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西アフリカ 4か国

(34番)  2003年  12月
西アフリカ 4か国(① ナイジェリア、② ベナン、 ③ トーゴ、④ ガーナ)へ行ってきました。
こちら方面へ行ってみたいと思ったのは、もちろん、奴隷貿易の悲惨さを学びたいからです。
今回は男性2名、女性7名の計9名の参加者でした。
相部屋になった人は日本在住の外国人の方でした。

出発前にナイジェリアに入国するにはトラベラーズ・チェックで$300を用意する必要があるとの事でした。ナイジェリア大使館からのお達しで、旅行中に何かあった時の為に全旅行者に義務付けられているらしく、仕方なく用意しました。
結局、旅行中はもちろん、その後も使う場所などなくてほとほと困り果てました。数年間も持ち続けて、しまいには日本円に戻しました。
今時、トラベラーズ・チェックなんて、時代錯誤もいい加減にしてもらいたいものです。

12月23日
12:55 発 成田 英国航空
16:25 着 ロンドン

ヒースロー空港近くのホテルへ

12月24日
12:05 発 ロンドン

ロンドンを発つ前に添乗員さんが「さあ、危険が待っていますから」と我々を脅かすのでした。

19:40 着 ナイジェリア最大の都市であるラゴス

入国に際してはコンピューターが故障をして何時間もかかりました。手書きじゃないだけでもましですが。

ヴィクトリア島にあるホテルへ

①    ナイジェリアは人口1億3000万人をかかえるアフリカの大国。
(後記:2022年現在は2億2000万人)
古来より数々の王国が興亡を繰り返してきましたが、大小250以上もの部族が存在するため、なかなか一つにまとまることがありませんでした。
国名は同国を流れるニジェール川に因んでつけられました。
1960年にイギリスの信託統治から独立をしました。
アフリカ最大級の産油国です。

12月25日
午前中はラゴス市内観光
市内はゴミだらけで「汚~い!」し、臭いもきついです。
しかし、治安は言われていたよりもいいので、少しは安心しました。

大聖堂(クリスマスのミサが行われていた)→国立博物館 →ニケ・アート・ギャラリー
オバの宮殿(18世紀に建てられた宮殿跡。王様には会えず)

昼食後、ベナンとの国境へ向かいます。

②    ベナンは17世紀ごろには「奴隷海岸」と呼ばれていました。奴隷制度が廃止されるとフランスの植民地となりましたが1960年に独立をしました。アフリカの中では比較的安定した政治体制を持っています。
ブードゥー教発祥の地です。

公用語はフランス語です。

ベナン出身の有名人はゾマホンさんです。
私は一度飛行機の機内でお会いしたことがあります。ちょっとだけお話をしましたが、とても紳士的な方でした。全く偉ぶっておられずに座席もエコノミークラスの後ろの方に座っておられました。

国境ではトーゴ人のガイドさんが待っていてくれました。

オンメ宮殿跡(首都であるポルト・ノボにある)

コトヌーのホテルへ

12月26日
午前中はポルト・ノボの市内観光

ダントクパ市場(巨大な市場で、ニーハオとか言われながら見学)→アラダー(アラダー王朝最後の王でハイチに流刑されたトゥサン・ルーヴェルチュールの記念碑)→
アボメイ(入り口にはダホメイ王朝の最後の王で勇敢なベハンゼン王の像。
王宮群は世界遺産でフォン人たちによって築かれた土壁の建築。元々は12代の王たちによって築かれたが、現在はゲゾ王とグレレ王の宮殿しか残っていない)

昼食後、トーゴとの国境へ。
出入国の手続きの間は小さなバスの中で待つのだが、最低1時間はかかるためにスーパー暑いです。エンジンを切っているので、エアコンは効かないし。

③    トーゴも16世紀以降は奴隷海岸の一部でした。その後、イギリス領とフランス領に分かれ、1960年にフランス領の方が独立をしてトーゴとなりました。イギリス領はガーナとなりました。
公用語はフランス語です。

入国後すぐにアネホという港町の海岸へ。

その後、首都であるロメのホテルへ。

夜、ふと空を見上げると三日月が月の下側に5分の一ほどしかなくて、「あれ?こんな形の三日月は見たことがないかも・・・」と不思議な面持ちでした。真下ではなくて、少し左側にずり上がっていました。

12月27日
午前中はロメの市内観光。

独立広場 →国立博物館 →郵便局 →フェティシュ・マーケット(ブードゥー教の呪術に使う道具や材料が売られている)→フィッシュ・マーケット →中央市場

昼食後、ガーナとの国境へ。

又しても炎天下、バスの中で大汗をかきながら出入国手続きを待ちます。

④    ガーナはイギリス領の黄金海岸と呼ばれていた1957年に独立をしました。
赤道直下にあり、経度0度、緯度0度です。公用語は英語です。
黄金海岸と呼ばれていたように金の輸出も盛んです。
一時期、カカオ豆は世界最大の生産高を誇っていましたが、現在は隣国のコートジボワールに一位を譲っています。
実はこのカカオ豆を収穫するための児童労働が問題になっています。
それは子供達を攫ってきて、低賃金で強制的に働かせるのです。作業は危険を伴い、中には間違って指や手首を鎌で切り落としてしまう子供もいるとか。
BBCのドキュメンタリー番組で見たことがあるのですが、母親が行方不明になった我が子を探していたら、カカオ農園にいたことが発覚したのです。
チョコレートのメーカーはこういった搾取によって大儲けをしていますが、一方では農園で働く人達の暮らしは一向に良くなっていません。
長年、先進国は発展途上国との貿易で弱い立場につけこみ、市場価格に見合わない安値での取引を強いてきたので、適正価格であるフェアトレードという仕組みを皆さんにもっと知ってもらいたいです。これはチョコレートに限った事ではありませんが。

