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【食×本 読書録】"料理と利他"


"料理はうれしい、おいしいはごほうび"
わたしにとても素晴らしい本がやってきてとどまっている!

20日ぶりに【食×本 読書録】を載せられます。
今日ご紹介するのは、
料理研究家 土井善晴・政治学者 中島岳志 著 /
料理と利他
です。

コロナの影響下で家にいる時間が長くなり、みなが向き合うことになったのは、料理という人類の根本的な営みのひとつだった。「ポストコロナ」という言葉のもと、世界の劇的な変化が語られがちな中、私たちが見つめ直し、変えられるのは、日常の中にあることから、ではないか。
ベストセラー『一汁一菜でよいという提案』等の著書や料理番組で活躍する料理研究家の土井善晴と、『中村屋のボーズ』等の著書がある政治学者であり、最近は「利他」を主要なテーマの一つに研究をしている中島岳志。
異色の組み合わせの二人が、家庭料理、民藝、地球環境、直観、自然に沿うこと…等々、縦横無尽に語らい、ステイホーム期間に圧倒的支持を受けたオンライン対談「一汁一菜と利他」を、ライブの興奮そのままに完全再現!

わたしの生きる道中で、このような本に出会えたことは"意味"のあることだと思いました。
文字どおり、自分の意に味を与えてくれています。
味という文字は""に""であり、いまだ咀嚼中ですが、これは深い滋味があり歯応えがあります。

聖道の慈悲と浄土の慈悲

この本のなかで、ははぁ〜と感嘆したのは、

いい人間になろうという発想が苦しみのもと。「ありがとう」と言ってもらいたいというはからいの世界に取り込まれてしまう。利他は「ありがとう」と言われて満足する世界を超えている。
"料理と利他" P.43

というくだり。
つまり、聖道(自力)の慈悲と浄土(他力)の慈悲は明確に違う
人は""を行く道に"偽善"を思い、迷い悩んでいるということ。
このお悩みに、和食を基にした家庭料理から解法を導いてみると、気づくことがたくさんあります。

料理するという行為そのものが愛情

わたしも生計を立てるために高齢者施設での料理業を仕事にしていますが、
生じるお金以上に、「楽しいから料理をしている」という心もちが強いです。
手がける料理には、作為というものもなく、せいぜい、「きれいに、整えて、出そう」という気持ちくらい。気負いなくやれているから、延々とやっていたいと思えます。

この面持ちを言語化してくれている部分がこの本にはあります。
この著書のなかで土井先生は、

料理をするという行為そのものが愛情なんだということですね。料理をする=すでに愛している、料理を食べる=すでに愛されている、という関係性が完全にある。すべての美しいものというのは、ひとつだけでは美しく輝かない。他者によって、人間と物と自然のあいだにある「〜と〜」の「と」のところに、ハートマークのような大切な美が生まれます。
"料理と利他" P.43~44

と語っています。
この指摘は"丘の上に置かれた不安定なボール"が均衡を保っている図式、「近内悠太 著 / 世界は贈与でできている」で語られていた"贈与"の関係性と同様の指摘があるなと思いました。

この2冊はかなり親和性が高い本です。
"料理と利他"では、土井先生の料理観はもちろん、中島先生からは広範囲かつ深い知識、特に宗教の観点からの指摘がとても学び深いものがありました。それが贈与論と絡みあい、2冊合わせて読めたことで、理解の解像度はより高まったと思います。

人間がなにかすると自然美を壊してしまう。結果を求めない。作為なく結果として生まれる美味しさは、おのずから生まれるご褒美。そのプロセスのほうが大事。
"料理と利他" P.115
あれは贈与だったと過去時制によって把握される贈与こそ、贈与の名にふさわしい。
"世界は贈与でできている" P.93

この体現が「家庭料理」であり、そこから学べることが人生という道にもあるのではないでしょうか。
聖道的で自力の慈悲、具体的には"貢献"であったり"寄付"と呼ばれるものだったり。"西洋料理"もそう。そういった科学の発達、人類の発展、美味しさの追求は進化の過程であり、尊いものですが、ここに返報性がはたらく限り、利他とは別の力学になります。
利他とは、"この世界の均衡を保つようなもの、自然との共生社会を遂げていくもの"です。行うことはアンサング的なものであり、事後的に結果として後からわかるものでしかありません。
そう思うと、いまのわたしの仕事はたまたま巡り会えたものですが、まさしく"Calling"であり、「天職」だなと思えてなりません。

それを改めて見える化してくれたこの本に感謝しています。
ぜひ多くの方に知ってもらいたいと願うものです。

1/17に出版社ミシマ社が発行したウェブマガジンも読み応えあるものでした。
また、期間限定配信ということで、お金はかかりますが、土井先生と中島先生の対談動画第3弾も示唆深いことがたくさん。
"お屠蘇"の意味を改めて考えさせられましたよ。

母の誤配からの贈与

この本オススメなんでぜひ読んで!
で終えてしまっては自己満足的まとめになってしまいますので、もう少し自分だから綴れることを記します。

今は"Calling"と思わしき仕事に就いていますが、ここで働くきっかけになったのは、亡くなった母が勤めていた場所で、そのツテともいうべき配慮があったからです。
ただ、母はほんとうはもっと社会的に知名度のある仕事に就く手前として紹介してくれました。
賃金もよいとはいえませんし、資本主義社会の地位的伸びしろも見いだせない。もし親なら収入も安定性も安心できる場所に勤めてもらいたいと思うのは当然です。
ですが、わたしの現職は、「家庭料理を高齢者の方々や関わる人びとに提供する」という仕事にあり、憚ることなく、"エッセンシャルワーク"だと自負しています。あとは、代替不可能性を高め、価値創造していくかが課題です。これはべつに利己的にではなく、面白い方へ転がしたいからやっていくというものです。
やっていくことは至って淡々と家庭料理をつくっていくだけの日々ですが、この意義深さは日に日に層になって厚みを増しています。無意識下と意識下とでは仕事のモチベーションも違います。ここに気づけたかどうかは、自分にとって大いなる岐路になったと思います。
この仕事、母からの「誤配」により賜ったものです。そしてこの贈与に気づいてしまったからには、この価値のバトンを渡さないといけない。
それがいまこうして、ない知識を掬いあげ、文章を整え、どこかみえない宇宙の彼方へ放るようでありながらも、言葉を綴る意味だと思っています。

読んでくださったかたもぜひ、いま営んでいる仕事がご本人にとってどのような価値をもたらしているのかを問い、贈与のバトンを渡していけるかを模索していただけたら嬉しいです。

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