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カフェの音楽空間論 vol.5 -"喫茶探訪" 東信 GAFLO CAFE編-

海のない長野県に住んでいますと緑豊かな山々が広がっており、自然があることを当たりまえのように思ってしまいますが、ディープな大自然に踏み入ることは少ないものです。
混沌とした手つかずの自然がすぐ近くにあり、多様な生物たちが織りなすエネルギーを感じて音を編んでみたい気はあるものの、知識も準備も未熟なままでは文字通り芥に葬られてしまうので、学び深めて計画を練り、体勢を整えたうえで畏怖する大自然に踏みこんでみたいなと思っています。
そのまえに、人間の手が入って整備された自然というのも別種のエネルギーに溢れているので、今回はそちらで愉しんだことを記事にしました。

東信地区には軽井沢があることで、参入してくるカフェが多く新進気鋭の素敵なカフェが現れたりしています。
今回訪れてみましたのは2020年12月にオープンした"GAFLO CAFE"

自然豊かなアプローチが素敵

軽井沢の追分で花屋とブライダルを運営している"FLOWER FIELD"のカフェで、店内はドライフラワーで侘びた感じのシックなインテリアが目をひくお店です。
眼下にみえる御影用水の支流が心地よいせせらぎを奏でていて、鳥のさえずりと葉擦れの重奏が織りなされる自然に溢れた客席は、御代田町にして軽井沢らしい雰囲気を味わえる素敵な場所です。

自然音はBGMであるだろうか

この環境下で読書と珈琲を味わうことの贅沢は言うまでもありませんが、贅沢に味をしめると、私のような欲深い人間は、気分に応じてさまざまな愉しみ方を検討してしまいます。
景色を眺めたりしながら自然の音に耳を傾け思索に耽ってみたり、このnoteに所感を書き留めてみたり。音響を録ってみたりといろんなことをする。
散漫な気分になってしまうのは自分の集中力の足りなさゆえですが、せっかくの自然空間に身を置いていて、生産的な行動をするだけなのはかえって満足度を下げてしまう気がするのです。どのような見事な行動を経ても、結局「○○できなかった。」と絶対的満足は得られないものだからこそ、ある程度の諦観をもって、後悔の味を愉しむこともしながら時空間を過ごしてみる。そうすることで、ただ喫茶をする以上に思い出深い時間と記憶をきざめているように思います。

しかして、とりとめのない思考に身をやつしながらも、この自然音はBGMになるのだろうかと考えてみると、賑やかな虫の鳴き声、木々の葉ずれ、人の笑い声、車が通り過ぎる音、意図しない雑音や騒音など、さまざまな音響が聴覚を介して密度の濃い意味があるように思えてくるものです。
それぞれの末那識に思いを馳せ、この世の阿頼耶識の深淵さに存在の儚さと尊さを思う。
なるほど、自然音というくくりをBGMにするには、あまりにも広大すぎて、ミュージックという目的化された枠組みにするのは非常に困難でしょう。
仮にいまこの場で聴いている自然音を録音し、切り取ったものを音楽にしても、それは自然ではなくなってしまう。その音は作為で構成され、情報量の多い、主張が散逸したサンプリング・ミュージックになってしまいます。音楽制作の手法としたら難易度が高すぎて手に負えない気がしてきました。
ただ、ときに自然がまるで音楽のように奏でることに遭遇することもあるものです。ただのサウンドがミュージックに変容する奇跡。惑星直列かのように聴者の心とシンクして感動を呼び起こされると作為のある音楽以上にアートで美しいものだと感じ入ってしまいます。そのような音楽をいつでも取り出し可能にしたい。そんな意欲が湧いてくることもまた自然な気がします。

経てして、この世に絶対はないということで、曖昧模糊な結論に着地してしまいますが、いずれにせよ、思考して探求した時間は成果となれば最高の時間だったと感じいるし、成果にならないときも別種の喜びをえられた思い出になります。
素敵な場所で豊かな食事と自然を愉しんだ記憶の断片がいまも脳裏に映し出せること。
著書"DIE WITH ZERO"で、「人生は思い出づくり。思い出も福利の効果がある」という一節があるように、経験を豊かな思い出に醸成することは人生に価値を与えてくれるのではないでしょうか。
わかりやすい成果を出せても出せなくても、そのときどきの思い出が豊かであったと感慨至るような行動を果たしていきたいものですね。

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