「飲みに行きませんか」の文化論
雑節|八朔
令和6年8月1日
お酒を飲みたいのではなく、ある人に会いたい、喋りたい、お近づきになりたいとき。「会いませんか」ではあまりに直接的すぎて構えてしまうし、「ご飯に行きませんか」だと少しばかりのよそよそしさもある。そう考えてみると、「飲みに行きませんか」はちょうどいい距離感にある言葉で、会食も合コンも収穫祭も結婚式も、あらゆる場面はお酒とともにある。自らは飲まなくても、酒の席が好きという人もよく聞く。
なぜそこに酒が必要とされるのか。例えば、お祭りの屋台にはビールが似合うが、それは焼きそばやウインナーの油を喉越しよく洗い流したいからで、歓迎や祝福、挨拶の酒とは意味合いが違う。アルコールによる気分の高揚は一つの理由として挙げられるだろう。初対面の人と話すとき、新しい環境に迎え入れられたとき、等身大の自分では心許ないが、酒を飲むことでその不安は棚に上げられる。しかし、それだけでは説明ができないことが、この「飲み」にはある気がする。
ワイン交換という文化がある、とレヴィ=ストロースが書いているという本を読んだ(孫引きはいつでもややこしい)。目の前に置かれたワインは自分のためのものではなく、隣の客のグラスに注ぐためのもので、それをきっかけに関係性が生まれる。日本でも「手酌はよくないですよ」と言って隣の人の杯にお酌したりする。手酌の何が良くないのかといえば、それは自分の分を自分で注ぐのだから良くないのだ。利己的とかそういうわけではなく、「酒とはそういうものだから」以上の理由はないだろう。
昔は酒は必ず集まって飲むものであった、と柳田國男は書いている。そもそも、酒は祭りにおいて神に供えて、氏子一同で飲むものとして造られるため、飲みたいと思っていつでも手に入るものではなかった。また、一人でちびちび夜に飲むのを晩酌と言うが、こちらも元は「労働する者が慰労に飲まされる酒」であったという。ここにも他者の影がある。単にアルコールの有無ではなく、提供する/される他者の存在が酒を酒たらしめている。「飲みに行きませんか」とは、酒が社会的な装置であることを思い起こさせてくれる挨拶なのだ。
-T.N.
寒蝉鳴
ヒグラシナク
立秋・次候
前候、涼風至のとき。灼熱の日中を過ぎ、少し風が出てきた夕方頃に、近くの商店街を歩いていた。松の湯という昔ながらの瓦屋根の銭湯に入ると、こぢんまりとした露天風呂があった。露天風呂に併設されている外椅子で休んでいると、ふーっと涼しい風が身体を撫でていく。そうか、もう涼風至か。コヨミはいつも正しい。いやむしろ、コヨミはいつもそこに佇んでいて、誰かに見つけられるのを待っているのだろうと思った。
参考文献
柳田国男, 酒の飲みようの変遷, 木綿以前の事(岩波文庫), 1979, p. 136-147
近内悠太, レヴィ=ストロースが見た「社会のささやかな連帯が生まれる瞬間」, 2020年3月27日, 閲覧2024年8月15日
カバー写真:
2024年8月15日 暑さなんてへのかっぱ、と思わないとやっていけない夏。終戦を思う余裕もない暑さ
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「飲みに行きませんか」の文化論
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