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ジンバブエと南アフリカ

(63番)  1994年   4月

ジンバブエと南アフリカへ行ってきました。

行ってみようと思った理由:
1 ジンバブエは世界三大滝の一つであるビクトリアの滝があるから
2 南アフリカはつい3年前まで「アパルトヘイト」を行っていた国である事と、ただ小学生の時に習った喜望峰が見てみたかった事の二つ

「アパルトヘイト」とは白人優位主義の人種隔離政策のことです。
列車、バス、ホテル、レストラン、映画館、公園、公衆トイレまで公共施設はすべて白人と非白人以外に区別されたのです。例えば、バスとその停留所は黒人専用のものがありました。白人専用の公園に立ち入った黒人はすぐに逮捕されました。
日本人は名誉白人として認められていたとか。

有名な話としてインドのガンジーが1893年から20年ほど、南アフリカで弁護士をしていたことがあります。列車の一等車両にちゃんと切符を持って乗っていたにもかかわらず、荷物と共に追い出されたのです。
当時は奴隷制度が廃止されたために、多くのインド人が移民労働者として働いていました。
政府は彼らに対していろいろな権利を奪って酷い人種差別を行っていました。
このような事がきっかけで彼は1915年に帰国した後からインドをイギリスの植民地から解放するための活動を始めました。

我々が出発をする3日前には南ア始まって以来の全国民が参加をする選挙がありました。
それに反対をするグループがヨハネスブルクにある ANC本部(ネルソン・マンデラ氏が議長)近くで爆弾騒ぎを起こし、それ以降も連日のようにあちこちで爆弾騒動がありました。
会社の同僚からは「○○さん、本当に南アに行くつもりなの?」と心配そうに聞かれたりもしました。「いや~大丈夫よ」と答えてみたものの、実の所はニュースなどには噛り付いていました。

今回の参加者は男性10名、女性6名の計16名でした。

今回のルート

1日目 4月29日
成田に着くとゴールデンウィークの初日という事でごった返しており、こういう時期にしか休みが取れないサラリーマンの遣る瀬無さを感じた。

空港には旅行会社の部長さんがお見送りに来てくださっており、次のように言われた。
「今回は万が一の事を考えて課長職の者を添乗につけさせていただきましたのでご安心ください」。とは言われたものの正直どのような反応をしていいのか、戸惑った。
仕事の位よりも仕事ができる人をつけてもらいたいと思ったが、ま、彼らの安全を願う気持ちは伝わった。

✈ 16:00 発 成田 キャセイパシフィック航空
  18:20 着 台北

台北では南アへ向かうもう一つの日本人のグループに出会った。
ラグビーの親善試合に行くそうで、「ガマクラブ」という総勢63名の一行である。
ある人が「我慢比べのガマです」と茶目っ気たっぷりに言ったが、旗には「蝦蟇」の絵が描いてあるよ。
待合室のTVでは名古屋空港の中華航空機事故の悲惨なニュースを伝えていた。4月26日に墜落して264名が亡くなった。

✈ 19:45 発 台北 南アフリカ航空

シンガポール経由だったが、そこで出発が1時間も遅れてしまった。

2日目 4月30日
機内で「あと2時間でヨハネスブルクに到着か、やっぱり20時間もかかるほど遠い国なのだ。疲れたなあ・・・」と日程表に書き込んでいる。

  07:25 着 ヨハネスブルク

乗り継ぎの為に待合室で外を眺めているとシラサギ?が数羽飛んできた。ああ、ここはアフリカなんだと改めて納得。人にも慣れているようで、ドンドン入り口に歩いてきて中まで入ろうとしたのでビックリ。

