〜人間は考える葦である〜現代を生きる僕たちはどうだ?
・「人間は考える葦である」パスカルの言葉
人間はひとくきの葦にすぎない。
自然のなかで最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。
彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。
蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。
だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。
なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。
われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。
だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。
— パスカル、『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、225頁。
この言葉についてどう解釈するか?は一旦置いておこう。
・「考えるな行動しろ」と言われる現代
パスカルの言葉と対比してわかりやすい言葉が「考えるな行動しろ」である。
16世紀にパスカルが遺した言葉はどこへ行ったのだろうか?
僕たちが「考えるな行動しろ」という“誤った教え”を信じるようになったのはいつ頃からなのか?
これはパスカルが生きた16世紀以降、市民革命により絶対王政が崩壊し、産業革命による労働者階級の飽和から起きた、そう僕は考える。
結論から言えば、「考えるな行動しろ」とは、工場経営者側が工場労働者を思い通りに従わせるための、工場経営者にとって“都合のいい”教えでしかない、ということだ。
労働者側はそれでも考える葦であるから、産業革命以降ストライキは頻繁に起こるし、労働者と経営者の対立は未だ続いている。
これが資本主義社会だからと言えばそれまでなのだが、立ち止まって考えるべきはパスカルの言葉「われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある」、ここではなかろうか?
・「人間は機械である」
これは20世紀を生きたマーク・トウェインの「人間とは何か?」の中で表現されている言葉だ。
特に「人というのは自らの欲を満たすだけに動いている機械である」ということについて、この物語の中では老人と青年が語り合っている。
パスカルの言葉と比べるとどうであろうか?
16世紀から4世紀。
僕たちは、考えること、つまり尊厳を失い、欲のままに生きる機会に成り下がった、と考えることはできないだろうか?
・「自分らしさ」という自己正当化の現代
最後に僕の個人的意見を述べて終わろう。
僕たちは今「自分らしさ」と自己正当化した“誤った答え”を振りかざして生きれる世の中に生きている、と。
「これが自分らしさだ」は考えることではない。
自分らしさという名の、絶対王政、工場を築いているに過ぎない。
だからこそ、歴史を振り返り考えてみてほしい。
自分らしさという「絶対王政」が何を作り出していくのか?
自分らしさという「工場」が何を作り出していくのか?
考えることが尊厳となりうるのであれば、考えることを失った現代の僕たちは、考えることについて考える必要もあるのではないだろうか?
それがパスカルのいう尊厳となりうるだろう。
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