見出し画像

【二次創作】シュヴァルとキタさんの梅見ランニングデート



「シュヴァルちゃん♪ はい、あ〜んして、あ〜〜ん!!」

「も、もう、食べられないよ……」モグモグ

「遠慮せずにどんどん食べて〜! シュヴァルちゃんのためにいっぱい作ったんだから!」

 リスのように口いっぱい食べ物を頬張る僕の目の前で、キタさんが満面の笑みを浮かべていた――。

 手元には、顔と同じくらいのサイズがある巨大肉まん。
 いくらなんでもデカすぎると思うが、沸きあがる熱々の湯気とモチモチの生地は、食欲をそそる料理のコマーシャルのように魅力的なビジュアルを放っていた。
 しかし、口のなかはまだモゴモゴしてるし、お腹も一杯だ。これ以上は、もう食べられない……。
 はじめのうちは、キタさんからの至れり尽くせりの歓迎に身も心も耽溺していたが、段々とお腹が膨れていくにしたがって、限界の二文字が頭をもたげた。いつまでも夢のような光景に浸っていたかったが、フグのようにぷくぷくと膨れたお腹がぱちんと割れてしまうのは時間の問題だった。

(……ゴクン)

 口の中に残った食べ物をなんとか喉の奥へと押し込んだ。限界を迎えた胃の腑に押し返されないように、歯を食いしばり、ぎゅっと目を瞑り、ふ〜っと深く息を吐いた。
 そんな僕をじ~っと眺めるキタさんから見えない圧を感じた……。まるで獲物に照準を定めたネコが、付かず離れず距離を計りながらジリジリと近付いてくる絶妙な間合いだ。小ネズミのようにぶるぶると震える身体をなんとか抑え、呼吸を整えながらゆっくりと振り返る。

「えへへ、美味しい? シュヴァルちゃん」

「……うん、美味しいよ、とっても」

「よかった〜! 喜んでもらえて嬉しい〜!」

「そ、そうだね………」

 実は、もう何度も美味しいと言っていた――。多分、五回くらいは言っている。その都度、同じやり取りが繰り返されていた。
 でも、キタさんの天使のような笑顔を見ていたら、自分の意見など遥か彼方へ掻き消されていった。この百万点の笑顔の前では、つまらぬ自我は虚空に弾き飛ばされるだけだ。事実を受け入れることよりも、今はただ、ふわふわと浮遊する多幸感に浸っていたかった。
 しかし、さっきからお腹のなかではアラームが鳴りっぱなしだった。これ以上食べ続けたら警報では済まない……。
 僕は彼女に嫌な思いをさせないように、やんわりと限界を告げる。

「ねぇ、キタさん……? とっても美味しいんだけどさ、さすがにお腹いっぱい、かな……?」

「そんな〜、まだまだ食べてもらいのに」

 キタさんは青ざめた顔を浮かべる僕のことを、小悪魔的な上目遣いで見上げていた。
 そんな表情をむけられたら、もう一個食べたくなるじゃないか……。でも、それは無理だった。今だって、口元を抑えるだけで精一杯だ。額には脂汗も滲んでいた。

「ところで、この大量の肉まんは……?」

 キタさんは、よくぞ聞いてくれたと言うように、柏手を打ち、人差し指をぴんと立てた。

「これはね〜、『キタサンブラック特製・デンジャラスビッグ肉まん』だよ! シュヴァルちゃんに喜んでもらいたいから、いっぱい作ったんだ〜! お代わりもい〜っぱいあるよ!」

 そう言うと、キタさんはうしろに置いてあった蒸し器を颯爽と取り出した。蓋をぱかっと開けると……ホカホカの湯気をまとった巨大な肉まんの山が姿を現した。

「だ・か・ら! まだまだ食べられるよね、シュヴァルちゃん! ほら、あ〜んして。あ〜ん!」 

 巨大肉まんは、両手を使わないと持てないほど重量感があった。味も申し分ないほど美味しいし、なんど咀嚼しても飽きの来ない芳醇な味わいがある。
 口に運ぶと、まず真っ先につたわる生姜と干し椎茸の豊かな風味、つぎに刻んだ玉ねぎのシャキっとした食感、そして一口噛めば肉汁がジュワッとあふれてくる。噛めば噛むほど旨味が湧き出てくる、ジューシーでいてボリューミー、モチモチした生地とのハーモニーも相まって、もはや名店レベルの味だった。これまで食べてきた肉まんのなかでも上位にあげたくなるほど絶品だった。
 その巨大肉まんを、既に5個も平らげていた僕のお腹は、至福と満腹感に満たされていた。だから、もう、食べられそうもない……。

