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寄付という免罪符は手に入らない

小寒|水泉動
令和6年1月14日

2023年も、長い一年だった。年末に、一年分の日記の振り返りを行った。コロナが幾分落ち着いて、マスクを外すことが増えたと思えば、インフルエンザが流行ってまたマスクをつける生活に戻った。飲んだ酒の銘柄をいちいちメモしていた。しかしほとんどの味は思い出せない。日記を読むまで忘れていたイベントがいくつもあった。一年という期間は、自分の記憶力に対してあまりに長い。

2024年は、能登の震災から始まった。滞在していた福島・喜多方も揺れが大きく、テレビが倒れないようにしばらく手で支えていた。ほどなくして、そのテレビから、倒壊した家屋の映像や、津波を危惧するテロップが流れ始めた。「にげて」という大きな文字、アナウンサーの叫び声。さっきまでの正月気分は跡形もなく吹き飛び、画角が変わらない固定カメラの映像ばかりを、ただただ食い入るように見つめていた。

この気持ちをどうしたら落ち着かせられるだろうか。ネットで調べて上位に出てきた、信頼の置けそうなNPOに寄付をした。そのNPOは、元日中に災害支援のヘリコプターを遠方から飛ばして、医療チームとともに被災地入りをしていた。自分の寄付金はこの尊い活動に使われたのだろうと安堵する。しかし、気持ちは落ち着くどころか、自分が正月気分を味わいたいために、その後ろめたさへの免罪符として寄付をしたことに対して、さらに違和感が膨らんでいった。そもそも自分は、特定の事象に対して寄付する機会は多くない。共感や尊敬を覚える人・団体の熱意に出会った際に、その熱意への応答として、ある種のコミュニケーション方法として、寄付することが多かった。しかし、今回の寄付は全くもって別の力学が働いている。年始の頭の中は、寄付でいっぱいになってしまった。

翌日の日記には、元日に引いたおみくじの詳細を記載している。日記の上では、震災の衝撃も、寄付のモヤモヤも、すでに終わっている。日記とはそういうものである。けれど、日記に書かれないほどのちょっとした引っかかりや、滓のように微細な思考のかけらたちが、日常の大部分を形作っている。視力が落ちてきたと感じること、冷凍庫がいっぱいになってきていること、そして、世界で戦争が終わらないこと。

-T.N.

水泉動

シミズアタタカヲフクム
小寒・次候

より被災地に近い支援団体に寄付をした方が、もっと効果的だったのではないかと思った。普段は敬遠しているはずの効果的利他主義が、こんなところで顔を出した。意識的な思考と、無意識的な思考では、まったく別人のような思考回路を辿る。

タクラボ「WHAT A WONDERFUL LIFE!ー素晴らしきかな人生ー」

演劇を好きになったのは、2018年の幻冬舎Presents「無謀漫遊記-助さん格さんの俺たちに明日はない-」を観たのがきっかけ。そこから立て続けに何度か舞台へ足を運び、その度に感動で涙を流した。話に感動するのもそうだが、熱い演技に涙してしまうことも多い。今回の舞台も盛大に泣いてしまった。競馬で失敗し、役者も振るわず、ヤクザの世界から足を洗い、警察から逃げ続ける半生。決して幸せな一生とは呼べないけれど、それでも人生は素晴らしい。

参考文献

なし

カバー写真:2023年12月23日 嘗めたくなるような田越川の映り


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寄付という免罪符は手に入らない
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