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日本誕生の謎を解く⑭百済滅亡と倭唐激突



百済滅亡後の女帝周辺の動き


660年
7月 - 百済が唐と新羅により滅亡
9月5日 - 百済の建率の某と沙弥の覚従らが来日。鬼室福信が百済復興のために戦っていることを伝える。
10月 - 鬼室福信が貴智らを遣わして唐の俘百余人を献上し、援兵を求め、皇子の扶余豊璋の帰国を願う。天皇は百済を助けるための出兵を命じ、また、礼を尽くして豊璋を帰国させるよう命じる。
12月24日 - 軍器の準備のため、難波宮へ行幸。

661年
1月6日 - 西に向かって出航。
1月8日 - 大伯海に至る。大田皇女が皇女を産み、大伯皇女と名付ける。
1月14日 - 伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる。
3月25日 - 娜大津に着き、磐瀬行宮に居す。
4月 - 百済の福信が、使を遣わして王子の糺解の帰国を求める。
5月9日 - 朝倉橘広庭宮に遷幸。朝倉宮の木々を切り倒して宮殿を作ったら雷神が怒って御殿を破壊した。宮殿内に鬼火が現れ大舎人や近侍が多数死んだ。
5月23日 - 耽羅が初めて王子の阿波伎らを遣わして貢献
7月24日 - 朝倉宮で崩御。
8月1日 - 皇太子が天皇の喪に付き添い、磐瀬宮に到着。この宵、朝倉山に
10月7日 - 天皇の喪が帰りの海路に出航。
10月23日 - 天皇の喪が難波津に着く。
11月7日 - 飛鳥の川原で殯した。9日まで発哀。

女帝の本音

660年7月、唐軍の侵攻を受けて百済が滅亡しました。
女帝周辺は百済滅亡を知って驚愕したはずです。

百済から唐軍の捕虜が100人も送り付けられて、女帝はどう思ったでしょう。


百済を今すぐに復興しなければ高句麗は南北から挟撃されて滅亡する。

百済と高句麗が消滅したら倭国はどうなるか。唐軍は新羅の手引きで北九州へ侵攻するかもしれない。

そこで一戦して負けでもしたら倭国政権は崩壊してしまうだろう。

今すぐ倭国軍を半島に上陸させて百済を復興しなければ。

いやしかし、そんなことができるだろうか。

倭国が兵力を保持してさえいれば、唐軍が対馬海峡を越える前に和平交渉ができるかもしれない。

しばらくは半島情勢を観察して、決断は先送りにしよう。



百済出兵宣言

女帝は660年10月に百済救援軍の出兵を宣言し、百済王族である余豊章を前線に送り出しました。

年末には倭京から女帝みずから難波の宮(大阪)に移動し、翌年1月初旬に西国へ向けて出航、3月末に那の津に到着しています。

ひと月ばかり那の津に滞在してから内陸部の朝倉宮(福岡県)に移り、その二月後に女帝は病死しました。

倭京から筑紫への船旅の末、古今未曽有の大戦争を前に外交戦略を立案し前線で指揮するのですから、かなりの疲労と心労であったはずです。

しかし、出兵宣言はしたものの、女帝が百済に援軍を派遣しようと考えていたとは思えません。

唐との戦争に突入した場合のリスクについては、周辺からさんざん聞かされていたはずです。

書紀によると、この時期、駿河の国に命じて船を造らせたが、伊勢の国に着いたとき、船の艫と舳が入れ替わっていたので、人々は敗戦を予感した。また、信濃の国で、蠅の大軍が西に向かってとんでいったのは救援軍が負けるしるしだと噂され、そうした童謡(わざうた)も流行ったともあります。

つまり、倭国内では唐との戦争に否定的な意見が多かったと書紀は言いたいのだと思われます。

よって、私は斉明女帝が最後まで開戦を決意しなかったと考えます。

かといって、今さら百済との縁を切ることもできない。

あくまで唐軍の侵攻に備え、もし開戦となっても早期に講和する腹づもりであったと思うのです。

むしろ、倭軍が百済人にそそのかされて勝手に戦端を開くことを恐れ、前線で倭軍に暴走させないために、そして、唐との迅速な外交交渉のために女帝は筑紫へ移ったのはないか。

