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南部アフリカ5か国

(84番)  2013年   3月

南部アフリカ5か国(① ナミビア、② 南アフリカ、③ ザンビア、④ ボツワナと ⑤ ジンバブエ)へ行ってきました。
今回の参加者は10名でした。

5か国の位置関係

1日目 3月21日
✈ 18:25 発 成田: ANA (767-300ER)
  22:35 着 香港

✈ 23:40 発 香港: 南アフリカ航空(A340―600)

2日目 3月22日
  07:05 着 ヨハネスブルグ

✈ 09:30 発 ヨハネスブルグ: 南アフリカ航空(737-800)
  11:50 着 ウイントフック

①     {ナミビア共和国
国名の由来: 世界最古の砂漠と言われているナミブ砂漠に因んで命名された
独立: 1990年ドイツと南アフリカの統治から
面積: 82.4万㎢(日本の2.2倍)
人口: 約220万人
首都: ウイントフック
言語: 英語(公用語)、アフリカーンス語、独語他
民族: オバンボ族、カバンゴ族、ダマラ族他
宗教: キリスト教90%以上、伝統宗教
主産業:牧畜、鉱業(ダイヤモンド、ウラン、亜鉛)

🚌 昼食後、ホテルまで約340kmを7時間かけて移動(途中からガタガタ道)トイレはもちろん、青空トイレ

ロッジ到着

🛏 セスリウム泊

3日目 3月23日
長い、長いフライトの翌日にも拘らず、早起きして今回の一番目のハイライトであるデューン45へ向かう。
5時半ごろ、まだ星が綺麗に輝いている中、出発
いきなり、バスの前に数頭の「スプリングボック」が現れてビックリ!
明るくとなると「ダチョウ」も数羽見られた。

ダチョウ

ナミブ・ナウクルフト公園
7時にゲートが開いたと同時に入った。
1907年に国立公園となり、1986年に現在の広さ(5万平方㎞)となった。
アフリカでは一番大きな自然保護区であり、今後、ナミビアの海岸線はすべてが国立公園になる予定だそうだ。
砂漠が形成されたのは、約8千万年前からとされ、世界最古と考えられている。
南アフリカとの国境沿いに流れるオレンジ川によって運ばれたカラハリ地域の赤い砂が大西洋に出て、これが再びベンゲラ寒流によって北に流されて、砂鉄を含みナミブ砂漠となった。南北2千㎞、東西160kmでダイヤモンドなどの地下資源が豊富。

7時10分 日の出(う、美しい・・・🌞)

デューン45まで移動し、朝食タイム
デューンとは「砂漠」のことで、ここは公園の入り口から45km離れた場所にある。
高さは180mほどで登頂を禁じられている砂丘が多い中、ここは登ってもよい。
砂が柔らかいので、1歩進むとズボッと中に入り込み、2歩進むと更に埋もれてしまい、歩きづらいし、物凄い脚力が必要だった。頂上まで20分もかかってしまった。
頂上からはオレンジ色とその反対側の陰影とのコントラストが素敵な稜線が見られて感激。😀

デューン45

ここで中国人の裕福そうなグループに会い、ここからどこへ行くにも出会う事になる。

四駆でソッサス・フレイに向かう。ここからはオフロードだ。
ソッサス・フレイ
「水が集まる場所」という意味で、200万年前までは川が流れていて大西洋に注いでいたが、砂丘ができたことで川が地下に潜ってしまった。今でも深い場所には川が流れており、それで植物が育っている。生えている木はアカシアでその木の実はエンドウ豆のような形をしており、これを動物たちが食べる。
ここにも「ビッグ・ダディ」という砂丘があって登れるが、かなり大変そうだ。

ソッサス・フレイ
日傘をさして途中までは登った

そして、この近くには有名な「デッド・フレイ」という写真で撮っても絵にしか見えない光景が広がっている場所があるが、我々の日程には予定に入ってなかった。朝早く行かないとその光景は見られないからだとか。

