見出し画像

また、あの貧しい春が巡ってきた。

世間では、今日が入学式のようで、近所の小学校の親御さんが真新しいランドセルを背負った子供を連れて店の前を歩いて行きます。

私のような楽器屋には特に目もくれずに歩いていきます。私の店のある地域は少子化が進んでいるためか、心なしか入学式の方らしき人の数はそれほど多くはありません。それでも、これから何か新しい生活が始まるわけで、春というのはなんだか不安とウキウキが混ざったような気持ちがします。

昨日は、店が始まる前に家族で近所の桜を見てきました。今年は開花が遅かったけれど、やはり満開の桜は新しい季節の到来を見届けているような気持ちになります。私は、この季節が一番好きです。

思えば今から十数年前、2月ごろに無職になってしまった私は東京都世田谷区の千歳烏山にあるボロアパートで春を迎えておりました。
少しづつ暖かくなる毎日の中で、何もやることがなく日がな一日ぼーっとしておりました。妻は働きに出てくれていて、私は家でぼーっとしているというのはなんとも心許ない日々です。

その頃、小田急線の登戸に高校時代からの友人が住んでおりましたので、毎週水曜日の彼が休みの日に色々と連れて行ってもらいました。神田に藪蕎麦を食べに行き、その量の少なさに空腹をおぼえ、同じく神田のまつやで蕎麦を食べなおしたり、横須賀までドライブに行き遊覧船に乗っていると、軍艦に妙に詳しい女性が私たちにそれぞれの船の名前を教えてくれたので、「おねえさん、只者ではないですね」というと「あんたたちこそ、こんな平日の昼間っからぶらぶらしてて只モンではないね」と言われたり、男2人で鎌倉見物に行ったり、仙川のキャバクラに連れて行ってもらったり。色々なことをしながら無職の日々を過ごしておりました。

私は、彼が休みの日以外はやることがなく、金もなかったため、仕方なく自宅のボロアパートの周りを散歩したり、世田谷区民プールに垢を流しに行ったりしておりました。(プールにはシャワーやスパがあるのです)

あるときは、ごみ収集所のゴミが散らばっていたので、片付けるでもなくゴミを見つめておりました。ボロアパートのゴミはコンビニ弁当と炭酸飲料の500mlのペットボトルだらけでした。
同じく、近所にあった高級マンションのゴミ捨て場も近くにありましたので、そっちのゴミもカラスに荒らされており、ちょっと見ておりますと、そちらはスーパーマーケットで売られている肉のトレイやら、牛乳パックが入っておりました。

ああ、金持ちも貧乏人もみんな生活しているんだ。と思いながらも、ゴミについて考えておりました。貧富の差でゴミの内容は変わるもんだなあ、などとどうでもいいことを考えておりましたが、貧しい我々は、コンビニで日々のご飯を間に合わせているのに対し、裕福な方々はきちんと毎日料理をしているようです。
飲み物も、貧しい私たちは、コカコーラやらそういった炭酸飲料を飲んだりしておりますが、豊かな方々は牛乳やら、お茶を出したりして飲んでいるのでしょうか。

どうでもいいようなことを考えながら、私はそこに自分の生活を見たような気がしました。かく言う私も、その日のお昼ご飯はコンビニ弁当で済ませました。

私の部屋は、その当時から整頓というのをされたことがなく、書籍が至る所に積み上げられております。今住んでいる家でも同じように書籍が堆く積み重なっております。その、ゴミを見た日、私は貧しいということの本質を見た気がしました。そして、その貧しいとは「貧困」とか経済的な貧しさとも少し異なり、生活の貧しさなのだと思いました。

今でも、整頓できていない自室や書斎にいると、その貧しさから抜け出せていないどころか、その貧しさの只中にいる自分を見つけます。

どうでもいいことを書いてしまいましたが、春が来ると、あの年のお金がなくて、仕事がなかった、虚しい春を思い出します。あの頃はまだギリギリ20代で、あれも青春の延長線上にあったのかと懐かしく思えます。けれども、40代に入った自分を見ていると、あの春から何も変わっていないような気持ちになります。

無職の私、コンビニ弁当と、500mlのペットボトルと、片付いていない部屋。そして、そんなことにはお構いなしに咲き乱れる桜。

この記事が参加している募集

新生活をたのしく

みんなでつくる春アルバム

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?