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エチオピア(塩のキャラバン、エルタ・アレ火山、ダナキル砂漠)

(33番)  2018年   1月
エチオピアへ行ってきました。
エルタ・アレ火山、ダナキル砂漠と塩のキャラバンが目的です。
昨年はエルタ・アレ火山のマグマは噴出していなかったそうで、我々も運任せです。
参加者は男性4名、女性7名の計11名で、およそ半分は若い人達でした。

今回のルート

1月19日
20:10 発 成田 エチオピア航空(787-800 又、香港経由かい・・・機内で就寝時にはしっかりと貴重品を手元に置いた)

1月20日
07:00 着 エチオピアの首都であるアディスアベバ
12:20 発 アディスアベバ エチオピア航空(ボンバルディア ダッシュ8)
13:45 着 メケレ

エチオピアは約3000年の歴史をもち、80以上の民族が暮らす多民族国家です。
18日から20日まではキリストがヨルダン川で洗礼を受けた事を祝う「ティムカット祭」の宗教行事が行われていました。
エチオピア正教は4世紀半ば、エジプトから来たシリア人フルメンティウスによって普及。
各教会には最も神聖な物とされる聖遺物「タボット」があり、これは契約の箱アークのレプリカで、オリジナルはアクスムの教会に保存されています。ユリウス暦を採用しており、一年が13ヶ月あります。
主にアムハラ後を話し、言語の文字は可愛いいです。

ホテルへ
そこのレストランで遅い昼食。
さあ、明日からは久しぶりのテント泊が続きます。

1月21日
四駆4台に分乗して、一台ごとにトランシーバーを持ちます。5台目はキッチンカーです。毎日同乗者は変わり、全員が窓側に座ることができます。
本日はまずダナキル砂漠へ向かいます。標高約2000mからマイナス114mのアフデラ湖まで下っていきます。

途中のビューポイントでは大地溝帯の一部が見えました。
移動中の道路の両側には竜血樹があちこちに見えました。

「ソドムのリンゴ」の説明をするために一度止まりました。これはラグビーボールのような大きさと形で黄緑色をしています。
旧約聖書に出ている毒のある植物の別称で、中の白い液体は目に入ると失明をするとか。次いで、アリ塚の説明もありました。
砂漠を四駆で走っていると地下に水源がある場所には必ずと言っていいほど、地上には植物が育っています。

アフデラ湖のほとりに到着。
アフデラ湖は海抜マイナス114mにあります。
塩分濃度は13.5%、死海は35%で一般的な海は3.5%です。

キャンプ初日の夕食を済ませて、お風呂代わりに湖に入りました。
本日が最後のお風呂チャンスだったから。

テント泊

1月22日
朝はアフデラ湖畔の塩田の見学。
塩田は3つの池に分かれている。まず、塩水を第一の池に入れ、10日間天日で干す。次に第一の池の堰をくずして第二の池に塩水を流す。
20日間天日で干す。第二の堰をくずして第三の池に塩水を流す。
ここで3か月間天日干しをすると厚みが15cmの塩の層ができる。
この後、一つ50kgに袋詰めをして工場へ送り、そこでヨードを加える。ボリビアのウユニ塩湖でも最後にヨードを加えると聞いた。

日本でも能登、沖縄、甑島などで塩の生産業者の見学をしたことがあるが、この話をすると知らないと言われたので、日本の塩はひと手間加える必要はないのかな?

道路はオフロードに変わります。溶岩台地でガタガタと揺れるし、時折砂嵐が吹いて何も見えなくなったりしました。

昼食

エルタ・アレ火山のベースキャンプ到着。
明日からの登山に必要のない物はボストンバッグに入れて、車の中で鍵をかけて保管するとのこと。
ここは溶岩台地の為に岩盤が硬くてテントが張れずに簡易ベッドが外に並べてあり、そこで寝ます。所謂、野天です。
暫くは大人しく寝ていたのですが、顔の上に砂埃がバッサ バッサとかかる時があって「こりゃ、たまらん!」と大きなテントに避難しました。
ありゃ、既に他の人達も非難していました。横になると地面が平らではない上に岩が体にゴツゴツ当たって痛いのなんのって・・・とても眠る状況ではありませんでした。
夜になるとエルタ・アレ火山の頂上の方で溶岩が燃えている様子が見えました。
これは期待できそうです。エルタ・アレとは「煙の山」という意味です。

1月23日
早朝、3:40にベースキャンプを出発。山頂まで約4時間かかります。
ガイドさんは荷物を背負ったラクダと共に先に行ってしまいましたが、ローカルガイドさんと護衛のポリス(ライフルを持っている)が連れて行ってくれます。
ここから、距離にして10km、標高は156mから613mに上っていきます。歩き始めから1時間くらいはほとんど平たんな道で、その後徐々に傾斜が出てきます。ラスト1時間くらいからはその傾斜がきつくなりました。