デッド・フレイ

11時ごろ、四駆からバスに乗り換えて出発
途中には大きな「オリックス」が1頭大きな木の陰で休憩していて何だか神々しく見えた。「ジャッカル」もいた。

オリックス

12時ごろ、ロッジでランチボックスを受け取り、バス車内でランチタイム

その後、ガタガタ道を6時間移動してサファリコート着
ナミビアは想像していたよりもずっと都会で人々もとても親切だ。

🛏 ウイントフック泊

4日目 3月24日
午前中は少しだけゆっくりとする時間があった。

11時半ごろ、ホテルを出発してウイントフック市内観光へ
ナミビアのほぼ中央に位置し、標高1,655mの高原地帯にある。
人口は25万人。
ドイツ領だったことから、ドイツ風の建物が多い。

クリストゥス教会
1907年平和共存の為に建てられたルーテル派の教会で、塔の高さは47m。
中にはドイツとの戦いで亡くなったナミビア人の名前が刻まれている。
教会の向こう側には国会議事堂も見える。

独立大通りでフリータイム
バスの中から、ヒンバ族の人達がお土産を売っている光景が目に入って来た。👀!
今回は彼らの村を訪問する予定がないので、バスを降りたら、一目散に彼らの元へ駆け寄っていった。
彼らはもうすぐ遊牧民としての暮らしを捨てて普通の暮らしを始めるというニュースを出発前に見ていた。映像にはあのままの格好で、カートを押しながらスーパーで買い物をしている様子も映っていて驚いてしまったので、余計に会えてうれしかった。

後記: あのニュースはナミビア政府が普通の生活を推奨していると伝えたかったのかもしれません。現在でも彼らは伝統的な遊牧生活を続けています。😅

ウイントフック鉄道駅
1912年建築。標高1,652mの表示がある。
大西洋岸の港まで主に銅などの鉱物を機関車で運んでいた。

昼食:サラダ、ポークシニュッツエルかチキングリル、ライスかフライドポテト

✈ 17:35 発 ウイントフック: 南アフリカ航空(A319-100)
  19:20 着 ヨハネスブルグ

機内の隣に座った中国人の若者はナミビアの行く先々で出会ったグループの中にいた一人だ。年配の女性が多かったので、目立ったのだ。
「日本人ですか」と英語で聞いてきたので、ビックリ。
ご存じの方も多いと思うが、中国で英語を話す人は稀だ。
空港でも話さない人が多い。
彼の職業はフリーランサー。
「TOEICの攻略本」のような本を出版して、それが結構売れているらしい。
今の中国の経済状況を見ているようで、興味を持った。

次は「雲貴高原の少数民族」に会いに行くと言うといろいろと現地の様子も教えてくれた。
もちろん、地名は日本語で発音しても通じないと思ったので、書くと分かってくれた。
南アフリカへ行ったら、「ロボスレイル」に乗車するとか。
あのブルートレインよりも豪華と言われている列車に乗るんだ。凄いなあ!

中国とインドは人口が多いので、競争が激しくて、相当な努力をしないと上に昇れないという話はよく聞くが、彼もかなりの頑張り屋さんに見えた。
何と言ってもこういう普通の会話ができたこと自体がとても楽しかった。

✈ 21:00 発 ヨハネスブルグ: 南アフリカ航空(737-800)
  23:00 着 ケープタウン

🛏 ケープタウン泊

②     {南アフリカ共和国
面積: 122.3万㎢(日本の3.2倍)
人口: 約4,930万人
首都: 行政―プレトリア、立法―ケープタウン、司法―ブルームフォンテン
言語: 英語(公用語)、アフリカーンス語、ズールー語他
民族: バントゥー系80%、白人、カラード、アジア系
宗教: キリスト教85%以上、伝統宗教
主産業:農業、牧畜、鉱業、ワイン等
独立: 1934年イギリス連邦から

5日目 3月25日
ケープタウンは南アフリカの南西部に位置し、人口は約400万人。
1652年、ヤン・ファン・リーベック船長がオランダ東インド会社の補給基地として町を建設。コロニアル風な建物が多く、白人の割合も多い。
19年前に来た時と比べて風景はあまり変わっていないように見受けたが、活気があることは感じた。