 僕は目に深い影を落とした。オグリキャップ先輩ほどの健啖家ではないが、大食いには自身があった。しかし、眼の前にそびえ立つ肉まんの山は、僕の自信を軽々とへし折った。
 そんなことお構いなしとばかりに、キタさんの天真爛漫の笑顔が絶望する僕のうえに燦々と振りまかれる。満天の星空のようにキラキラと輝く瞳が、ぐいぐいと迫ってくる。

 正直言うと……この可愛い顔を拝めるだけで、今の僕にとっては充分すぎるくらいのご馳走だった。
 心臓を撃ち抜く真紅の瞳、陽光のように煌めく純白の歯、ぷっくらとした頰、艶やかな黒髪に映える白のメッシュ、ツーサイドアップのヘアスタイルに菱模様の髪飾り。彼女のすべてが、僕の小さな情念を貫いた。
 手を伸ばせば、その可憐な相貌を独り占めできる――。ぎゅっとして、なでなでして、あわよくば、はむっとしたい……。煩悩にまみれた今の僕には、その下卑た劣情を隠すので精一杯だ……。

「ねぇねぇシュヴァルちゃん、なんか顔が赤いよ? 大丈夫?」

「ふわぁっ/// ちょ、キタさん!? か、顔、近いよ!」

 眩い光に照らされ、とろんと溶けた僕の眼に、闇夜に輝くお月さまのようなまん丸の瞳が接近する。引力によって引かれ合う天体同士のように、その距離が縮まっていく。ちょっとでも気を抜くと、その赤く煌めく瞳に吸い込まれてしまいそうになる……。

「なんで〜? いいじゃ〜ん! 口いっぱいに頰ばるシュヴァルちゃん、カワイイし〜! 」

 キタさんって、こんなに大胆だったっけ? たしかに、周囲を明るい気持ちにさせる快活な性格ではあるけど、なんというか、これだと押しの強いイケイケギャルみたいだな……。まるで、僕の欲望が具現化したのかと錯覚するほどに、積極的だ……。

「あ、口に皮が付いちゃってる。も〜、シュヴァルちゃんカワイイ〜♡」

「〜〜〜〜っ!!?」///

 キタさんの細く滑らかな指が、僕の唇をすっとなぞる。可憐な熱をおびた指先が触れ、唇をつたい、身体の端々へとじんわり広がっていく。僕のふやけた脳内は、悦楽の波にゆらゆらと揺られていた。

「しょーがないな〜。私が取ってあ・げ・る♡」

「えっ……/// ちょ、キタさん? 何してるの……?」

「何って、こうするんだよ〜♪」

 僕は目を疑った――。キタさんのぷるんと突き出た唇が、ゆるやかに、だが着実に、僕の緩みきった口元へと近付いてきた。甘い吐息が鼻先を揺らす。その甘美な香りに、さもしい劣情は加速していく。

 もう、爆発寸前だった……。このままだと、僕は間違いなく、愉悦の顔を浮かべたまま気絶をする。

 もう限界だ……。そう思った刹那、時が止まった。
 まるで停止ボタンを押されたように、キタさんの動きも止まった。顔を赤らめた僕の目の前で、微動だにしないキタさん。その前に白い霧がかかり、もくもくと広がり侵食していく。

(え……何だ……、いったい……?)

 唐突な出来事に、僕の脳内は処理が追い付かなかった。手を伸ばしても、キタさんの姿は掴めない。霧を掴むように、僕は手をじたばたするだけだった。徐々に、彼女の輪郭が、虚無へと消えていった。

 そのまま、僕の意識は、天上から滑り落ちるように、奈落の底へと落ちていった――。

 ――気が付くと、天井に吊るされた円形状のシーリングライトが目に飛び込んだ。
 とろんと溶けた僕の間抜け顔を嘲笑うように、何も言わず、すんと見下ろしている。

(なんだ……夢か……)

