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【短編小説】蒼の踊り子〈前編〉


浅草ロック座、雨の夜。
静かであまり人が居ないなら、
アンナはトップレスになって踊った。

舞台の真ん中、背後から
大きなミラーボールに照らされた
彼女の裸体の曲線はまるで
雨粒を乗せた紫陽花の葉脈が
今にも弾け落ちそうなその重みに
静かな力を指先に込めながら
なんとか堪えているかのような
しなやかで危うい線だった。

客が多く集まる舞台になれば
彼女はさっと蒼のショールを身に纏い
バストを隠し妖艶に踊った。

そうすれば男たちはみんな、
蒼の向こうを覗きたくて堪らないという
熱い視線を彼女に注いだ。

これがアンナの人気の秘密、
そしてアンナが生きる術でもあった。


生涯を通してずっと
息をするように踊っていたアンナは
プロのバレエダンサーを目指していた。

しかし18歳の頃に膝を痛め、
その夢はあっけなく散った。

生きる希望を失ったアンナにも
やはり生きるための幾ばくかの金が要り
気付けば夜のストリップの世界に
身を置くようになっていた。

『ここでなら、踊りながら生きていける』
浅草ロック座の舞台の上には
そんなアンナの新たな希望が満ち溢れていた。


初めて脱いだあの夜も、
浅草にはしとしと雨が降り注いでいた。
落ち着いたトーンの出囃子が鳴り、
いつもの通り舞台へ上がろうとする彼女の腕を
しびれを切らした支配人が掴んで止めた。
「アンナ、今夜は脱いでみないか?」
半ば強制ともとれる提案を支配人は放った。

「君の踊りは一級品だ。
そして体の線も本当に美しい。
間違いないと思うんだよ、俺は」

脱いだ者から売れていく。
そんな世界の条理に戸惑いながらも、
逃げ切れないと観念したアンナは
舞台に立ち始めてから半年、
ついにショールを脱ぎ捨てる覚悟をした。

「わかりました。やってみます」
そうひとこと返したアンナは姿勢を正し、
静かに舞台へと登っていった。

いつもより照明は暗かった。
アンナが纏ったロングのショールは
ひざ下まで伸びたシフォン生地で
音と共に指先を静かに天井へ伸ばすと
薄暗い照明が透け、人も疎らな客席を
水の奥底深くのような蒼に照らした。

アンナがついにショールに手をかけたとき
会場には一瞬熱がこもった。
蒼の衣は瞬きながら宙を舞い
仰け反って座っていた男たちは
とたんに前のめりになった。

彼らが生唾を飲むのが分かったとき、
アンナは心の底から震えた。

恐怖にも似たその高揚感は
客席から舞台上の自身一点に注がれる
恍惚と憧憬の視線のせいだった。


アンナはそれが、生涯かけても欲しかった。
真っ白なレオタードを纏ったアンナには
それがどうしても手にできなかった。

アンナはとうとうあの雨の夜、
舞台の上に自分の居場所を見つけた。


拍手に見送られ、この上ない興奮と安堵を
舞台の上から持ち帰ったアンナに向かって
支配人が拍手をしながら近づいてきた。

「アンナ、よくやった。
客たちはすっかりお前に夢中だったぞ」

ふと我に返ったアンナは
胸の前でショールをぎゅっと閉ざして
舞台の上を振り返り
先ほどまでの自身の果断さを思い、
一瞬たじろいだ。

「ほら、一番後ろのあの客なんて
あんぐり開いた口が塞がらなくなってたよ」

クスクスと肩で笑う支配人が
舞台袖から指さしている
客席の後ろの方をアンナは覗いてみた。
スーツを着たサラリーマン風の若い男が
そわそわしながらちょうど席を
立とうとしているところだった。

「さてアンナ、これからだぞ」
ショール越しにアンナの肩を
ポンポンと叩いた支配人は
腕を組み、満足げに頷きながら
袖の方へ消えていった。


夜の公演がすべて終わると、
アンナはそわそわと衣装を脱ぎ
普段着に着替えた。
通用口のドアを押し開け外に出ると
やはり雨は降り続いていて、
開けていたパーカーのジッパーを
一番上まで締め直して傘を差した。

一定のリズムで落とされる
雨音に合わせて2、3歩進み出したとき
ずぶ濡れの一人の男が前方から
小走りでアンナの方へ向かってきた。
アンナは少し後ずさりし
とっさに上体を男から背けた。

上がった息を肩で抑えながら
胸に花束を抱えた男は
アンナの目を真っ直ぐに見つめている。
どこか見覚えのあったその男は
先ほどまでアンナの舞台を見ていた
若いスーツのあの男だった。

「あ、あの…
き…今日の舞台、とても素敵でした。
すごく、もう、本当に綺麗で…
良ければ受け取って頂きたいです」

そう言って少し強引に
胸元に突き出された花束は
青と白の入り混じった
紫陽花の大きな花束だった。

男からそれを受け取ったとき
胸の底からアンナは熱く
こみ上げてくるものを感じた。

「ありがとうございます」
アンナは姿勢を正し足先を揃え
丁寧に彼へお辞儀をした。

アンナの表情を見た彼は
安堵の表情を浮かべた。

「良かった。今夜伝えられて。
また、何度でも逢いに来ます」

そう言って微笑んだ彼の目尻には
五月の夜の雨粒がとめどなく滴っていた。

アンナにはそれが
なんだかとても苦しそうで、
それでもすごく幸せそうに見えた。


思えばその夜が、アンナの蒼き後悔の
プロローグだったのかもしれない。

⦅続⦆

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