9時ごろ、ジェットフォイルにて25分かけてロベン島に向かう
あまり、揺れなかったのは幸いだった。

ロベン島到着後、バスにて島内観光へ
本土から約12km離れた所にあるこの島には元々人が住んでいたのだが、17世紀頃になると刑務所として使われるようになっていった。
1836年から1931年まではハンセン病患者を隔離するために使われた。
1959年からは主に政治犯の強制収容所として黒人専用の刑務所となった。
ネルソン・マンデラ元大統領も1963年から18年間ここのBセクションで過ごした。
彼はこの後も二つの刑務所に移送されて、合計27年を牢獄で過ごし、1990年に解放された。
ここは1996年に閉所されて1997年から博物館として一般に公開されている。1999年に世界遺産に登録をされた。

ロベン島にある博物館

現在村には150人ほどが住んでおり、学校や教会もある。
ハンセン病で亡くなった人のお墓(1,200名)

石切り場
石を切り出し、粉々にして何にも利用するわけではなく捨てていた。肺や目を悪くする劣悪な環境で、囚人たちを疲労させるのが目的だったとか。
酷すぎる!😠

ロバート・ソブクエが収容されていた家
彼は新聞記者で力強い演説と知性で知られた
反アパルトヘイトのカリスマ的指導者である。彼が刑期を終えようとした頃、出所後の彼の影響を恐れた政府は彼を世間から隔離するための法律を制定した。当時の南アフリカ政府は一人の為に「ソブクエ法」という法律まで作ったのだ。
自分達の欲望を満たすためには人間はここまで狂ってしまうものらしい。😱
結局、彼は亡くなるまでの6年間ここで、一人で過ごした。

刑務所内のツアー
元囚人の方が案内をして下さった。
ここでも人種によって支給される食事や服が違い、きっちりとアパルトヘイトが行われていた。😢
雑居房は30~60人が一緒に生活をした。1976年からベッドになったがそれまではゴザだった。
Bセクションにはマンデラ氏の独房がある。5号室で部屋番号は「46664」で下二桁は入居年。部屋の広さは2m四方くらいで、トイレだろうか小さなバケツが置いてあった。
通路を挟んで両側に独房が並んでいた。通路からは部屋が丸見えで入り口には棒が何本か立っているだけだったが、これは当時のままだろうか。部屋の向こう側には小さな窓があり、中庭が見えるようになっていた。

外に出ると対岸にはテーブルマウンテンやウォーターフロントの景色が見えた。

12時ごろ、再びジェットフォイルでケープタウンに戻った
船内で、地元の人から声をかけられて「自分は日本へ行き、広島で原爆ドームを見たことがある」と言った。中学校の先生をしているとか。
後で思ったが、優秀な方で選ばれて公費で日本を訪問されたのだろうと。

恥ずかしながら、私は原爆ドームを見たことがなく、帰国したら行くと答えると、突然ある人が「海外ばかり行って国内の大事な場所へ行っていないなんて!」と物凄い剣幕で怒り出した。それを2回も繰り返すのだった。
あたかも私が法律に違反しているかのようで、物凄い剣幕であった。
兎に角、顔が怒りに塗れて鬼の形相だったので、その地元の人はどう思っただろうか。日本人に対して嫌なイメージを持たないで貰えるといいのだが。
ああいう風に所かまわず怒鳴り散らすなんて、大の大人がすることではない。
呆気に取られてしまったし、これで話が途切れてしまい、嫌な空気が流れるだけだった。

もちろん、帰国したら即刻行ってきた。原爆資料館にも入り、戦争の悲惨さを体で感じてきた。
ある本を読んでいると「歩いていると、片方の目玉がポロリと落ちていった」という場面の絵が描かれていて、その方の気持ちを考えるといたたまれなくなってしまった。
子供のころに「裸足のゲン」を読んだことがあるが、再度購入してきた。
日本人よりも外国人が圧倒的に多くて関心の高さがうかがえた。
長崎へは行ったことがあり、自分の涙でできた海で溺れそうになった。😭 まだ20代だったこともあって、かなりのショックを受けたことを覚えている。