そう考えると、那の津から内陸部に移動したのも、倭軍が半島に上陸するつもりがないことを唐帝国に対し行動で示す意図であったとも思えます。

そんなときに突然女帝が病死したと言うのですが、このタイミングでの「死」を私は疑います。自然死でもなく、呪われたわけでもない可能性です。

なぜなら女帝の死を境に倭国の方針が一変したからです。

女帝の死後

7月24日、斉明女帝が崩御し、10月7日に遺体は倭京へ向けて出航し、中大兄もそれに付き従ったと記録され、これ以降、筑紫へ移動した記録がありません。

女帝の葬儀のあと、中大兄皇子は倭京又は難波京あたりで百済派遣軍の指揮を執っていたと思われます。

これは作戦の主導権を余豊章に一任し、自身は後方支援に専念することにしたように見えます。

そして、百済亡命政府の支援要請に応じて出兵準備を進めました。

きっと斉明女帝は、

「唐軍に手を出すなよ。余計なことするなよ。百済の戦いは百済人にやらせとけ。」

と周辺にひそかに伝えていたでしょうが、中大兄皇子は母親とは考えが違っていたようです。
百済人との密接な人間関係が彼の気持ちを動かしたのでしょうか。

それとも、

「いやあー、うちのオカンは最近体調悪くてさ~」

というごまかしが使えなくなってしまったからでしょうか。

半島から唐軍を排除して百済を復興し、高句麗軍及び百済軍と連合して新羅を滅ぼせば、伽耶(半島南端)を回復せよという欽明天皇の遺命を達成し東アジアの盟主になれる。

そんなことを夢見たかもしれないし、半島進出を夢見る西国の氏族たちからの衝き上げがあったかもしれないし、もっと別のことを企んだかもしれません。

そもそも、彼は最初から半島に出兵する意図をもっており、出兵に前向きになれない女帝に反感を抱いていた可能性もあります。

古代史上もっとも重大な決断

以下は中大兄皇子の心境についての想像ですが、日本史上きわめて重要な部分ですので、この記事の読者の皆様にはぜひ一度、これについて真剣に想像していただきたいです。


倭国内には親新羅・親唐の勢力が潜在している。

百済滅亡により自分たちの立場は極めて不安定な状態にあり、新羅や唐にそそのかされて、いつクーデターか内戦が起きてもおかしくない。

いまは臨戦態勢にあるからどうにか軍事指揮権を握れているが、もし一瞬でも手放したら内乱が起きるだろう。

一方で、倭国軍を半島へ出兵させなかったら、百済遺臣からの支持も失い、やはり自分は殺される。

自分たちの周りを百済の息のかかった者たちで固めてしまったからだ。

あいつらは、その気になったら何をしでかすかわからない。

女帝の死も怪しいものだ。。。

この状況を打開するには、唐軍と一戦して勝つしかない。

唐軍を半島から撤退させられれば、百済、新羅、高句麗の盟主として唐に対抗し、英雄的カリスマで権力を維持できる。

高句麗は過去に何度も中国軍を撃退できたではないか。高句麗にやれたことが自分たちにできない理由はない。

ではもし作戦が失敗して、半島から倭軍が撤退することになったら。。。

大量の百済人を倭国で受け入れることになる。

あのキケンな奴らで政権中枢を固めることができれば、内乱が起きても鎮圧できるだろう。。。

百済の有能な官僚をタダ同然で大量にスカウトすれば、倭国は敗戦を機に一気に律令国家体制へ移行できる。

しかし、唐との関係をどうする? 唐軍が海を越えて攻めてくる前に唐と講話するしかない。

それは倭が唐に屈服することであり、百済復興の夢は絶たたれることになるから百済人たちは怒るだろう。

だが、説得次第ではヤツらを取り込むことができる。
ヤツらに地位と権力を与え、倭国を第二の祖国と思わせればいいのだ。。。


白村江の戦い


百済を占領した唐軍は本来の敵である高句麗の領土へ南から進撃しますが、その後、鬼室福信率いる百済遺臣のゲリラ軍が後方をかく乱したので、唐軍はこれの鎮圧のために半島南部へ引返しました。

