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釜山(倭城)

(42番)  2019年   3月
 
7回目の韓国へ行ってきました。
今回は「秀吉の栄光と挫折」という、主に「文禄・慶長の役」がテーマのマニアックな旅です。
私は秀吉の朝鮮出兵は知っていましたが、釜山近辺に30もの城を建てたことなどちっとも知らずに、パンフレットでこのツアーの募集を見た時に頭の上に「💡!」がつきました。今回はその城址の見学です。

釜山は何と36年ぶりの訪問で、飛行機の上から見たニョキニョキとそびえ立つ高層マンション群に、「発展したなあ・・・」とつくづく思いました。
その時に見たもので覚えているのは、龍頭山公園にある李舜臣の銅像が日本を睨み付けていたことくらいです。
参加者は男性9名、女性3名の計12名でした。
 
{文禄の役}
天下統一を果たした豊臣秀吉の次のターゲットは明国でした。これは織田信長の野望でもあり、当時イエズス会の宣教師であったルイス・フロイスも記録に残しています。
朝鮮に対して日本への服属と明攻めの先導をすることを求めたが、期日になっても回答がなかったため、まずは朝鮮を攻めることになりました。
 
1592年(文禄元年)日本の名だたる武将たち(加藤清正、石田三成、藤堂高虎、福島正則、小西行長、上杉景勝、伊達政宗など)の軍勢が朝鮮に渡りました。
当初の快進撃は凄まじく、釜山上陸からわずか20日間で朝鮮の都であった漢城(ソウル)を占拠しました。これに狂喜乱舞した秀吉は甥の関白秀次に「天竺(インド)まで兵を進めよ」と命じたほどです。
連戦連勝続きの日本軍でしたが、明からの援軍到来、李舜臣率いる水軍の奇襲および義兵の蜂起により戦局は傾いていきます。
一進一退の攻防を繰り広げた末、遂に明との講和交渉を始めました。
その一方で朝鮮半島の南部の支配、日本との補給連絡線の確保、李舜臣率いる水軍の奇襲に備え、朝鮮半島南岸に多くの城を築きました。
 
{慶長の役}
1597年(慶長二年)、日本と明との間で行われていた講和交渉は決裂し、再び戦いが始まりました。この時、日本軍は新たに数か所で城を築き、朝鮮半島南部を着実に支配していきました。
ところが、秀吉の突然の死によって全軍の撤退が決定し、明征服どころか、朝鮮を手にすることも叶わぬまま終戦を迎えることになったのです。
この戦いの結果、豊臣政権内に大きな亀裂が生まれました。この亀裂がやがて関ヶ原の戦いへと繋がっていくこととなるのです。
 
文禄・慶長の役の際、日本軍が朝鮮半島南部に築いた城が倭城です。
 
1日目 3月1日
✈ 12:45 発 成田 大韓航空 (A220)
  15:10 着 釜山
 
早速観光へ出発。
 
①  熊川倭城 くまかわ わじょう(空港から西へ車で約40分の所の昌原市にある)
1592年に築城名人であった加藤清正が築き、1593年から小西行長が在陣した長大な登り石坂を持つ山城です。
標高184mの南山の頂上に本丸の天守閣を置き、山麓に沿って二の丸、三の丸が整然と配置されました。城壁の高さは3~8mに達したが、現在は高さ2m、長さが800mほどの城壁が残っています。
 
いきなり、急な上り坂で「ち、ちょい、 ま て よ」とキムタクのセリフが頭をよぎりました。別の言い方をすれば、ダチョウ倶楽部の「聞いてないよ~」です。
後記:今となってはダサい(当時でも古かったか・・・)ですが消さずにそのまま残します。
 
皆さん、すたこらサッサと登って行かれるので私も覚悟を決めてついて行きました。
城壁が見えてくると講師の先生が説明をしてくれるのですが、チンプンカンプン・・・
はあ?「ますがた?こぐち?たてぼり?くるわ?」
一番びっくりしたのは、等高線しか描かれていない地図を見ながら自分が今いる場所を一人一人が確認することです。最初皆何をしているのだろうと思いましたね。
どうもこういうツアーに参加をする人たちは既に日本100名城を制覇済みとか、よく登山等をしているようです。のっけから私は不釣り合いだったわけで・・・