途中で何度か休憩を入れながら、空を見上げると、うわ~!南十字星とその反対側に北斗七星が同時に見えた時は感激しました。こんな事って滅多に経験できるものではありません。
登山中に日の出を迎えて、ふと後ろを振り返ると誰もついてきていないじゃないですか。それだけ、皆黙々と歩いていたのです。ま、すぐに追いついてきましたが。

先に行っていたガイドさんも下りてきました。明るくなった途端に皆が写真を撮り始めて先に進まなくなったので、早く登らないと日が昇ったら、とても暑くて危険だと皆を促し始めました。

山頂のキャンプ(シェルター)に到着。
先に出発していたコックさん達が朝食を準備していてくれました。
朝食後、少し休憩をした後、火口の見学に出発。

10時半ごろ、南の火口へ。
ガスマスクは貸してくれます。私のガスマスクには「斉藤」と名前が。
途中に見えている溶岩が固まったもので黒いのは最近で、白いのは昔のものだとか。
火口に着くと深い谷底では真っ赤なマグマが煮え滾っていました
映像では見たことがあるものの、実物はど迫力で自然の凄さを見せつけられました。

パンフレットを拝借

12時ごろ、シェルターに戻って昼食。

2回目の北側は15時半の出発だったので、それまで辺りの散歩へ。
ガスが空高く噴出している近くを通りかかった際、風向きが急に変わり、大量のガスを吸い込んでしまいました。呼吸困難状態でせき込んでしまい、しばらく動けませんでした。
その間、15分くらいだったでしょうか。その後、落ち着いてきたので、散歩を再開。この時はガスマスクを外していたのです。

北の火口へ。
地面は滑らかな層がいくつも連なっていて、子供のころに母のお手伝いであんこを練った事を思い出しました。
ペレの毛もたくさん落ちていました。ハワイ辺りではこれを集めて瓶に入れお土産として売っています。
「エチオピアでもそうすれば?そして、売れた代金でトイレを作るのはどうか」とガイドさんに言ったのですが、あまり、乗り気ではなさそうでした。
兎に角、シェルターのある近辺以外は自然のトイレだらけで不潔きまわりなかったのです。
こちらも煙が上がっていて少しマグマが見えました。
エリトリアに近いために、兵士の数も多かったです。

夕食後には19:00頃、3回目の火口の見学。
一時間ほど、瓦礫の上を歩き、2017年にできたばかりの新しい火口の展望ポイントへ。
「これぞ、火山!」という光景がそこには広がっていました。
真っ赤なマグマが下から噴きあがり、溜まってくると川のように流れだすという事を繰り返し続けるのです。もうあれは生き物ですね。

パンフレットを拝借
我々が見たのはもっと凄かった

因みに翌年ここへ行った友人は噴火していなくて何も見られなかったそうです。

1月24日
2:15出発でベースキャンプまで下山。3時間半かかります。
その際、注意事項として「溶岩台地には新しいチューブと呼ばれる場所がある。これの殻にあたる部分で薄い場所に足を乗せて体重をかけると踏み抜く。その際、ガラスのような鋭利な割れ方をして足が切れる。前の人が通った道を歩くように」
早く言ってよ~

ベースキャンプに戻るとある人のパスポートと携帯がない事が発覚。
取りあえず、出発して移動中に連絡があり、その人と添乗員さんだけ引き返していきました。山頂で誰かが拾ってくれていたようです。

また、下まで降りてくると「ここは銀座か?」と思うくらい各国の人々でごった返しており、山頂にいた時は分からなかったので、更に驚きました。
頂上には他の日本人のグループもいました。病人がいて大変そうでした。

その後、ダナキル砂漠北部にあるダロール地区のアハメッド・エラ(海抜マイナス120m)へ。
途中でオフロードから舗装道路に変わりました。
キッチンカーが故障をして修理のためにメケレへ戻っていきました。

ベルハアレ
ラクダの塩のキャラバン隊が出発をして帰ってくる所。たくさんのラクダが休んでいました。

アハメッド・エラ(アハメッドさんの井戸という意味)にてテント泊
本日はシャワーデーでお水をバケツ1杯貰えます。近くの井戸から村の人に頼んで汲んできてもらうのです。ちょっとすっきりしました。
しかし、これが後々体調の変化につながることに。あくまでも自分が思っているだけですが。

1月25日
早朝、日の出とともに塩の採掘所へと向かうラクダの出発を見学。
かつてはダロール地区のアサレ湖からティグレ州のメケレまで200kmを1週間かけてラクダのキャラバン隊が塩を運んでいました。

パンフレットを拝借

現在は舗装道路ができてアサレ湖からベルハアレまでの57kmのみ。

朝食後、エルタ・アレ火山の次に楽しみにしていたダロールへ。
広大な砂漠を走り、途中でアサレ山(塩の母)を通過し、世界で最も低い噴火口であるダロール火山へ。
ここは高さ50mほどの溶岩台地の小さな山で、玄武岩質のマグマが地中に侵入したことによって形成されました。
1926年に水蒸気爆発が起こり、直径約30mのクレーターができ、現在も活動は続いています。