✈ 10:15 発 ヨハネスブルク 南アフリカ航空

途中、右側にビクトリアの滝の水煙がよく見えて、機内ではカメラのシャッター音がカシャカシャ。

  12:00 着 ビクトリア・フォールズ

ホテルへ向かい、ちょっと休憩をとった後、早速の滝の見物へ出発。
ビクトリア・フォールズは1855年にイギリスの探検家リビングストンが発見した。今から1億5千年くらい前にできた。
ザンビアとの国境付近に位置し、最大幅1,701m, 最高落差118m, 深さは12m。
滝が視界に入ってきた途端に虹がたくさん見えてきて手でつかめそうだった。どんどん先に進んでいくとまるで虹がついてきてくれているようで嬉しかった。
「レインフォレスト」という最も雨しぶきの多い場所を過ぎた所でレインコートを脱いでもよいと言われたので、その通りにすると急に風向きが変わり大雨に見舞われてしまった。
全員が生まれたてのヒヨコみたいに・・・🐣
ズボンがビショビショで冷た~い。

ビクトリア・フォールズ

その後、一度ホテルへ戻り、次はザンベジ川クルーズへ出発。
川の左側はジンバブエで右側はザンビアだ。
それほど大きな川ではなくて、最大幅の所で500mくらい。

川岸にはヌーがいたり、また、若者がボートの練習をしていたりして、のんびりと船は進む。
夕陽は辺りが真っ暗な分、とても幻想的でたまにピシャッと魚が飛び跳ねる音?がするだけの静けさの中、ゆっくりと落ちて行った。
時間は17:50頃。

ザンベジ川に落ちる夕日

その後、19時からジンバブエの民族舞踊の見学。
お面が非常にユニークでとてつもなく大きな物を被っていた人は流石に足元がヨタヨタしていたが、ひょっとしたらこれも演出なのかもしれない。
お面を被らない方の踊りはパプア・ニューギニアの人達と衣装がそっくりで、あんなに地域的に離れた場所なのに不思議だった。
表紙の写真がヨタヨタしていたダンサーです。

民族舞踊

「ゴマ」というボンゴのような太鼓は叩く面はバッファローの皮で、胴の部分は木でできているらしい。叩く人の胸の高さまであって、お腹に響き渡る自然な音に感動しまくり。
演奏者達が全員お年寄りだったのも驚いた。
ショーが終わった後すぐに「ゴマ」に近づいて行き「素晴らしい音ですね!」と一人のお年寄りに言うと「有難う」ととっても素敵な笑顔で返してくれた。

この日の夜は、久しぶりに体を横にして寝られた。バタン・キュー!
🛏 ビクトリア・フォールズ・ホテル泊(ジンバブエ)

3日目 5月1日
朝一で希望者のみビクトリアの滝の空中遊覧へ出発。
5人乗りのセスナ機で滝の上を右回りと左回りを2回ずつ、15分間ほど見せてくれた。
前日、陸から見たのも良かったが、空からの眺めも水がスローモーションのよう感じられて更に感動してしまった。兎に角、「凄い」の一言に尽きる。
規模的には1989年に見たイグアスの滝の方が大きいような気がするが、何てったって虹の美しさはビクトリアの滝の方が何枚もうわてだ。

ビクトリア・フォールズ 上空から

✈ 11:00 発 ビクトリア・フォールズ:ジンバブエ航空
  11:55 着 ブラワヨ(ジンバブエ第二の都市)

✈ 14:00 発 ブラワヨ:南アフリカ航空
  15:20 着 ヨハネスブルク

🚌 プレトリアへ
南アは三権分立制度を取っており、行政府の首都はプレトリア、立法府はケープタウン、
そして司法府はブラームフォンテンと分かれている。ヨハネスブルクは経済の中心地となる。
ホテルの部屋の水道水が飲めるそうで、日本以外ではこれまで行った国の中では唯一である。実際に飲んでみる勇気はなかったが。
これまで見た印象では、とても綺麗な街並みが続いていて、出発前に旅友たちから聞いていた「まるきりヨーロッパね、あの国は」との言葉に納得。
バスのドライバーがガイドも兼ねる。

