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旅に出る理由

桜の季節はすでに遠く、ツツジの花もあらかたが散り、今はあちこちでまだ若い葉を控えめに伸ばした紫陽花の蕾がわずかに膨らんでいます。これから雨の季節になれば、この蕾もいっせいにひらきはじめるのでしょう。

梅雨間際の心地よい空気に誘われたのか、ふと旅に出たくなりました。のんびりと寝袋とテントを持って初夏の東北を回ってみようと思ったのです。

思えば大人になってから、時間を見つけて日本のあちこちに出かけてはいたものの、飛行機や新幹線を使ってばかりで、ゆっくりと時間をかけて旅をすることからは遠ざかっていました。

ただ、ゆっくり時間をかけて旅をする。それだけが最初に思いついたことでした。

辺境へ出かけてゆくひと、山の奥深くへ分け入ってゆくひと、リゾート地でバカンスをするひと。旅の形はさまざまですが、私にとっての旅はもっとずっと気楽なものです。

民俗学者、宮本常一さんの『民俗学の旅』という本には次のようなエピソードが書かれています。

 父はよく一人旅をした。秋が多かった、秋ばれの空が澄んで海の向こうの中国地の山やまがくっきり見える夕方に、少し早めに仕事を終えて、家へ帰ってきて手足をあらい、母に他所ゆきの着物を出させ、古びた中折帽をかぶって、「ちょっと出てくるから」と、行き先も言わずに出ていくのである。三里ほど西の久賀へ中国航路の船がつく。下りは午後八時か九時頃、のぼりは夜中の二時か三時ごろである。その船に乗って島をはなれる。
 西の方へ下って行ったときには宮崎県まで行ったことがあり、東の方へいったときには日光までいったことがある。いつ頃からそういう旅を始めたかは知らないが、私が十歳になった頃には一年に一度か二度そのようにして旅をしていた。大ぜいの仲間と団体を組んでいくことは少なく、旅の計画をそのまえに誰にも話すことがなかったから、全くその場で思いついて出て行ったのだろう。

山口県周防大島の貧しい家だった宮本家を支えた父、善十朗は村の綿屋への奉公、塩の行商、紺屋への奉公など様々な職業を経験した後に、オーストラリアのフィジー島へ出稼ぎに行きますが、それも現地の風土病が原因で引き上げてきます。とにかくそれほどまでに苦労をして家族を支えた父が「ちょっと出てくるから」と出かけてゆく。

しかしそれは息抜きとか現実からの一時的な逃避行という類のものではなかったように思うのです。あらかじめ生活の中にこうした旅が組み込まれている、そのような生き方だったのではないでしょうか。そのことがよく現れているのが上に続くつぎの文です。

 しかしこれは父一人の性癖ではなかったらしい。村人全体にそんな気風があったのである。一日の仕事を終えて戻ってきて夕飯までの一ときを男たちは家の裏の海に面した石垣の上に上って海を見る。どの家の男もそうしている。男たちは互いに声をかけあって話す。かなりはなれていても静かだから声はよくきこえる。
 そんなとき男たちの意見が一致して小さな漁船に乗って沖へ漕ぎ出していったことがある。夕飯時になっても亭主の姿が見えぬ。隣家へいってみるとそこでも亭主がいなくなっている。そういう家が四、五件あって、どうしたのだろうとさわぎになったが、船で沖に漕ぎ出しているのを見た人があったので、「さては月はあるし、海が凪いでいるので、宮島へでも参ったのであろう」と話し合った。ところが翌日になっても翌々日になっても帰ってこない。そろそろまた心配していると一週間あまりして帰ってきた。聞けば、海は凪いでいるし、夜はよい月夜のはずだから宮島へ参ろうということになって家族の者には内緒で船を漕ぎ出した。さて宮島へ参ると、折角ここまで来たのだから広島へゆこうということになり、広島までいくと出雲へ参ろうと話がきまって、とうとう出雲大社まで参ってきたのである。

宮本さんのお父さんの「ちょっと出てくるから」という言葉や、村の人たちの夕飯前の一ときの、ふいの気まぐれから旅が始まる。私にとっての旅とはまさしく、このようなものです。