ケープタウンに戻り昼食: ムール貝、ボロネーゼ パスタ、シャーベット、コーヒー

その後、市内観光
キャッスル・オブ・グッドホープ
オランダの東インド会社総督の居城として17世紀に建設

市役所1905年に完成したイタリア ルネッサンス様式の建物。1990年2月出所したマンデラ氏がここのバルコニーから演説をしてこの前の駐車場には1万人以上の人々が集まった。

聖ジョージ大聖堂
南アフリカ最古の英国国教会でゴシック建築、古典的な十字架の形をしている。アパルトヘイト撤廃運動の活動拠点で「人民のための大聖堂」として知られる。

国会議事堂
新旧二つの建物に分かれており、隣は州知事のオフィス

マレイ地区
カラフルな色彩の家が立ち並ぶ地区で昔はイスラム教の奴隷が多く住んでいた。

ウォーターフロントでショッピングタイム
時計台、ビクトリア・ワーフ、大型スーパーや土産物店がある。

中華レストランにて夕食:アワビとレタスの炒め物、青梗菜の炒め物、イカと春巻きのフライ、スープ、チャーハン、魚のフライの甘酢がけ

シグナルヒルにて夜景観賞(300万ドルの夜景というらしいが、何故この数字なのかな?丁度、テーブルマウンテンには雲がかかり、テーブルクロスのように見えた)

🛏 ケープタウン泊

6日目 3月26日
テーブルマウンテンへ向かう
昨日は風が強くて一日中動いていなかったせいで、朝から長蛇の列ができていた。
1時間近くも待ってやっとスイス製65人乗りのケーブルカーでたったの3分で頂上まで行くことができた。床がぐるりと一回りする。1994年に来た時は普通のケーブルカーだったので、19年の間に随分とカッコ良くなったな。ここは標高1,087mの場所にあり、天気が変わりやすい。
前回も見たウサギに似ている「ロックダーシー」がチョロチョロと動き回っていた。

ロックダーシー(ハイラックス)


ロベン島、シグナルヒル、ウォーターフロントやケープ半島もよく見えた。
あまり広くはないので、一回りして又、ケーブルカーで降りた。

その後、喜望峰に向かう。

途中、ボルダーズ・ビーチに立ち寄る。
ここは前回も来たことがあり、楽しみだったが、残念ながら柵ができており、浜辺には降りることができなくなっていた。63番の南アフリカにも記載したが、観光客がペンギンに触ることが多発したための措置だそうだ。
それでも小さなジャッカス・ペンギン達と久しぶりに会えてすっごく嬉しかった。🐧
以前は3,000羽ほどいたそうだが、1998年のタンカー事故の影響で激減したとか。😢

ジャッカス・ペンギン

喜望峰自然保護区に到着

昼食: サラダ、ロブスター、イカフライ、温野菜、バニラアイス

→ケープ・ポイント
1860年から1919年まで使用された灯台がある。霧の日には見えづらくて難破する船が多かったので、1919年に新しい灯台が建築され、これだと67km先まで光が届くのだとか。Funicular(ケーブルカー)に乗って灯台の足元まで行くことができた。

喜望峰(アフリカ大陸最西南端)
1488年にポルトガルの航海者バルトロメウ・ディアスがヨーロッパ人として初めて到達し、1497年にバスコダガマも到達した。
喜望峰とはポルトガルの王エマニュエル1世がバスコダガマのインド航路発見を記念し、喜んでつけたのだとか。
最南端はここから約50km東にあるアグラス岬。

喜望峰
喜望峰到達の証明書

グルート・コンスタンシア(南アフリカ最古のワイナリー
東インド会社の総督サイモン・ファンデル・ステルにより1685年設立。
1年のうち、300日が晴天に恵まれるこの地では糖度の高い良質の葡萄ができる。かのナポレオンも愛飲したそうだ。
5種類の試飲ができたようだが、私はお酒に全く興味がないので外で葡萄の様子を見たりして時間を潰した。ワインにする葡萄って案外小粒なのだという事を発見。