🛏 プレトリア泊

4日目 5月2日
6時からの朝のニュースでは選挙の結果発表があり、デクラーク氏が敗北宣言をしていた。
マンデラ氏に大統領職は譲るが、政治の世界からは身を引かないと言っていた。マンデラ氏を釈放したのはデクラーク氏である。

1993年にはマンデラ氏とデクラーク氏共にノーベル平和賞を受賞しています。

午前中はプレトリア(別名はジャカランダ・シティ)の市内観光へ
ユニオン・ビル
大統領官邸で小高い丘の上に建っており、庭は自由に見学ができるようになっている。

フォールトレッカー記念碑
フォールトレッカーとはアフリカーンスの言葉で「開拓者」という意味。
ここには過酷な状況の中にも独立を勝ち取ろうとしたズールー族の歴史がレリーフに刻まれている。中には、白人とズールー族が調印をした直後にズールー族の長がその白人を殺してしまった場面があった。事実かもしれないが、これは白人が彫刻をしたレリーフに違いない。

🚌 午後は又、小一時間かけてヨハネスブルクに戻り、市内観光へ。

証券取引所と市庁舎をバスの中から見学。危ないのでバスから降ろしてくれなかったのだ。
不満そうな我々を察して、やっと15分間のみ外へ出ることが許された。
一人でブラブラしていると「Hello! China」と声をかけられたが、気が付かないふりをした。

市内のレストランで夕食を終えて21時ごろホテルに戻ってTVをつけると今度はマンデラ氏が勝利宣言パーティをしている様子が映っていた。
彼は支援者の人達と一緒に楽しそうに踊っていた。何だかこちらまで嬉しくなってきた。

🛏 プレトリア連泊

5日目 5月3日
朝食後、ヨハネスブルクに戻る。

✈ 09:00 発 ヨハネスブルク:南アフリカ航空
  11:00 着 ケープタウン(南アフリカ第二の都市)

ここは1652年、オランダのヤン・ファン・リーベック船長が東インド会社の補給基地として建設した町で、南アフリカ発祥の地として「マザーシティ」としての名も持つ。

昼食後、有名なテーブルマウンテンへ。
ここは所謂岩山でケーブルカーによって頂上(1,067m)まで行くことができる。
「ロックダッシー」というウサギのような小動物がチョロチョロ動き回っていて可愛い。
頂上は端から端まで約3kmほどの長さの平地になっていて、ここからの眺望が素晴らしい。マンデラ氏が27年間の獄中生活のうち、18年間を過ごしたロベン島が沖合に見える。現在はもちろん、使われていない。
将来は観光地にするという計画があるらしいが、ミーハーな自分でさえ、それは止めておいた方がいいような気が・・・

後記:な~んて言っていたら2013年に3回目の南ア訪問時にロベン島へ行き、彼が投獄されていた部屋などを見て回りました。来ることができて良かったです。我ながら考え方も変わるものだとつくづく・・・
現在は負の遺産として世界遺産に登録をされいます。

16時半ごろ、ホテルに着き早速散歩へ出かけた。
ほとんどのお店は17時ごろに閉まってしまい、とにかく人が歩いていない。
ニョキニョキと林立する高層ビルの谷間を一人で歩いているととても浮いているような気がした。何故ならば、ちょっと前に見た「未来世紀ブラジル」か「アキラ」の世界に入り込んでしまったかのような錯覚さえ覚えたから。
夕食の時に聞いたのだが、男性二人の友人同士で参加をしていたMさん達も同じく市内をブラブラしたのだそうだ。ある人が物売りをよそおって近づいてきて、肩にかけていたカメラをひったくろうとしたらしい。脇道に入り込んだのがいけなかったようだ。

ホテルの部屋(21F)の窓からはテーブルマウンテンが真正面に見えてとてもいいホテルだった。ただ、エレベーターの箱と建物の間に隙間があって乗り降りの際、下を見ると超怖かった。😨

