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できればやりたくないことに対する心理的ハードルの高さについて

大抵のことは4つに分けられる。と思う。

やらなくてもよいが、やりたいこと。
やらなくてはならない、やりたいこと。
やらなくてはならないが、やりたくないこと。
やらなくてよいし、やりたくないこと。

あまり的を得ていないかも知れないが、なんとか言い換えてみると、
趣味。
天職。
面倒。
無駄。
みたいな感じだろうか。

人間、条件さえ整えばやりたいことは放っておいても勝手にやるものだ。だってやりたいんだもん。
やりたくないしやらなくてよいことは、やるだけ無駄なのでやらないと思う。
問題は、やりたくないけどやらなければならないこと。全くもって厄介で面倒である。

個人の場合(やれば終わる話)

個人の問題として考えた場合、(例えどんなにやりたくなかろうと)やらなくてはならない作業や仕事を如何に迅速に片付けられるかどうかは、本人のQOLや評価に直結すると思う。
やりたくない、やらなくてはならないタスクを抱えているストレス。ひとえに「やりたくない」という理由だけでそれを先送りにしてしまう人間だ、という劣等感や醜聞。なかなか耐え難いものがある(少なくとも私は)。
これについては、最も効果的で効率的な解決策が一つある。

「やれ」

面倒はとっとと片付けてしまおう。
そりゃ誰しも、「やりたくない」という感情を乗り越えられない状況に陥ることはあるだろう。そんなときは仕方がないので、気が変わるか期限が差し迫るまで放っておけばよい。
だが冷静な判断ができる状態にあるなら、早いところそのやりたくない何かを終わらせてしまうことが、最も手っ取り早くみんなが幸せになれる手段だということは明らかなはずだ。
そもそも、「やらなければならないこと」なわけである。「やりたい」とか「やりたくない」とかいった感想は誰も訊いちゃいない。そんな些末な(?)ことで先延ばしにしている時間があるなら、一時だけでもその感情を封印してさっさと手を付けるんだ。そして丸ごと滅してしまえ。

集団の場合(「誰かやってくれないかな」)

さて、集団となると問題はもう少しややこしくなる。
集団として「誰もがやりたくないがやらなくてはならないタスク」を抱えていた場合、そして全員ではなく誰か一人(もしくは数人)がそれをやればよい、という場合。それはすなわち、集団の構成員の中から犠牲を選ぶことを意味する。
リーダーが犠牲者を指名するケースは置いておいて、志願者を募るとなると、できればやりたくないことに対する心理的なハードルが低い者から順に犠牲になっていく。要するに、奉仕精神の高い者ということになるだろう。

ここからさらに踏み込んだ持論になるのだが、こうした場合の「奉仕精神の高い者」は、なにも自分の利益を捨て、慈悲の心でその身を捧げているのではない。むしろ、そのタスクから逃げることで集団全体が被る不利益と、犠牲となることで自分にかかる負荷とを天秤にかけた結果なのだ。
集団に降りかかる不利益と、自分の負担。それぞれをどれくらい重く、あるいは軽く評価するかが、利己と利他のバランスを決め、「奉仕精神」の高さを決める。
一つの集団の中で、ある者は「自分が犠牲になった方が楽だ」と結論づけ、ある者は「自分が犠牲を払うのは嫌だ。誰かがやってくれないかな」と考える。

汚れ仕事を引き受けるのはいつも同じ人。そうなるのは必然かも知れない。
タスクの内容によって、多少の変動はあれど個人の価値観が大きく変わることはそう無いからだ。

そんなわけで私の幼稚な考えでは、奉仕精神に満ちた人というのは、その人なりの計算の結果の行動が他人からは献身的に見えているだけ、ということになる。となると果たしてこの世に聖人君子は実在するのだろうか。

そんなことは考えても仕方がないので、今日はここまで。

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