百済軍は倭国の間接支援を受けて粘り強く反唐作戦を継続しましたが、やがて鬼室福信と百済太子豊璋との対立が生じ、鬼室福信は豊璋によって暗殺されてしまいました。

余豊章は百済の王族で倭国の人質でしたが、倭国承認のもとで百済に送り返されました。

彼は倭国の指揮命令を現地で代行する立場ですが、鬼室福信が彼のいうことを聞いてくれなくて困ることが多かったのでしょう。

鬼室福信が殺されて、倭国主導でケリがついたものの、現場を知らない者が指揮するとロクなことになりません。

書紀によれば、中大兄皇子は661年、ついに朴市秦田来津(えちのはたのたくつ)らにおよそ1万の兵を与えて半島に先発させ、翌年には上毛野君稚子(かみつけののわかこ)と阿倍比羅夫らの2万7千を送り、さらに廬原君臣(いおはらのおみ)率いる1万を送りました。

間接的な軍事支援から、唐との直接対決に切り替えたのです。

高句麗が頑張っているから大丈夫。
高句麗軍と倭軍で半島南部の唐軍を挟み撃ちにし、そのあとは有利な条件で唐と講話すればよい。

日米開戦時の日本軍首脳の心理状況と似ているような気がします。

663年、唐軍は百済と倭の連合軍を迎え撃つため劉仁軌将軍率いる水軍に半島西岸を南下させ、両軍は白村江というところで激突します。

水軍7000の唐軍に対し倭国軍は4万を超えたそうですから、規模としては倭国軍が優勢に見えたのでしょう。

我等先を争はば、敵自づから退くべし(書紀)

突進すれば敵は逃げていくだろうという単純な戦法だったと記録されます。

倭軍は倭王直轄軍と有力氏族の連合軍です。
倭兵たちは、勝てば半島でなんらかの権益や財宝や人材を獲得でき、一族の繫栄につながると夢見ていたかと想像します。

これに対し唐軍は左右からの挟み撃ちに成功し、倭国軍は壊滅的な損害を受けてしまいました。

倭国滅亡の危機

朴市秦田来津は奮闘のすえ戦死し、余豊章は高句麗へ逃走。筑紫君の薩夜麻など生き残った者の多くは捕虜になりました。
要するに百済派遣軍は壊滅し、倭国は敗北したのです。

倭人達は唐軍の実力をどう認識していたのでしょう。
中国人は文明はすごいけど戦闘では大したことない。
と甘く見ていたのでしょうか。

日米開戦のときの日本人は
「米兵は敵を見たらすぐ逃げ出すんだってさ」
みたいなイメージを持っていたそうですから。

親百済政策はここに来て完全に裏目に出てしまいました。

倭国の存亡をかけて最大動員をかけたであろうこの戦役で、主力軍が消滅してしまいましたが、唐軍は対馬の目前に来ています。

唐軍が北九州から瀬戸内を経由して畿内に侵攻してくるかもしれない。
唐軍には水上からの奇襲で百済を滅亡させ、数倍の兵力の倭軍を一瞬で壊滅させるほどの実力があるのです。

中大兄皇子は北九州で作戦を統括していたでしょうが、敗戦の報を聞いて何を思ったでしょう。

もはや手持ちの兵力はないのだから、これ以上、半島に関わっていても意味がない。

半島から百済人と倭兵を一人でも多く撤退させ、筑紫での防御態勢を万全にしなければならない。

一隻でも多く船を送り、避難民の受け入れ態勢を作らねば。

筑紫に百済臨時政府を作り百済人を監督させよう。

倭国始まって以来最大の危機に直面することになりました。


つづく


ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 <(_ _)>