グレート・コンスタンシア

夕食:サラダ、ボボティー(南アフリカ風ミートローフ)、アイス、コーヒーか紅茶

🛏 ケープタウン泊

7日目 3月27日
✈ 07:00 発 ケープタウン:南アフリカ航空
  09:00 着 ヨハネスブルグ

✈ 10:40 発 ヨハネスブルグ:南アフリカ航空
  12:30 着 リビングストン(ビザ代40ドルーダブル)

③     {ザンビア共和国
面積: 752千㎢(日本の2倍)
人口: 約1,800万人
首都: ルサカ
言語: 英語(公用語)他
民族: 73部族(トンガ系、ニャンジャ系他)
宗教: キリスト教80%以上、伝統宗教他
主産業:鉱業、農業、観光業
独立: 1964年イギリスから

ホテル到着
中庭が素晴らしくて、シマウマやキリンも遊びに来るらしく、実際に門の所でシマウマが数頭草を食んでいた。1m近くまで近づくと毛の生え方までじっくりと観察ができるほどだった。ビクトリアの滝もすぐ傍にある。

ビクトリア・フォールズ(ザンビア側)
1855年、イギリスの探検家リビングストンが現地人の案内でこの滝を発見した。
当時のビクトリア女王に因んで名づけられた。現地語では「轟音を響かせる水煙」と呼ばれていた。彼はその後、3度に渡ってアフリカを探検し、1873年ザンビア中部にて赤痢にかかり病死。「え?そうだったのか。私もエチオピアで赤痢にかかった事があるが、治療薬があって良かった!」あれは確かにもんどりうつぞ・・・🥶

まずはザンベジ川の横 →イーストカタラクト →リビングストンの像(銅製) →ナイフ・エッジ・トラック →ビクトリア大橋(1905年建設の鉄道橋で真ん中あたりにある小屋はバンジージャンプ用) →フットブリッジ(台風かと思ったくらいびっしょりになった)→ジンバブエ側まで到着

このすぐ上は水深が浅く、よく人が水浴びをしている
右上にはホテルが建っている

夕食:ホテルにてバイキング

20時ごろ、ルナ・レインボーの見学(今回、二つ目のハイライト)
これは満月の前後3日間しか見られない月の明かりでビクトリア・フォールズに虹がかかる現象のこと。丁度満月の日で素晴らしい虹が見られた。こんな自然現象は見たことがなく、幻想的な光景に感激した。😆
しかも多くの観光客で賑わっていた。写真を撮るのはかなり難しい。
ある人は明日も見に来たいと実際に行ったようだ。もちろん入場料がかかるが。

ルナ・レインボー

🛏 リビングストン泊

8日目 3月26日
朝食後、国境を越えて世界有数の象の生息地として有名なボツワナの「チョベ国立公園」へ向かう。

ホテルを出て5分も立たないうちに道路の左側に象を発見。🐘
「ウワオ!」と思ったら、我々のバスに驚いたのか道路を横切らずに茂みの中へ戻っていった。反対側の茂みの中ほどにはキリンの首が見えた。🦒
国立公園内を通過してザンベジ川をボートで渡った。ここはザンビア、ボツワナ、ナミビアとジンバブエ4か国の国境となっている。
ボツワナ入国。建物の入口で雑巾を踏んだが、これは口蹄疫予防の為。

④     {ボツワナ共和国
面積: 58.2千㎢(日本の1.5倍)
人口: 約200万人
首都: ハボローネ
言語: 英語、ツワナ語
民族: ツワナ族80%、カランガ族他
宗教: キリスト教、伝統宗教他
主産業:鉱業、農業、畜産業
独立: 1966年イギリスから

チョベ国立公園(サファリのスタート)
ボツワナ北部に広がる動物保護区でアフリカでは象が一番多く生息しており、5万頭いる。
以前は12万頭いたが、密猟者によって牙が狙われて1979年から1993年にかけて激減した。

サファリカーは特別仕様で横長のシートが3列ほど並んだ車だ。
カラハリ象とインパラがよく見られたが他の動物はいなかったようだ。
1頭だけいた「PUKU」というアンテロープの一種はとても珍しいとか。
インパラのお尻には「M」という自然のマークがついており、ライオンにとっては「マック」という意味のご馳走なのだそうだ。😉