 我ながら、ふしだらな夢だった……。自分がキタさんをどんな風に見ているのか。それがリアルな映像として、まざまざと刻まれていた。いや、刻み込んだのは僕の卑しい願望だ。それが夢として形を成したに過ぎない。なんて哀れなんだろう……。自己憐憫に陥り、思わず、死にたくなった……。

 ふと目線を落とすと、視界の半分を白い物体が支配していた。口の中にただよう、もにょもにょとした感覚。
 何だろう、これ? ふるふると震える手で口元を覆う物体に触れる。もふもふとした触感に柔らかい毛並み。この手触りには、見覚えがあった。
 それは……安眠グッズとしてベッド横に置いてあった、巨大な肉まんの抱き枕だった。お小遣いをはたいて買った、抱き心地が抜群のふわふわ抱き枕だ。

 つまり――夢の中でキタさんからプレゼントされた巨大肉まんは、これだったのか……。つくづく、卑しい自分に、死にたくなった……。

 ベッドにへばり付く背中を、なんとか強引に引き剥がして身体を起こす。
 すると、枕元にあった携帯がけたたましい音を立てた。身体をびくんと震わせながら、液晶画面をタップする。画面上には、『キタさん』の文字が表示されていた。

「はぁ……まだ夢を見てるのか? 僕は……」

 ほっぺを指でつねる。痛い、しっかりと痛い。古典的な方法だが、効果はあるみたいだ。目をこすってもこすっても、画面上にはキタさんの名前が刻まれてる。……どうやら、夢ではないみたいだ。

 バクバクと悲鳴を鳴らす心臓を必死になだめながら、おそるおそる、携帯の画面をタップした。

「……も、もしもし?」

「あ、シュヴァルちゃん、おはよー。ごめん、起こしちゃった?」

 明朗快活な声が耳に飛びこんだ。  
 まぎれもなく、キタさんの声だ。夢のなかで聴いた声と同じだが、僕の欲望フィルターのかかってない純然たるキタさんの声色だ。 咳払いをし、平静を装いながら口を開く。

「う、ううん、起きてたから大丈夫だよ。何かあった、キタさん?」

「前に話してたランニングの件なんだけど。もうすぐ約束してた時間になるから、シュヴァルちゃんの部屋に行こうと思ってたんだ」

 ……そうだ、すっかり忘れていた。
 最近、キタさんがスランプ気味だから、僕とトレーニングしたら何か変わるかもしれないって提案があったんだ。
 でもキタさんと走るなんて畏れ多いから最初は断ったけど、しょんぼりする彼女を見てたら胸がざわついてきて……、気が付けば、慣れない約束事を交わしていた。

 しかし今……キタさんに来られるのは、正直言ってまずい……。
 僕の欲望に染まった部屋にキタさんが来るということは、僕の卑しい脳内を覗かれるのと同じ……。そんなことになろうものなら、僕は罪悪感と羞恥心に挟まれて身も心もグチャグチャになり、四方八方に爆散してしまうかもしれない……。それだけは、何としても避けたい……。
 レース上で、後方から差されてしまう前に、逃げ切りをはかるんだ……。先手必勝。僕の口は、俊敏に動いた――。

「い、いや、僕のほうから行くよ! キタさんは部屋で待ってて!」

 即座に電話を切った僕は、瞬時にジャージに着替え、爆音を立てながら部屋をあとにした。

◇ ◇ ◇ ◇

 トレセン学園の寮内を、風を切りながらドタドタと走る――。
 幸い、朝方だったこともあり、生徒の奇異の視線や寮長さんの注意を受けずに済んだ。
 静まり返る寮の廊下を、一心不乱に駆け抜ける。そして気付けば、キタさんの部屋の前にたどり着いた。
 荒くなる呼吸と速まる鼓動を抑えながら、部屋の扉をコンコンと叩いた。

「はーい、今開けるね」

 扉のむこうで、スリッパの音がペタペタと鳴っている。足音だけで、もう可愛かった。鼓膜の奥で、歓喜の鐘が打ち鳴らされている。
 余計な想像を膨らませたせいで脈拍が荒くなり、息がさらに上がってしまった……。時すでに遅く、目の前の扉が勢いよく開け放たれた。