熊川倭城

釜山へ戻り夕食: 海鮮鍋
 
🏩 朝鮮時代の王宮をイメージして建てられた素敵なホテルへ。
 
2日目 3月2日
②  順天倭城 じゅんてん わじょう(釜山から西へ車で約2時間半)
1598年、ここに駐留した小西行長軍(13,000余名)と朝・明連合軍との激しい攻防戦が繰り広げられた城址です。
秀吉の死後、小西行長軍が日本に撤退する際、救援に向かった日本水軍と露梁海峡で行った露梁海戦で李舜臣は日本軍を追跡中に流れ弾に当たって壮絶な戦死を遂げました。
小西行長はその間隙を縫って脱出に成功し、7年間の文禄・慶長の役が終わることとなりました。
 
日本のお城の雰囲気が残る城壁が綺麗に再現されていました。
講師が「ああ、その辺りは小西行長の足跡が残っているので、皆さん、踏まないように!」ですと。

順天倭城

昼食: 石焼ビビンバ
 
③  洒川船津里倭城 そせんふなつり わじょう (洒川市にある)
リアス式海岸の一角を構成する小山に構築された平山城で三方に海岸線を配する小半島の突端部であり、攻めるには堅く、守るに易い地形でした。
「洒川沖海戦」が繰り広げられたお城で、日本軍はここで李舜臣の亀甲船部隊に負けたのです。
私は韓国の歴史上の人物で李舜臣が一番好きです。兎に角カッコいいです。
 りっぱな「朝・明連合軍戦没慰霊碑」が建てられていました。

④  晋州城(韓国のお城)しんしゅうじょう
元々は14世紀末期に外敵の侵入を防ぐための石造りの城として築かれたお城です。
2度に渡って壮絶な戦いがあった場所で、南江を臨む楼閣をはじめ、義岩などの史跡や国立晋州博物館などがあります。
 
晋州城の攻防戦にまつわる人物として語り継がれているのが、当時妓生であったノンゲです。城が日本軍に陥落した際、日本の将校を道連れに義岩から南江に投身しました。
現地では英雄視されていて、ノンゲを祀った祠も建てられています。
 
釜山へ戻り夕食:カルビ
 
🏩 同じホテルで連泊
 
3日目 3月3日
⑤  蔚山倭城 うるさん わじょう (釜山から東北方面へ車で約1時間半)
ここも加藤清正が築いたお城で、頂上に本丸、西側には二ノ丸と三の丸が配されていました。当時の城壁の長さは1,300mで、高さは10~15m。
現在は城壁と登り石垣と船入址の遺構が比較的よく残っています。
1597年と1598年に加藤清正らと朝・明連合軍とのすさまじい攻防戦が繰り広げられた場所です。
 
草深い奥の方へ入って行こうにも自分の背丈以上の茨の木がじゃまをして進めない場所があって、苦難に満ちた人生の事を「いばらの道」とはよく言ったもんだと変な所で感心しました。
 
⑥  西生浦倭城 せいせいほ わじょう(釜山と蔚山との境にある)
こちらも加藤清正が築城しました。
韓国に残っている倭城のうち、お城の規模が一番大きく保存状態も優れたお山城です。と同時に戦国時代に発展した築城技術において、貴重な遺跡となっています。
標高200mの山頂に本丸、山の山腹に二の丸、山の麓に三の丸がありました。
城壁の高さは6mで、傾斜は15度程度の頂上から麓まで長く伸びる長方形のお城でした。
天守閣がある本丸の辺りには桜の木も多く植えられていて、これからがシーズンのようです。
頂上からは海がよく見えて、タンカーがたくさん停まっていました。
あまりにも多かったので、一瞬、亀甲船に見えてしまいました・・・

西生蒲倭城

空港へ
 
✈ 16:20 発 釜山 大韓航空 (A220)
  18:30 着 成田
 
旅行中、一点気になったのが、団体写真を撮って希望者に後から送付をするという事です。
送料はこちらの負担だし何だかおかしいです。この旅行会社の他の一般的なツアーはそういった事は元々していないが、こういう特殊なコースだとそういう事はするのだろうか。
個人情報保護法が発布されて旅行会社全般で団体写真を止めたのに、時代遅れかなと。もちろん、自分は入らなかったですが。

こちらを訪問した後で韓流ドラマを見る機会が増えて、特に朝鮮王朝ものにはまっております。

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