かい情報は記録に見えません。

倭国では、北の蝦夷に備えて渟足柵、磐舟柵といった軍事施設を越国に築いて備えたという記録がありますが、半島に介入しようとした気配がありません。

653年、皇太子である中大兄が旧都である「倭京(やまと)」への遷都を要請し、孝徳天皇はそれを無視したので、中大兄は母(元皇極女帝)と皇后間人皇女、大海人皇子と役人の大半を引き連れて倭京へ引越しし、気を落とした孝徳天皇は翌年病気になって59歳で崩御しました。

この記録はとても不思議です。

まず孝徳天皇の皇太子(公式の跡継ぎ)が中大兄、つまり倭王の姉の子なのです。
普通なら跡継ぎは子である有間皇子のはずですが、有馬皇子はあとで謀反容疑で処刑されます。

中大兄が倭王になるまでの中継ぎが必要だったのなら、皇極女帝が退位する必要はなかったはず。

次に、中大兄一派はなぜ倭京への遷都を主張したのでしょうか。

これも私の想像ですが、孝徳天皇が百済支援に消極的なので、腹を立てて倭京に引っ越したのではないか。

半島に介入しないのなら難波にいる意味がないではないか、という主張です。

そして役人の大半が中大兄に従ったことをもって、孝徳天皇はもともと傀儡倭王であり、実質的な指導者は中大兄親子だったと書紀は主張していますが、逆に不自然な感じがします。

おそらく倭国内には戦争反対派が多くて、孝徳天皇はそれらを無視できなかったのだと思いますが、中大兄親子は百済支援によほどこだわっていたのでしょうか。

倭国では孝徳天皇の死後、655年に斉明女帝が即位しました。

このあたり、神功皇后の三韓征伐のくだりと似ているので、いずれ別の記事で触れようと思います。

女帝再び即位

斉明女帝は乙巳の変で譲位した皇極女帝と同一人物で、中大兄皇子の母です。古代史上、とりわけ謎の多い重要人物です。

斉明女帝の時代は半島との交流記事が多いです。
以下、Wikipediaから抜粋。


655年
7月11日 - 北の蝦夷99人・東の蝦夷95人・百済の調使150人を饗応
8月1日 - 河辺麻呂が大唐から帰国
10月13日 - 小墾田に宮を造ろうとしたが、中止。
冬 - 飛鳥板蓋宮が火災に遭い、飛鳥川原宮に遷幸。

656年
8月8日 - 高句麗が大使に達沙、副使に伊利之、総計81人を遣わし、調を進める。
9月 - 高句麗へ、大使に膳葉積、副使に坂合部磐鍬以下の使を遣わす。
飛鳥の岡本に宮を造り始める。
途中、高句麗、百済、新羅が使を遣わして調を進めたため、紺の幕を張って饗応。やがて宮室が建ったので、そこに遷幸し後飛鳥岡本宮と名付けるが、岡本宮が火災に遭う。
香久山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで石垣を巡らせた。
吉野宮を作る。
多武峰に両槻宮を作る。
この時期、天皇主導での土木工事が相次ぎ、掘った溝は後世に「狂心の渠」と揶揄された。
西海使の佐伯栲縄と吉士国勝らが百済より還って、鸚鵡を献上する。


657年
7月3日 - 覩貨邏国(とからのくに)の男2人・女4人が筑紫に漂着したので、召す。
7月15日 - 須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行なった。暮に覩貨邏人を饗応。
9月 - 有間皇子が狂を装い、牟婁温湯に行き、帰って景勝を賞賛した。天皇はこれを聞いて悦び、行って観たいと思う。
この年 - 使を新羅に遣って、僧の智達・間人御厩・依網稚子らを新羅の使に付けて大唐に送ってほしいと告げる。新羅が受け入れなかったので、智達らは帰国。

658年
1月13日 - 左大臣巨勢徳多が死去。
4月 - 阿倍比羅夫が蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応。
5月 - 皇孫の建王が8歳で薨去。天皇は甚だ哀しんだ。
7月4日 - 蝦夷二百余が朝献する。常よりも厚く饗応し、位階を授け、物を与える。
7月 - 僧の智通と智達が勅を受けて新羅の船に乗って大唐国に行き、玄奘法師から無性衆生義(法相宗)を受ける。
10月15日 - 紀温湯に行く。
11月5日 - 蘇我赤兄が有間皇子の謀反を通報。
11月11日 - 有間皇子を絞首刑に、塩屋鯯魚と新田部米麻呂を斬刑にする。
この年 - 沙門の智喩が指南車を作る。