「おはよーシュヴァルちゃん……って、汗スゴいよ。大丈夫?」

「う、うん。だ、だいじょうぶだよ……。待たせちゃって、ゴメンね、キタさん……」ハァハァ……

「そんなに急がなくてもよかったのに。走る前に体力なくなっちゃうよ。無理しないでね」

「うん、ありがとう」

 こんな僕のことを心配してくれるなんて……キタさんは本当に優しい。
 そもそも、キタさんは誰にでも優しい。だが、この心地良い感覚に浸ってしまうと、ついつい独り占めしたくなってしまう。同部屋のダイヤさんが遠征で留守にしていたこともあり、余計にさもしい独占欲に駆られてしまった。

「そうだ、これ使って!」

 ふと、キタさんがクローゼットから小さな布を取り出した。
 菱模様があしらわれた和柄のタオル。キタさんの髪飾りと似たデザインで、このデザインが本当に好きなんだな。
 汗は一向に止まず、額からあふれて頬をつたい、床に落ちそうになっていた。僕の汗でキタサンの部屋を汚すわけにはいかない。僕は間髪入れず、すっと手を伸ばした。

「あ、ありがとう。使わせてもらうね」

「はい、どうぞ!」 

(あ、カワイイ……)

 タオルを手渡す瞬間、その刹那、木々の隙間から漏れる陽光のようなキタさんの笑みが、曇りがかった僕の心に差し込んだ。

 やっぱり僕は、この子にメロメロなんだ……。
 陰気な僕、シュヴァルグランとは対照的な存在で、僕には無いものをキタサンブラックは持っている。昔は、彼女に対して、ある種の苦手意識を抱えていた。でも今では、彼女のことが好きだ。競い合う相手としても、ウマ娘としても、女の子としても……。
 口には出せない感情に思いを馳せながら、僕はタオルで汗を拭った。

「シュヴァルちゃん、それ大丈夫? ちゃんと洗ったんだけど、私の匂い……気にならない?」

「ふぇ……? 匂い……」ハッ!?

 キタさんの声が頭に届いたとき、僕は呆けた顔のまま、夢中で汗を拭いていた。
 甘くて淡い、優しい芳香が心を満たす寸前のところで、僕の意識は夢遊状態から現実へと引き戻された。 

「ふぁあああっ!!?/// ご、ごめん! キタさん! こ、これじゃあ、怪しい人、みたいだよね……?」

 口の端から小さなよだれが、たらりと溢れそうになっていた。バレないよう、こっそりと拭いて精一杯取り繕おうとしたが、ほっぺは熟したトマトのように赤々と火照っていた。

「ううん、そんなことないよ! 匂いも気にならなかったみたいで良かった!」

(あ、スキ……)

 もう、脊髄反射だ……。キタさんの所作のひとつひとつに至るまで、僕の感情は突き動かれている。
 こんなの、単なる自分勝手だ。今日はキタさんと一緒にトレーニングをするだけなのに。キタさんがスランプ気味だと言っているのに僕だけ妄想の火を迸らせていたら、彼女の手助けが出来ないじゃないか。奥歯をきっと強く噛み、キタさんの顔を凝視した。

「うん? どうしたの、シュヴァルちゃ?」

「キタさん……ごめん。その、今日は、一緒に頑張ろうね……!」

 ぎこちない言葉遣いだ……。謝罪まじりになってしまったが、なんとか事態を前進させる言葉を紡げたと思う。 

「う、うん。そうだね」

 若干、キタさんの顔が引きつってるように見えたけど、今のままじゃ僕の想像力が悪い方向に転がっていくばかりだし、強引にでも自分の意識を方向転換できた。

「それじゃあ、行こっか」

「う、うん」

 僕たちは部屋を出て、夜明け前のグラウンドに向かった。

◇ ◇ ◇ ◇

「うぅ〜、外はやっぱり寒いね!」

「うん。でも走ればすぐに暖かくなるよ」

「ふふふ、そうだね!」

 誰も居ないグラウンドで、薄明かりのなか、僕とキタさんは肩を並べて走った。

 前日に降った雪もちらちら残っていたし、体感としてはかなり寒い。でも、キタさんと一緒に走るだけで、体温はぐっと上がる。レース中は当然のように体温が上がるものだけど、そうじゃない。彼女が醸し出す情熱や純真さが、自然と周囲に伝播するんだ。だからこそ、キタさんの周囲には、常に人があふれている。人柄や性格だけじゃない、内から湧き出る熱情が、打ち寄せる波のように人々の心を満たすんだ。一緒に走ることで、改めて、その事実に気付かされた。

