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穏やかであることはカッコ良い。

手塚治虫の漫画、ブッタを読んだ。
私がまだ、小学生の頃、学校の図書室に手塚治虫の漫画があったのを覚えてる。火の鳥とか、、。

でも、当時は、読めなかった。なんか、古臭いし、難しいし、文字も多いし、チラチラ読んでも面白いと思えなかった。当時の年齢で、面白いと思って読めた奴は頭良いんだろうなと思う。

そして、最近手塚漫画を読んでみて、ようやく面白いと思えるようになったんです!

火の鳥は、友人に勧められた未来編しか読んでないけど、kindle Unlimitedで読める一巻無料の手塚漫画を読みまくり、こんなに沢山の漫画を描いていたんだと驚いたし、続きを読みたいと思った。

特に読みたいと思ったのはブッタ。全14巻だったが、全てアマゾンで買ってしまった。14巻は読みごたえがあったけど、結果、スラスラ読めちゃいました。

ようやく、私も手塚漫画を読めるほど成長したか!と思い嬉しくなりましたが、ブッタはなんと少年向けに書かれた漫画とのことで、ようやく小学生レベルになれたのか、、と思うと少し残念ですね。

そして、ブッタの何が面白かったかというと、お釈迦様って聞くと難しいお経とか概念のイメージでとっつきにくいけど、シッダルタという一人の人間としての生涯を知れたのが興味深かった。また、シッダルタに対する見方も少し変わった。

たとえば、シッダルタは王族として生まれたのに、ぜいたくな身分を捨ててまで出家をした、すごく立派な方だなと思っていました。
でも、一国の王様としての責任も重いわけで、嫁、周りの側近、国民から、国を任される責任から解放されたいという気持ちもあったかもしれないし、一概に出家という決断が尊敬できるものかとも思いました。

しかし、私が伝えたいのは、シッダルタの教えが素晴らしいとか、立派であるとかではないんです。

シッダルタが、カッコ良かったということ。

この漫画でどこを一番見たいかと言われると、やはり、シッダルタが悟るシーンでしょう。どのように修行し、悩み、考え、自分としての悟りに至るのか。そして、悟るきっかけがどのように描かれているのかが一番みたいじゃないですか。

まさに、そのシッダルタが悟るシーンですが、そこが、すごくカッコ良かった。何が良いかというと、ただただ穏やかに瞑想している姿がカッコいい。それだけ。

この、シッダルタが悟るシーンですか、まず、身長2mは超えるであろう大男について話さなければなりません。その男は奴隷階級の生まれで、母親は、貴族階級の武士が乗っている象さんに踏みつぶされて死にました(王級内の乗り物は馬のほかに象もいるんですね)。
ただ、奴隷が一人死んでしまっても、誰も気にとめない。貴族には、罪も罰もないわけです。

そんな、死んでしまった母親ですが、子どもには奴隷であっても強く育てたいという思いで、プロテインを幼い子ころから飲ませ、トレーニングをさせ、結果、巨体を持った大男になったわけです。

そんな、大男が大人になった時、同じ奴隷階級の年上の女性と出会います。そして、その女性を、亡くした母親のように思っていました。

しかし、悲劇はまた起こります。奴隷階級の人達が暮らしている小屋で、感染症が起こります。不衛生だったのでしょう。

国の人は、奴隷小屋から、病気が町に広がらないように、その小屋に火をつけます。その小屋の中に、大男が大切にしている母親代わりの女性も暮らしているわけですね。

そうなると、大男も、第二の母親を失ってはならないと、燃え盛る奴隷小屋から、その女性を助けだし、国の外に逃亡します。

なんとか、国から遠くまで来た森の中で、夜も暗くなり、二人で一夜を過ごすことになるのですが、母親代わりの女性も体が弱っており、夜が明けるころには、ついに死んでしまいます。

大男としては、悲しくて悲しくて仕方がないわけです。二度も大切な人を失った。どうして、自分がこんな目に合わなければならないのかと、絶望し、自分の身分、人生を憎みます。

大男は、一層のこと死んでしまおうかと、近くの川に飛び込むが、死ねない。怒り、悲しみ、絶望、全てを背負い発狂し、そんな大男の心を反映するかのように、雨雲が空を覆い、雷が鳴り響き、空に向かって「俺を貫いて殺せ!」と叫び、それでも死ねず、どうしていいかわからず、発狂しながらも、無我夢中で川を渡りきって、前をみて、視界に入るのはなんと、目を閉じて、菩提樹の下で、穏やかに瞑想するブッタ様なのです。

このブッタ様が、なんともカッコいい。今までの、発狂している心模様との対比もありますが、静かに、穏やかな表情で瞑想している姿が、カッコいいんですよ。

ブッタ様は、目の前に誰かがいるのは気づいているのですが、誰がいるかは、わからない。そこで、「そこにいるのは誰か、神ならば話をしてほしい、悪魔ならばここから去れと」神々しい言葉を放ちます。

大男は持ち前の剛力を活かして、菩提樹の木の枝をブチ折り、折れた部分をブッタ様に突きつけ、質問します。「答えろ、なぜ、俺だけがこの世で一番不幸なんだ。なぜ、この世には幸せな人と、不幸せな人がいるんだ」と。

ブッタ様は答えます。そもそも、みんな不幸であると。幸せな人間なんか、この世の中にはいないんだと。他の人を具体的に一人一人考えてみろというわけです。それでも、本当に自分以外の人は幸せなのかと。

例えば、大男が母親代わりに大切にしていた女性は、燃える奴隷小屋から救いだしてもらって、少なからず看取られて死んでいった。でも、そのほかの奴隷たちは、炎に包まれ苦しみながら死んでいった。その人達も不幸じゃないのか?と問うんですね。その言葉に、大男も納得し、あなたの弟子になりたいとお願いします。

そして、この言葉は、私の胸にも刺さりました。

ここからは、私の気づきですが、世の中は、生きているだけで、生きるという責任があって、責任がある人生は、全て辛い。
どんな人だって生きているわけですから、苦しみに目を向けたら、誰だって不幸です。自分だけが不幸などと思ってはいけない。

そう思うと、幸せだとか、不幸とか考えている自分が情けなくなってくる。
辛いことを不幸、楽なことを幸せと考えたら大間違いですね。
辛かろうが、上手くいってなかろうが、幸せだとするほうが良い。

自分が不幸だと思う人は、人から与えられることを考えている。人が与えてくれるから、もっと欲しがり、充たされず不幸だと感じる。
しかし、自分で自分を幸せにできたら、上手くいこうがいきまいが、幸せだと言える。

と、私の悟りなど、どうでも良いのですが、とにかく、何が言いたいのかというと、穏やかなブッタ様が、すごくかっこいい!!

あの、涼しげでさわやかな表情。私も、日々穏やかに生きていたいですね。

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