インパラ
サファリカー

昼食: ロッジにてバイキング

チョベ川(リバークルーズ サファリ)
この川はアンゴラを水源としボツワナ国内を入ってから4つも名前を変えてザンベジ川と合流をする。ナミビアとボツワナの国境ともなっている。
ここでは「アフリカ・クロトキ、ワニ、ウミワシ、ビーイーター、猿、象、インパラ、ヘビウ、カバ、アフリカンワシ、カワセミ、シロサギ、エジプトガン、アイビスやトカゲなど」が見られた。
特に象は泳いで川を渡るところや泥を巻き上げて体につけている様子や水を飲む場面が見られた。小象もちょこまか動いて何とも可愛らしかった。

象達

国境まで戻り、朝と同じようにボートでザンベジ川を渡る。
ザンビア再入国(ビザ代40ドルーダブル)

夕食:ホテルにてバイキング

🛏 リビングストン泊

9日目 3月29日
希望者のみビクトリア・フォールズの遊覧飛行へ
私は19年前に行ったことがあるのでパス。

午後は国境を越えてジンバブエ側のビクトリアの滝へ
27日にも通ったビクトリア大橋を通ってジンバブエに入国(ビザ代30ドル)

⑤     {ジンバブエ共和国
面積: 38.6万㎢(日本よりやや大きい)
人口: 約1,250万人
首都: ハラレ
言語: 英語、ショナ語、ンデベレ語
民族: ショナ族、ンデベレ族他
宗教: キリスト教、伝統宗教他
主産業:鉱業、農業、観光業
独立: 1980年イギリスから

中世にはグレートジンバブエ遺跡にみられる一大文化を築いたが15世紀に衰退。
19世紀にはセシル・ローズによって築かれたローデシアの一部となる。
1980年、現在の大統領であるムガベ氏が政権を握ってからが悲劇の始まりで、それまでは「アフリカの穀物倉庫」と呼ばれるほど豊かだったのに2000年の農地改革の失敗でハイパーインフレが起こり、経済が破綻。
100兆ジンバブエドルまで発行するが追いつかず、2009年にジンバブエドルの流通を断念し、アメリカドルと南アフリカランドを使用することとなった。
お土産物屋さんではこの($One Hundred Trillion)が(US$1)で売られていた。

ビクトリア・フォールズ(ジンバブエ側
幅1,700mのうち、1,500mがジンバブエ国内にある。2kmの遊歩道を歩いて滝巡りをした。水煙は500mくらいの高さまで上がり、20km離れた所からでも見えるそうだ。

ビクトリア・フォールズ
C社のサイトより

ザンベジ川(サンセット クルーズ)
ここも19年前に来たことがあり、懐かしい景色が広がっていた。
しかし、何も変わっていないように感じたのは良かった。

ザンベジ川のサンセットクルーズ

夕食: アフリカンBBQを民族音楽とダンスと共に
    (イボイノシシ、クドゥーのシチュー、ポークリブ、芋虫などなど・・・)

その後、ジンバブエの国境を越えてザンビアに3回目の入国(ビザ代50ドルーシングル)

🛏 リビングストン泊

10日目 3月30日
帰国日で午前中はゆっくりと過ごした。
「ブ~ン」という音が聞こえてきたので、空を見上げると「Microlight Flight」をやっている人が二組いた。オレンジ色のカイト形の乗り物でパイロットの後ろに座るタイプだ。

✈ 13:15 発 リビングストン:南アフリカ航空(A319-100)
  15:05 着 ヨハネスブルグ

✈ 16:50 発 ヨハネスブルグ:南アフリカ航空(A340-300)

11日目 3月31日
  12:15 着 香港

✈ 15:00 発 香港: ANA(767-300ER)
  20:15 着 成田

{結び}
今回は1991年にケニアとタンザニアへ行って以来のたくさんの動物が見られたこと、アフリカの歴史、ナミブ砂漠の雄大な景色などに触れることができたし、ルナ・レインボーも見事でした。🌈

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