 空は少しずつ白み始めていた。天気予報では晴れると言っていたし、絶好のランニング日和だ。

「あ、そうだ。スポーツドリンク持ってきたんだけど、シュヴァルちゃんも飲む?」

 そう言えば、起きてから何も口にしてなかった……。喉もカラカラ、頭もふらふらしてる。
 僕は躊躇することなく、キタさんの善意を受け取った。 

「あ、ありがとう」

 桜の花や富士山が描かれた和柄模様のマグボトル。キタさんは本当に和を感じるデザインが好きなんだな〜、と感慨にふけながら、蓋を丁寧に開けてスポーツドリンクをぐっと飲んだ。
 程よい甘味とさっぱりとした後味、舌先に感じる塩味は乾いた身体にすっと染み渡っていく。

「シュヴァルちゃん、おいしい?」

「うん、朝から何も口にしてなかったから、助かったよ……」

「良かった〜! 私も飲んでいいかな?」

「あ、うん。どうぞ」

 キタさんはニコッと笑い、並走しながらマグボトルを受け取った。慣れた手付きでするすると蓋を開け、ごくごくと喉を鳴らながらスポーツドリンクを飲んだ。

「ぷはぁー、美味しい!」

 空を仰いで口を開け放つキタさんの横顔は本当に美味しそうだ。とても良い飲みっぷりに、見てるこっちまで嬉しくなってしまう。 

 ……でも、ちょっと待てよ。あまりに自然な流れに気が付かなかったけど……僕が口にしたものを、キタさんが飲むということは、つまり……。 もしかして……いや、もしかしなくとも、これって……関節キス……?

(ブフォッ!?)

 僕は激しく吹き出した。態勢を崩し、グラウンドの端に残った雪の上をヘッドスライディングのような姿勢で盛大に転がっていった。

「えっ!? ちょっと、シュヴァルちゃーん!! 大丈夫っ!?」

「ふぐっ……。ふ、ふん。ら、らいじょうぶだよ〜……」

 顔中を雪まみれにしながら、僕はなんとか返事を返した。残った雪がクッションの役割を果たしてくれたお陰で怪我はなかった。
 だが、身体中が雪やら泥やらでかなり汚れてしまった。どうしよう……、この姿でキタさんと走るのは、迷惑をかけてしまうかもしれない……。

「あちゃー、汚れちゃったねー……。どこか怪我してるかもしれないし、ひとまずベンチで休もうか」

「い、いや、大丈夫だよ……。」

「ううん、怪我したら元も子もないよ。今はシュヴァルちゃんの身体が一番大事だから」

 そう言うと、キタさんは僕の眼を真っ直ぐ見つめた――。
 真剣な眼差しで告げる彼女の表情、その瞳の奥に映る僕。罪悪感に囚われた顔をしていたが、僕の身体を労るキタさんの言葉に、自然と柔和な面持ちに変わっていった。

「……わかった。ごめんね、キタさん」

「シュヴァルちゃんは悪くないよ。また今度、一緒に走ろうね!」

「うん……約束、だね」

 屈託なく笑う彼女の表情を、僕はレースで何度も見ていた。負けるのは本当に悔しかったけど、キタさんの放つ輝きの前では、その悔しさでさえも一瞬で晴れてしまう。そんな風に感じることが多々あった。その瞬間だけは、勝ち負けを超越していたかもしれない。

 グラウンドの脇にあるベンチに腰掛けながら、僕らは近くの木々を眺めていた。まだ2月だったけど、早咲きの梅の花がいくつも咲いていた。

「もう梅が咲いてるんだね。満開の桜も綺麗だけど、真っ白に咲く梅の花も捨てがたいよね」

「そ、そうだね」

「ねぇシュヴァルちゃん。そう言えば梅の花ってさ、赤いのとか黄色いのがあるよね? アレって何でかな?」

 キタさんの感じた疑問を、以前、僕も感じていた。
 姉であるヴィルシーナとお買い物の道中、僕がキタさんと同じ疑問を姉さんに投げかけた時、「黄色は蝋梅、赤は紅梅ね」とすぐに解答してくれた。姉さんは僕と違って博識で、そういった知識はすぐに出てくる人だった。

 そうだ、今こそ、その知識を披露するチャンスかもしれない……。
 こんな形でキタさんとの1日を無駄にするのは嫌だった。少しでも良いところを魅せるため、僕は意を決して口を開いた。

