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接待友人



「接待」というほかない友人がいる。

友人の行きたい場所へ行き、話したそうな話を聞き、相槌を打ち、慰め、励まし、5時間ほど話して、また遊ぼうねと約束をするような、友人だ。

もしかすると、友人は自分に対して面倒くさいなと思っているかもしれない。遊ぶ場所も話す話題も相手が決めているから。だのに友人は自分と相思相愛だと思っており、悩みがあればすぐ相談してくれる。どうして好かれているのか分からない。



友人とは、なにを指す言葉なのだろうか。別の人たちと雑談をしてみて、「相互に関心があること」だと思った。

友人なら、多少なりとも相互に関心がある。学生なら「テストで良い点取れたかな」や、社会人なら「仕事は上手くいっているかな」「趣味は続けているかな」などだ。相手の事柄に関心があり、それを質問し合うことでコミュニケーションが生まれる。関心がなくとも、自分の事柄を話して(共感してもらい、)気持ちよくなるお返しに相手の事柄を聴くのは、仕事関係などの薄いコミュニケーションでもあると思う。


自分の友人には、そういうものが薄い。

それは、友人が友人自身のことで精一杯であるという要素があるのだと思う。相手の事柄に目を向ける余裕がなかったり、目を向けても過去のトラウマから自分が傷ついたりしてしまう。

こういう人の傷つきは深刻だ。例えば、母親が優しくて嬉しかったなどの話を聞いたときに、「私の母親は優しくなかった。ずるい、うらめしい」「私は誰からも優しくされてこなかった。羨ましい、惨めだ」など、こういうような反応をすることがある。相手のポジティブな話が、その人にとっては何よりの攻撃に聞こえてしまうのだ。


自分の関心が強いから、相手に質問をしない。相手への興味より自分をトラウマから守る(=傷つかないようにする)ことに精一杯だから、相互に関心が生まれない。相互に関心が生まれないのは、友人と呼べるのだろうか。


まあ、自分自身のことに精一杯なのは友人のせいではなく、家庭環境や生育歴によるものであるから、友人を責めるのは間違っている。自分としても、精一杯頑張っている友人に「自分の話も聞いて!」と押し付けたくはない。

ただ、「接待」が連続すると疲れる。そりゃそうだ、一挙一動に注目して相手の顔色を伺いつつ、楽しそうに振る舞わなくてはならないのだから。


今日は、連続した接待の疲れに加えて、周りの軽く放ってきたちくちく言葉に自分のトラウマが反応して、ものすごく疲れた。

泣いてすっきりしたい21時16分。自室はない。

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