なだらかな丘を登っていくとまあ、何という不思議な世界。ここは地球か?塩の奇岩群や硫黄泉など、とてもこの世のものとは思えません。
水蒸気噴火と硫黄、塩、鉄などの鉱物の融合で黄色、黄緑色や茶色をした高さ50cmから1mくらいの小山があちこちに散らばっています。
グツグツと音を立てている小山もあって自然の息吹を感じざるを得ませんでした。

パンフレットを拝借
ダロール

毎年のように小さな噴火があり、その度に景色が変わるのだそう。

その後、アサレ湖の塩の採掘現場へ。
だだっ広い場所で数十名のアファール族とティグレ族の人達が塩を採掘していました。もちろん岩塩です。ティグレ族(キリスト教徒―62.8%)が木の棒や斧で塩を掘り起こし、アファール族(イスラム教徒―33.9%)がバーと呼ばれる定型の大きさに揃えていきます。これをラクダに積んで行くのはティグレ族です。
ラクダ1頭には一枚6kgの板を32枚(192kg)、ロバには10枚(60kg)を乗せて運びます。力持ちだなあ・・・💪

アサレ湖へ。
ここは海が干上がってできた塩湖ですが、水が溜まっている場所もあります。
日中は暑さを避けるために一度キャンプに戻りました。

夕方、再度アサレ湖方面へ向かい、ラクダのキャラバン隊が帰路につく様子の見学へ。
キャラバン隊が現れるまで用意してくれた椅子に座り、ワインでのんびりと。彼らが通る道からは結構離れている場所です。

遠くの方から帰路につくラクダのキャラバン隊が歩いてきました。グループごとに数頭から数十頭まであって、とてもカッコいいです。いくつものグループが通り過ぎて行きました。
中にはロバが先導しているグループもあって、ラクダよりも小さいので、時々ラクダに追い抜かれそうになりながらも、走って先頭に戻ったりしていました。「ロバさん達、君たちは本当に立派だよ!」と心の中で叫びました。

ラクダが時々、列を離れようとしたりするとそれを窘めるかのように先頭を歩くロバが「元に戻れ」と言いに行くのです。あまりにも賢くて感激しました。
人間界にこんな強いリーダーシップで引っ張っていってくれる人はどのくらいいるだろうか。今回はこのロバの雄姿が見られたのが一番良かったです。エルタ・アレもダロールも吹っ飛びました。もちろん、一番うしろには人間がついてきています。「ベルアハレまで頑張ってね」と祈らずにはいられませんでした。

他の皆さんは途中で椅子の方に戻っていきましたが、私はこんな光景2度と見られるものではないので、一人でずっと見ていました。そこを立ち去る時は後ろ髪が引かれる思いでした。

1月26日
メケレに戻ります。
この辺りから気温は高いにも関わらず、寒くてたまらなくなってきました。

途中、アファール族の家の訪問(低地に暮らす)
アブレハ・アッバ教会(見事なフレスコ画がある)
ティグレ族の家の訪問(アビシニア高地に暮らす)
いずれも私はパスしました。

久しぶりのホテル到着
熱を測ると38.5度でした。

1月27日
08:55 発 メケレ エチオピア航空 (737-700)
セキュリティ・チェックを受けるために並んで順番を待っている間もトイレに行きたくなって困った。
10:10 着 アディスアベバ

到着後、ショッピングへ。
トモカ コーヒーショップ
ここは有名なコーヒー豆を売るお店です。2010年にドイツで開かれたコンテストで最優秀賞を受賞しました。
コーヒーの起源は9世紀のエチオピアで山羊遣飼いのカルディという少年が、ある時山羊が興奮することに気づき原因を探ってみたところ、コーヒーの木を見つけた。

コーヒー セレモニー
ガイドさんの旅行会社の庭で見せてもらいました。
この辺りから添乗員さんを含めて数名の人の具合が悪くなりました。
熱を測ると39.8度でした。人生でこんな高熱になったことがありません。
自分はどうしちゃったんだろうと思うしかありませんでした。
皆で食中毒か、サルモネラ菌かとも話していました。

22:20 発 アディスアベバ (エチオピア航空、もちろん、香港経由)

1月28日
19:20 着 成田(着陸態勢に入っているのでトイレは使えないが、いかんせん自分の意志では何ともならずにCAさんに懇願する羽目に)

すぐに検疫所へ直行
感染症専門の病院を紹介してもらい、翌日行ってきました。
「出ていますよ、赤痢菌です」と言われ、唖然としました。

はあ? 今時、「せきりきん?」

血圧も測ってもらったら、これまた今までに見たことのない高い数値でビックリです。
保健所から人が派遣されてきて色々と質問されるし、家の中の水回りを全部除菌しなければならないしで大変でした。
抗生物質を一日一粒で3日間飲んで、再度検体を提出したら死んだ。
今でも何が原因だったのかは不明です。

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