「黄色いのは蝋梅で、赤は紅梅って言うんだよ」

「すごーい! シュヴァルちゃん物知り〜!」

 小さく拍手をしながら、羨望の眼差しをむけるキタさんを見て、僕は恥ずかしげに頰をぽりぽりと掻いた。

「い、いやぁ……それほどでも……」

 姉さんの受け入りだったけど、キタさんに褒められるのはとても嬉しい。
 でも、僕は僕で、受け入りした知識を少しでも深く掘り下げようと努力していた。梅の分布図や歴史、あとは梅の花言葉なんかをトレセン学園の図書館で調べたり……。常に受動的になってる訳ではない。
 インプットした知識は、アウトプットしてはじめて身につく。僕は早速、キタさんに披露することにした。

「ね、ねぇキタさん。梅の花言葉って、知ってる?」

「花言葉? うーん、知らないなぁ。シュヴァルちゃん知ってるの?」

「梅の花言葉、それは……『不屈の精神』」

 言い終えると、僕はキマったとでも言うような態度を取っていた。鏡が無いからわからないが、ドヤ顔も浮かべてしまったかもしれない。何だか急に、自分が恥ずかしくなった。

「不屈……」

 一瞬、キタさんの顔に、影が落ちた気がした。
 慣れない真似をした僕のことに、嫌気が差したのかも……。やはり慣れないことはするものじゃない……。背中に寒気が押し寄せてきた。
 そわそわする胸を抑え、僕はキタさんに質問を投げた

「ご、ごめんね……。急に花言葉とか言ったりして」

「え? いや、そんなことないよ。でも、『不屈』って言葉を聞いたら、なんだか色んな感情が湧いてきちゃったんだ……」

「そ、そうなの? 何かあった、キタさん?」

 視線を落としながら、キタさんがゆっくりと口を開く。

「……私ね、ダイヤちゃんに負けたばかりで、自分を変えなきゃって思ってたんだ。それで、シュヴァルちゃんにも声をかけたの」

 そうだったのか……。
 いつも明るいキタさんだって、胸の内には、決して軽くはない悩みを抱えている。それこそ、僕が日々抱える重苦しい悩みのように……。
 その当たり前に、今僕は、気が付くことができた。
 光り輝く太陽のような存在も、影に怯える日だってある。だからこそ、より強い輝きを放とうとする。絶対に挫けず、誰よりも先頭を走り、閃光のように駆け抜ける――。
 そんなキタさんだから、僕は好きになったんだ、憧れたんだ。この哀れで虚しい胸のうちを、鷲掴みにされたんだ……。

「……ねぇ、キタさん。キタさんは、僕の憧れなんだ。僕だけじゃない、きっとダイヤさんだって、君のことに憧れてるはずだよ。だから、いつまでも、僕たちの太陽で居てくれないかな……。君がレースで前を走り続けるかぎり、その光り輝く背中を、いつか追い越してやるんだって、ずっと思ってるんだ……!」

 胸の奥から言葉が溢れていた。でもこれが、僕が彼女にたいして抱えていた思いの丈だ。卑しい妄想ではない、キタサンブラックに勝ちたいという心の底から希求する想い。

 遂に、その想いを言えたせいか、瞳のなかに少し涙が浮かんでいた。

「シュヴァルちゃん……。ありがとう、そう言われると、なんだか嬉しいな」

 キタさんの顔に落ちていた影は晴れ、いつもの明るくて活発な表情に戻っていた。僕の言葉がその助けになったかもしれない、そう思えるだけで、本当に嬉しかった。

「でもね、私だって負けるつもりはないよ、絶対に! シュヴァルちゃんにも、ダイヤちゃんにも、私の前には行かせないよ!!」

 ぎゅっと握った拳を突き出し、自信満々に言い放つキタさん。その顔には、僕が憧れたウマ娘の輝く姿があった。

「うん、僕も負けないよ。キタさん……! 次のレースでは、僕が勝つ!」

「ふふふっ! 私だって負けないよ、シュヴァルちゃんっ!!」

 僕たちのレースは続いていく。これまでも、そしてこれからも。
 強くて愛おしい、そんなキタサンブラックのことを、改めて大好きだと思えた1日だった。

 ありがとう、キタさん。やっぱり、僕は君が大好きだ――。

〜終〜




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?