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差別について思うこと。

差別には社会の中の差別と個人の意識としての差別があると思います。
今の自分の差別に対する考え方について、書いてみようという話です。

私が自分の人生を自分の価値観で生きながら勝手に考えてきたことなので、全てが正しいとは全くもって思いません。
ですが、現時点での私の考え方の記録という意味も込めて、今思っていることを書いておけばあるいは数年後に見返したとき、アップデートされていることに気づくかも知れません。
そうなっているといいなと思うし、そうありたいと思います。

社会の中の差別とは、法律のように制度やしくみとして存在する差別のことです。
個人の意識としての差別は、ひとりひとりの心の中にある差別意識のことです。

私の知る限りでは、社会制度的な差別をなくそうという動きは随分前からあるものです。
そもそも、そのような制度やしくみの起源は、それらが作られた時代の人々の中にあった潜在的な差別意識が顕在化したものだったのではないでしょうか。
差別することを原理あるいは目的として作られたものは、それがはっきりとわかる場合が多いのではないかと思います。
差別されるのはおかしいと思った人々が、これを訴え、それらのシステムの撤廃を求めることは必然ですし、全ての人が制度上対等に扱われるという本来あるべき形に近づこうとしているのは正しいことだと考えています。

さて、私がより厄介だと思っているのは、個人の意識としての差別の方です。
もし仮に、この世のあらゆる差別的な法律やシステムが今この一瞬にしてなくなったとしても、個人の中にある差別意識が同時に消えてなくなるなんてことはありません。
多くの場合、人は自分の差別意識に対して無自覚だからです。
もちろん自分が持つ差別意識を自覚し、それをなくそうと努力しながら、抗いながら生きようとしている人がいることも知っています。
ただ、この世の差別というのは一種類ではないので、ある特定の差別に対してはとても敏感な人が、他の差別に対しては無頓着であるというケースもあります。

無自覚な差別意識は、ふとした瞬間に出てくるものです。
たまたま立ち寄ったコンビニの店員さんが、全員男性だった、女性だった、レジに当たった店員さんが障がいのある人だった、外国人だった。
日常の中のある出来事をなんとも思わない人もいれば、自分にとって少し珍しい体験だと感じる人もいて、不快感を覚える人もいる。
「うわ、なんか嫌だ。」と思ったとしても、「いや、自分があまり見慣れないだけだ。何も問題ないじゃないか。」と思い直すことが、差別をなくすことの一歩なんじゃないでしょうか。

「私には差別意識なんてないし、今までに差別したことも、この先差別することもない。」
こんなことを言える人なんていないんじゃないでしょうか。
差別をなくすということは、ひとりひとりが自分の中に潜む差別意識と闘い続けることだと思うんです。
そして差別は、される側がどんなに声を上げても、する側の意識が変わらなければなくならないものだとも思います。

人は、ひとりひとり違って当たり前です。
そしてその違いは優劣をつけるためのものではありません。
差別をしないということは、その違いを見なかったことにすることではなく、認め尊重することであると思います。
金子みすゞさんの作品「私と小鳥と鈴と」から引用すると、「みんなちがって、みんないい。」なのです。
「みんなちがって、みんないい。」は「みんな一緒」とは違います。
違っていて、それを認め合い、対等であること。
それをいつも心に留めておきたいと思います。

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