はきだめのチェリー 12
【12】
浅い眠りから目を覚ます。首元に汗が一筋流れる。寝間着もじっとりと濡れていた。
あまり良い夢とは言えなかったからな。何せ、自分の腕が切り落とされるんだ。目覚めは悪い。
半分開いた窓からは、野焼きの不快な臭いがただよって来た。原付きバイクのエンジン音も聞こえてくる。枕元のスマホを開いた。まだ四時だ。
今日は休みだし七時に起きる必要もない。オナニーでもするか。
ぼんやりとした意識でパンツに手をつっこむ。右手で優しく陰部を撫で回す。無心でクリトリスを摘んで吐息を漏らす。気分も乗ってきたのでバイブも使ってオーガズムを呼び込む。息も激しくなり右手にも力がこもる。
十四歳で初めてしたオナニーの感覚は頭と右手がよく覚えてる。ケーブルテレビで流れてた東南アジアの映画。タイトルも分からなかったが、薄着姿の若い男女がセックスするかしないかの絶妙な距離感でイチャつく場面は、大脳皮質に刻み込まれていた。褐色の肌と汗だくの身体が密着する様に、意味も分からず高揚したな。
陰部を無心で弄った。徐々に頭から背中にかけて快楽の波が押し寄せる。イク……、口を開け、間抜けな顔で絶頂を迎えようとした瞬間、今まで寝ていたベッドの底が溶解した。
抜け落ちたベッドの底がどんどん遠ざかる。高所からの落下、という感じもするが少し違う。視界がぼんやりしてくる。この感じ、どっかで観たな。何の映画だっけ……、そうだ、『トレインスポッティング』だ。
ドラッグをやらなくても味わえてるな。徐々に意識が遠退き、真っ暗な闇の淵へと落ちていった。
朝とも夜とも分からなかった。分からないというより、意識が追い付いてない。
頭をかこうとすると、側頭部に金具が当たる感覚がした。
そうか、わたしの右手は無くなったんだ。腕に無数のチューブが繋がっていることで、自分が病院に居ることに気付いた。
現実なのか……。
看護婦さんが、手先具が当たると痛いから気を付けてと言ってるのが聞こえる。そういう名称なんだ、コレ。
右手があった場所から、時たまに感じる幻肢痛。手が無いなら痛くなるんじゃねえよ。何でこんなに不便なんだよ、身体って。ままならない肉体、ままならない人生。
そして、ままならないユメキとの関係。
今の病院はタバコも吸えないらしい。こんなザマで酒もタバコもやれないって、患者のこと考えてないだろ? 法改正しなきゃダメだろう。
そんな行き当たりの無い怒りを、所構わずぶつけたくなる。薄っぺらいレースに囲まれたベッドの上で、空虚な天井を睨みながら、歪んだ感情の吐き出す先を探していた。
こんなザマじゃ仕事も続けられない。歩けるまで回復した翌日、会社に辞表を出しに行くことになった。
バカ社長が受け取りに来いよと思う。せめてもの抵抗とばかりに、慣れない左手でこれでもかってくらい達筆に書いてやった。
左手でエンジンを起動し、左手でシフトレバーを操作、片手の運転するのは難儀だったが、何とか会社に辿り着いた。
「大変だったね。君みたいな勤勉な人と働けないと思うと寂しいよ。もちろん労災はおりるよ。緊急停止が効かなかったから、誰も悪くないよね」
「……」
無視した。社長の言葉は空疎な慰めにしか聞こえない。仕事前に点検しなかったお前が悪いんだろってのが、コイツの本音だろ。わかりやすいんだよ、クソじじいが。最後くらい腹の立つこと言わずに居られないのかよ。
「けどねぇ、辞表願いはもう少し丁寧に書いてね。何書いてあるかサッパリ分からない。最後くらいはしっかりしなきゃね」
気が付くと、一瞬のうちにブチ切れていた。
思考するよりも前に左手でロッカーをぶん殴っていた。思っていた以上にドアがひしゃげる。そんなことには気も止めず、うしろを振り返った。
「は……? 左手でどう書けってんだよ」
つかつかと歩み寄り、目の前の机を蹴り上げる。椅子の上で唖然とする間抜けなジジイの胸ぐらを掴み、勢いまかせに床へと叩きつけた。そして右手の義手ごと口に突っ込んで呪詛の言葉を吐いた。
「ふざけんな死ねよ、死ね! 死ね!」
冷静さの欠片もなく、涎を垂れ流しながら吐き捨てる。もう自分でも制御出来ない。
「ほう、やふぇて……っ!」
「うるせえ、死にやがれよジジイ!」
腕が口元に入っていくにつれてジジイの体から力が抜けていく。完全に力が抜けた。
涙と胃液まじりでクシャクシャになった顔が眼前に広がる。このまま本当に殺したら、どれだけ溜飲が下がるだろうか。
考えてるうちに背中に衝撃が走った。社員が見かねて私を羽交い締めにした。ジタバタと抵抗する反動で相手の眉間に肘打ちが入った。体がよろけた隙に、部屋から転がり落ちるように飛び出した。
ここまでやってしまうとは。自分が自分じゃ無くなってしまったようだった。一心不乱に車を走らせた。何度も何度も咆哮し、これでもかと言うほど荒れ狂った。
他者に暴力を振るったという事実に混乱しつつ、ある種の恍惚も感じていた。そして、間違いなく傷害致死で捕まるんだという恐怖も押し寄せてきた。
その事実から目を逸らすように、自分のやったことを頭の中で正当化させる。振り返ることなく、街から抜け出した。
雲間から見える陽射しから、零れ落ちないよう、車のペダルを強く、強く踏み込んだ。
行くあてなんて、何処にも無いのに――。
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