ソガコぺ(アコソンボダムの建設のためにヴォルタ川を堰き止めて造った世界最大の人口湖-琵琶湖の10倍以上)→テマ(工業都市)

ガーナの首都であるアクラのホテルへ。

12月28日
ガーナ第二の都市でかつてアシャンティ王国の都だったクマシまで向かいます。

アシャンティの伝統的建築物群(世界遺産で17世紀後半、奴隷貿易によって繁栄したアシャンティ王国があった所。建築物は泥とヤシの葉と草ぶき屋根で建てられている。神殿は「ニャメ神」を祀っており、花や鳥などの装飾が見事。
アシャンティ人たちはイギリス軍と4回も戦った。最後まで戦ったのは一人の女性だったそう。何てたくましいのだろう)→アドゥエナセ神殿

昼食後、アッビリン神殿 →ボンウィレ村(ケンテクロスという織物が有名)

その後、ホテルへ。

12月29日
午前中はクマシの市内見学

郵便局 →クマシ城塞 →マンハイヤ宮殿 →中央市場 →カルチャーセンター

昼食後エルミナへ。

アッシンフォスム村のLast Bath(スレイブ リバーという奴隷たちが最後の水浴びをしたという場所へ行く途中に二つのお墓があった。一人はジャマイカへ、もう一人はアメリカへ売られた人。亡くなってから随分後になって、こういう事が二度とあってはならないと後世に伝えるためにここにお墓を立ててあげたのだそう。二人とも模範的な奴隷だったのだとか)

エルミナのホテルへ。

12月30日
午前中はエルミナの市内観光。
約300年に渡る奴隷貿易で大西洋を渡ったアフリカ人は、およそ1200万人と言われています。

聖ジョージ要塞
1482年の建築で当初は金や象牙の貿易港だった。1492年にはコロンブスが3日間滞在したことがあるとか。1672年にオランダ人が奴隷貿易を始めた。その後、イギリス人に引き継がれて、奴隷収容所となった。
男性用と女性用の収容所は別々になっている。一部屋に150名から200名収容して、一日にわずかな食料と水が2回与えられた。お風呂はなし。トイレは床の真ん中に水路あり、そこで用を足す。
とても小さな通気口があるだけ。
ここには長い人で約3か月滞在した。
光が見えたと思ったら、人がやっと一人通れるほどの大きさで、これが悪名高き「Door of no return」。
ここに立つと後ろから押されて、下の海面上に浮いている小船まで落ちることになる。その小舟に乗って沖で待っている大型の奴隷船に乗り移る。
ここからは主にジャマイカや中米に送られた。

そこのvisitor用のノートに書かれていたアメリカ人のコメントが印象的だった。「Door of no return was really frightening」
私も本当に背筋がゾッとして、悲しくてたまらなかった。これが人間のすることか・・・

ケープコースト要塞
こちらは聖ジョージ要塞よりも新しく1653年の建築で世界遺産。
こちらも奴隷たちの積出港。
内部は大体、聖ジョージ要塞と同じような作りだが、抵抗した人は食事も与えられずに、死ぬまで独房に入れられた。その人たちの頭蓋骨がある部屋の隅に100個ほど置いてあった。何でちゃんと葬ってあげないのだろうか。ひょっとしてレプリカ?
ここでは「Door of no return」の反対側に「Door of return」という入口があった。
ここは昨日訪れたLast Bathに葬られていたジャマイカ人とアメリカ人だけが通ったドアだそう。多分、亡くなった後だと思われる。
外に出ると要塞らしく、大砲があちこちを向いて置いてあった。

昼食後、ウイリアムズ要塞(丘の上にあるので、見晴らしがよかった)

マンテッシンの町(アソフォ・ボスバンというファンティ族の3つの部族を表す象とイルカと鳩の像)

アクラのホテルへ
因みに4か国のうちで一番食事が美味しかったのはガーナです。

12月31日
終日アクラの市内観光へ。
国立博物館 →アートセンター(伝統的な民芸品が販売されていた)
→野口英世記念研究所(コレブ病院の中にある。建物は当時のままだろうか、相当古い。今でも学生たちが実験をしているとか。
「忍耐」と自筆で書いた額が飾ってあった。ナイジェリアで黄熱病にかかり、ガーナで亡くなった)→ゴールドセンター →ノボテル(買い物)→スーパーマーケット

夕食のレストランへ

23:30 発 アクラ 英国航空

1月1日
06:45 着 ロンドン
12:25 発 ロンドン 英国航空

1月2日
09:25 着 成田

今回は奴隷貿易の実際の場所を見てその時代にタイムスリップをしたような気持になりました。こういう事は決して繰り返してはなりません。

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