海の処方箋

 雪の結晶が好きだ。
 ある冬の朝、中学への登校途中に横断歩道で立ち止まると、ちらつき始めた雪が紺色の制服の袖にひとひら舞い降りた。目を遣ると幾つかの結晶が折り重なっていて、私はそのまま樹氷の森に迷い込んだ。信号が青に変わっても気付かず、一番前にいた身体が後ろにいた生徒たちに押されてやっと通学路に引き戻された。

 その日は授業中ずっと樹氷の森の向こうに見えた風景を反芻していた。

 灰色の空から灰のような雪が舞い降りて暗い海に溶けてゆく。

 何時間もそれを見ていた。空も雪も海も、そして雪を踊らせる風も、全て私だった。私そのものだった。私という人間は、どんな時もどこにいてもそれだった。中学生の冬の朝の前も、その後も。

 雪の結晶を溶かし込んだダークサファイアと真珠の海。それしかないはずだったのに。

 思いがけず今年の春、初めて他の海が加わってしまう。
 アクアマリンと宝石に名付けた人が見ていたのはこれかと思える海。水晶のような波しぶき。晴れ渡った空。上五島で見た風景は自然に心に収まった。「私じゃない」と違和感や悲しみに襲われることもなく。

 何が起こったのか、何が変わったのかはよくわからない。ただ確かなのは二十年来の付き合いだった睡眠導入剤を手放しても眠りに就けるようになったことだ。

 紫外線アレルギーにも日光湿疹にも悩まされずに夢の私は海辺で遊んでいる。
 その海に雪は降らない。

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