659年
1月3日 - 紀温湯から帰る。
3月1日 - 吉野に行く。
3月3日 - 近江の平浦に行幸。
3月10日 - 吐火羅人が妻の舎衛婦人と共に来る。
3月17日 - 甘檮丘の東の川辺に須弥山を造り陸奥と越の蝦夷を饗応。
3月 - 阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせる。阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎 (みしはせ)(オホーツク文化人)と戦って帰り、虜49人を献じる。
7月3日 - 坂合部石布と津守吉祥を唐国に遣わす。
7月15日 - 群臣に詔して、京の内の寺に盂蘭盆経を説かせ、七世の父母に報いさせる。

660年
1月1日 - 高句麗の使者、賀取文ら百人余が筑紫に到着
3月 - 阿倍比羅夫に粛慎 (みしはせ)を討たせる。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、これを破る。
5月8日 - 賀取文らが難波館に到着
5月 - 勅して百の高座と百の納袈裟を作り、仁王般若会を行う。皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻を作る。阿倍比羅夫が夷50人余りを献じる。石上池のほとりに須弥山を作り、粛慎 (みしはせ)47人を饗応。国中の百姓が、訳もなく武器を持って道を往来。
7月16日 - 賀取文らが帰る。覩貨邏人の乾豆波斯達阿が帰国のための送使を求め、妻を留めて数十人と西海の路に入る。


女帝の戦争準備

658年頃から阿倍比羅夫に命じて北海道方面への遠征を進めさせました。

この遠征では粛慎という北方民族との戦闘により能登馬身龍(のとのまむたつ)という地方豪族が戦死した記録があります。

斉明女帝は唐との戦争に備え、倭国の勢力範囲をできる限り拡大し、北方の境界線を安定させておく必要を感じていたのでしょう。

結局のところ、半島への軍事侵攻を行っていません。
そして、唐との国交正常化に努めていたように思えます。

というのも579年に唐へ使者を送ろうとして新羅に協力を求め、断られているからです。

万が一に備えて戦争準備はするが、できれば開戦は避けたいと考えていたのです。

百済滅亡と呪われた女帝の死

高句麗戦争がうまく行かないことに業を煮やした唐は、戦略を一転し、660年3月、水陸13万の兵力で海上から百済にへ侵攻しました。

不意を突かれた百済は一瞬のうちに首都を占領され660年7月に滅亡し、百済政府の高官や貴族の一部は倭国へ脱出しました。

斉明女帝の政権にとって百済は重要な後ろ盾です。
それが一瞬で消滅すれば当然、女帝の地位も危機に瀕します。

百済は唐軍に占領されましたが、その後、百済の旧臣である鬼室福信らが反唐ゲリラ活動を開始するとともに、倭国に対し百済復興のための支援を要請しました。

倭国は人質であった百済王太子の余豊璋を百済に派遣して反乱軍を支援しつつ、北九州に大本営を置いて朝倉の宮と呼び、ここを半島作戦の前進基地とします。

斉明女帝と中大兄も朝倉に移動しました。

このとき朝倉の宮の周囲で鬼火が出現し、多数の側近が謎の死を遂げたうえ、陣頭指揮をとっていた女帝自身も朝倉の宮で病死したと記録されます。

恨みを持って死んだ誰か鬼となって斉明女帝を呪い殺したと当時の人々は解釈したわけですが、その鬼とは誰だったのか。

半島出兵のために女帝が北九州に移ったところで出現した鬼です。

半島出兵を阻止したかったが、女帝のせいで非業の死を遂げ、それを果たせなった人でしょうね。

確かにそんな人がいました。

女帝は後悔していたかもしれません。

以下、日本書紀から。


皇太子(中大兄)は天皇の喪をつとめ、帰って磐瀬宮に着かれた。
この宵、朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。
人々は皆怪しんだ・・・



中大兄皇子が母の後を継ぎます。


ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 <(_ _)>