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チャリティというエゴイズム

2年前のヘアドネーション思い立った日記でも少し書いているけれど、わたしがチャリティをするのは、純粋に人を助けたいとか人を幸せにしたいという、そんな高尚な理由ではない。
誰かの役に立つ(かもしれない)ことをして、自分の存在を少しでも意味のあるものにしたい——突き詰めれば、そんなエゴイズムにたどり着く。

ヘアドネーションをしようかと思い始めた2年前は、ちょうど人生2度目のどん底ってくらいのメンタルだった。
自分の居場所が無くなって、生きている意味さえ無いような気がしていた。
自分なんていてもいなくても変わらない。
自分がいなくなって困る人もいない。
そういうことを実感として感じていて、それならもう存在していたくないと思っていた。

だけどそうは言っても、自ら人生を終わらせるわけにもいかない。
それならば、何とかして無理やりにでも自分が存在していていい理由を見つけなければ。

そこでたどり着いたのが「チャリティ」だった。
自分が寄付をすることで誰かが助かるというところに、自分の存在する意味を結び付けようとしたのだ。
自分なんかでも、誰かの役に立てるかもしれない。一度くらいは誰かの役に立って死にたい。
そんな自分本位な考えからヘアドネーションをすることにしたのだった。
ヘアドネーションをすると決めてしまえば、少なくとも目標の長さに達するまでの何年間かは生きていなきゃいけないわけだし。

そんな後ろ向きな動機が根底にある。慈善でもなんでもない。
自分の心が救われるためにやっていることをチャリティと呼べるのか。
「チャリティ」という言葉の意味を調べるとどうもあやしい。

チャリティー(英: charity)とは、慈愛・慈善・博愛または同胞愛の精神に基づいて行われる公益的な行為・活動のこと。

Wikipediaより

慈愛・慈善・博愛・同胞愛の精神に基づいていないから、わたしのやっていることはチャリティとは呼べないかもしれない。

とりあえずここからは「寄付活動」とでも表記しよう。


ヘアドネーションすることを決めた時、他の寄付活動にも興味を持った。
何も持たないわたしができることは、唯一、仕事をして毎月ある程度のお金を稼ぐことだ。そこから少しずつ寄付をすることはできる。

自分自身が前線に立って活動することはできない。そんな能力も行動力も経済力もない。
だけど、誰かを救ったり社会をより良いものにしていく活動をしている団体に寄付をすることで、自分も存在する意味のある人間たり得たいと思った。


現在わたしは3つの団体に寄付をしている。

  • 社会や経済が不安定な国・地域の子どもを支援する団体

  • 子どもの人身売買・買春問題の解決に取り組む団体

  • 犬の殺処分ゼロを目指す活動を行っている団体

特に1つめは「チャイルドスポンサーシップ」という活動だが、ここは、スポンサーとして登録すると、ひとりにつきひとり、支援を必要としている「チャイルド」が紹介される。年に一度、チャイルドの様子を知らせるお手紙なんかが届いたりもする。
自分がこの子の人生を支えていると実感できるシステム。つまり、わたしの「自分の存在する意味を感じたい」というエゴイズムを満たしてくれるシステムだ。


そうして寄付を始めて2年が経ったけれど、結局、常に自分が誰かの役に立っている実感を得ながら生きられているかと言うと、そうとも言えない。

寄付金はすべて毎月カード引落しにしているので「寄付をしている!」という実感としては薄い。
領収書や活動報告が送られてくるのを見て、そういえば寄付しているんだった、と思い出す。
今回確認しなおすまで、自分がどこにいくら寄付しているのか忘れていたくらいだ。

幸い、いまはあの当時よりは心が落ち着いてきて、そんな「実感」にすがらなくとも生きていられる。
だからといって、いま行っている寄付活動をやめるのか、と問われれば、わたしはそこまでのエゴイストではないと言いたい。
自らの意思で始めたことを無責任に投げ出すことはしない。そんな人間でありたいと思っている。

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