🛏 ケープタウン泊

6日目 5月4日
🚌 ケープ半島を反時計回りにグルッと南下していき、憧れの地「喜望峰」へ。
右側には大西洋がずっと見えた。毎年9月から11月にかけてクジラが陸に上がって自殺をするとか。原因は不明だそうだ。
過去400年の間に500隻の船がこの辺で座礁しているそうで、その残骸が3か所ほど見えた。昔はスエズ運河が開通するまでヨーロッパからは必ずここを通って東へ向かった事を考えると壮大なロマンを感じてしまう。

バスから降りて小舟に乗り換え、アザラシの島まで30分。
この島には2,000匹のアザラシが住み着いているそうで、あれだけの数を一度に見ると流石に唖然!我々を見ると怖がるのではなく、愛想を振りまいてくれて可愛いなあ。
こちらの人々が彼らに対して優しく接してきているのが感じられた。
このケープ半島の周辺にはウン十万匹ものアザラシが棲息しているとか。
船が島に近づくにつれて強烈な臭いがしてきたのは参ったが。

🚌に乗り換えて喜望峰へ。
この半島一帯は自然保護区に指定されていて、多くの野生動物が生息している。
我々が見たのは、5頭のレンヨウと1頭のシマウマ、そして番いのダチョウ。特にシマウマは珍しい種類のようでドライバーさんが「You are lucky!」と興奮して早口で喋り捲る。
帰国後、動物に詳しい旅友に写真を見せると「縞模様の間隔が狭いし、全体的に細い」と言っていた。なるほど、1991年にケニアとタンザニアで撮ったシマウマと比べてみると自分でもわかるほどだった。

そうこうしているうちに喜望峰に到着。
来てみなきゃ分からない事発覚!
ここがアフリカ大陸の最南端だとばかり思っていたら、それよりも更に南東へ約150km行ったところにある「アグラス岬」が本当の最南端なんだと。
丁度、この喜望峰とアグラス岬との間が湾になっており、大西洋とインド洋の海水がミックスされている。
「Cape of Good Hope」の看板の前で記念撮影をした後、海水に触ったら冷たかった。
今の季節、水温は約14度位とか。
既にこの地に足を踏み入れたことのある旅友達の話では「ただの岬でガッカリ・・・」というのが多かった。しかし、自分にとっては、夢がかなって嬉しかった。
ケープポイントでは霧がかなり濃くて周辺の景色が見渡せずに残念。
売店で絵葉書に記念スタンプを押してもらい、自分あてに出したら、10日で届いた。

喜望峰

霧に煙るケープ半島を今度は北上していく。何しろ、この時期にのんびりと観光なんかしているのは我々日本人だけで、どこへ行っても空いており、時間が余ったので「皆さんをいい所へお連れしましょう」とドライバーさんに導かれたのは何とペンギンが沢山いる場所で「ボルダーズ・ビーチ」という。
4年ほど前に突然そこに住み着き始めたらしく、種類は「ジャッカス」といって、背丈は30cmほど。両手をちょっと後ろにそらせて波打ち際をペタペタと歩く姿は非常に可愛らしく、連れて帰りたくなってしまった。
ペンギンの方から足元まで歩いて来て、「こんにちは」と私を見上げてくる。触ってはいけないので、じっとしているが、そこを離れる時は後ろ髪が引かれた。
🐧🐧🐧この仏頂面も崩壊しっぱなし・・・

ジャッカス・ペンギン

後記:2013年に南アを3回目に訪問した際には柵ができていました。東洋人がペンギンに触ることが多発したためのようです。因みに日本人ではないそうです。

🛏 ケープタウン連泊

7日目 5月5日
ヨーロッパ風の建築物が多く残るステンレンボッシュの観光へ

1679年に設立された南アで2番目に古い町で建築、歴史、景観の宝庫で重要文化財もたくさんある。
また、ワインの製造が盛んで130以上のワイナリーを有し、ステレンボッシュはワインの代名詞とも言われる。
ワイナリーにも立ち寄って試飲をしたりしたが、お酒に全く興味のない身には説明を聞いても右から左で、何をしに行ったんだか。