今回は自宅のある埼玉県南部から東北まで約一週間の旅です。自転車や徒歩での旅も魅力的だったのですが、一週間という時間のなかで東北まで行って帰ってくるということを考えて、時速三〇キロが上限の五〇CCバイクで旅をすることに決めました。

そうと決まれば準備です。準備といってもそれほど多くの荷物は必要としません。テントと寝袋のほかにはいつも山に持っていくガス缶とガス口、それに小さな鍋、ヘッドライトやエアマット、着替え、洗面具。持っていくものはそのくらいです。時期的に暑さにも寒さにも備えたかったため、荷物には衣類が多くなりましたが、圧縮袋に詰めてギュッと小さくしました。

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不思議なもので荷物を荷台に括り付け、バイクに跨ると旅に対する楽しみな気持ちと、少し不安な気持ちが湧いてきます。埼玉県南部のこの街から、本当に五〇CCのバイクに乗って東北まで行くのだ、私は誰にともなく胸のうちで「ちょっと出てくるから」とつぶやきました。

鍵を差し込んでセルを押すと五〇CC特有の軽快な音でエンジンが回り始めます。ホンダ、スーパーカブ。誰もが知る、日本を代表する原動機付自転車です。

本当なら旅立ちは朝早くがよかったのですが、午前中に用事があり、走り出したのは十時半を回っていました。一二二号線から十七号線に出て、まずは群馬県に向かいます。東北に入るなら四号線を北上して福島に向かってもよかったのですが、カブで交通量の多い四号線を走り続けるのは避けたかったため、今回は一度新潟に出て山形から東北に入ることにしました。

走り始めは良い天気だった空も、しばらくすると雲行きがあやしくなって来ました。うどん屋さんで昼食を食べて外に出ると、すっかり雨模様です。カッパを着て走り出すと小降りに見えた雨も、時速三〇キロ分勢いを増して感じられます。

午後六時、高崎市に着くころには雨が上がり、薄曇りの空の下を快適に走ることができました。矢作川の河畔に公園を見つけて休憩をとると、自分で思っていたよりも疲れていたようです。ベンチに腰を下ろす直前に足がもつれてしまいました。先が長いためか、ついつい走り続けてしまいます。もっとこまめに休憩をとるようにしなければと思い直しました。

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河川敷のグラウンドで野球の練習をする少年たちを見ながら、東屋の下でテルモスに入れた温かいお茶を飲みます。少年たちは監督のやや乱暴な怒声を浴びながら、一生懸命に走り回っています。その怒声があまりに強い言葉なので、少年たちは大丈夫なのだろうかといらぬ心配をしてしまいました。

このあとの天気を確認すると、夜は大雨になるとのことで、出発して早々先行きが危ぶまれます。雲の速度とカブの速度を考慮した結果、今日は前橋市まで走り、テントを張るのはあきらめて市内に一泊することにしました。

休憩を終えて出発すると間もなく日が暮れてきました。すっかり暗くなると視覚からの情報が減ったせいなのか、五〇CCのエンジンの音だけが耳に大きく響いてきます。夜、こうしてバイクで走っていると、普段の生活よりも闇を根源的に感じるような気がします。まだ周りは都会の明かりで満ちているのに、自分が進んでいく空間に日の光がないことで、こんなにも夜という時間が深みを増すのですね。

そういえば子どものころ、故郷の田舎町では夕方から夜への変わり目にいくつもの変化があって、学校からの帰り道など私はランドセルを背負っているのも忘れて、ああ、夜になるのだ、とその変化を一心に眺めたものでした。日の光が遠くなりだすと、鳥や虫の声、草の葉のそよぎ。そうしたもののすべてが、なにか夜に向かう時間の中で同じ変化を感じとっているように思われるのでした。

それは会社から出るといつのまにか夜になっていて、夏の日には深夜でも鳴き止まない蝉がいる都会での生活とは根源的に異質なものでした。

もしかしたらこの旅で、あの頃のような漸次的な夜への段階をふたたび体験することができるかもしれない。分厚い雲におおわれ、今にも雨が降り出しそうな夜空の下、私は不思議に懐かしい友人に会いにいくときのようにわくわくしていました。

いま今夜の宿に着きました。外では雨が降り出したようです。なんとか降り出す前に切り上げることができました。一日目の走行距離は一一六キロ。まだまだ目指す東北は彼方です。それではまた書きます。

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