ケープタウンは古い建物をほとんど壊して新しく建て直したために街としては一番古いにもかかわらず、貴重な建物が残っていない。今では大変後悔しているそうで、当たり前だ。

そこから、ケープタウンへ帰る途中、道路の左側に突然真四角で色とりどりの箱が整然と並んでいる様が目に入ってきた。すぐにソウェトわかった。
なんて、冗談を言っている場合ではなく、黒人居住区(ソウェト)だった。
それまで、ヨーロッパ調や現代風の建物ばかり見てきたので特に目立ったのである。
実際は地方からケープタウンへ出稼ぎに来ている人達の家で、屋根はもちろん、壁までトタンでできていて、夏はさぞや暑かろう。
バスはかなり早いスピード(多分、100kmくらい)で走っており、その地区を通り過ぎるまで約15分間ほどだったと思う。
それが、終わるとパタッと洋風の素敵な家々が並ぶ地域へと変わった。

夕べ、カラオケに行った同室のGさんによるとそこに来ていた日本人の船員さん達の話では白人とカラード(混血)の人達はマンデラ氏にあまり期待はしていないと言っていたそうだ。ふ~ん、そうかなあ?

🛏 ケープタウン連泊

8日目 5月6日
✈ 09:00 発 ケープタウン: 南アフリカ航空
  10:50 着 ヨハネスブルク

ヨハネスブルクの空港でまた、「ガマクラブ」の一行と再会。
地元の新聞にも載ったし、親善試合も盛大に行われたとの事。
良かった、良かった。

✈ 12:45 発 ヨハネスブルク:南アフリカ航空

いざ、香港まで約14時間の勝負である。
マダガスカルの上空を飛んでいる時におトイレに行きたくなり、空いていた一番後ろまで歩こうとしたら、ハリャ?男の人が床の上に倒れているではないか。
スチュワードとスチュワーデス(当時はCAとは言わなかった)が酸素ボンベを持ってきて懸命に手当てをしている。
気にはなったが、多分うちのグループではないだろうと反対側の通路に渡って、用事を済ませて、席に戻った。
Mさんの奥さんが「Wさんよ」と言ったので、ぶったまげてしまった。
我々の添乗員のWさんである。すぐさま近づいてよく見るとまだ真っ青な顔をして倒れたままであった。Tさんが手荷物の中から聴診器を取り出して診てくださるとの事で席に戻った。我々をやっと帰りの便に乗せたものだから、ホッとして脳貧血を起こしたのだろうとのこと。
彼は旅行中、本当に細かい点まで気が付き、良くしてくれたし、この仕事が好きでたまらないという印象を受けた。
その間、約30分ほど、やっと立ち上がって話もできるようになり、ビジネスクラスの方で休ませてもらう事になった。

9日目 5月7日
  08:00 着 香港

✈ 10:00 発 香港:キャセイパシフィック航空
  14:55 着 成田

成田でターンテーブルの所でスーツケースが出てくるのを待っていたら、去年の秋にチベットへ行った時の添乗員さんのSさんが声をかけて下さった。パプア・ニューギニアから帰国したのだそうだ。

先に訪問をしたジンバブエでは皆さんの表情が穏やかだったのに比べて南アの人々のそれは硬かったように思うのは私だけではないはずです。
私ごときがエラそうなことを言える立場にはありませんが、この国の不幸な時代を教訓にして自分の生まれた国の為に皆が力を合わせて前へ進んでいってほしいと思います。

後記:ネルソン・マンデラ氏は大統領就任時には既に高齢であったために任期は一年で終えました。その間に人種融和政策に取り組み、すべての人間の尊厳に対する不可侵の権利が保障された平和的な「虹の国」という国づくりを推し進めました。
2013年6月に95歳で永眠。

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