冒険自転車[連載小説 #01]
これは僕が小さく、日本人がみんなまだ貧乏だった頃の話だ。
みんなが裕福になっていくのは、もうちょっと時間が経過したら。
やっと日本人が三食、白いご飯をお腹いっぱいに食べられるようになっていた。漬物以外のおかずも当たり前になって、パンも食べられる時代になった。
それでも、マクドナルドのハンバーガーやすかいらーくのハンバーグはハレの食事だった。
街の中華やそばだって、そんなに家族で食べには行けなかった。
僕らの自転車は、補助輪は取り外していた。だが、ギア付き自転車に乗れるほどの大きな少年ではなかった。
僕らの子供たちはちいさい頃からギア付き自転車に乗っているが、僕らの時代はギア付き自転車に乗ることは大人への入り口だった。
ギア付き自転車はそんなに簡単に手が出なかった。ギア付き自転車は少年から青年に成長するための道具。
しかし、自転車で冒険することはいまの子供たちと同じだ。
どこまでも自転車をこいで走っていった。どこまでもどこまでも走っていった。地平線の向こうまで走った。
そうやって少年、そして大人になっていく。
そんな僕がただ走っていた頃の記憶。
埠頭から見える湾にベイブリッジはなかった。岸壁に面した倉庫には無数の錆びたドラム缶が置かれていた。春の潮の匂いが心地いい。
僕らはミミズを餌にしたリール付きの釣り竿を岸壁から垂らしていた。
「こないね」
「こないよ」
僕は、釣りが一番、うまい丈雄に声をかけた。
「だって、裕大は釣りが下手だもん」
二人はちょっと渋い顔をした。潤に言われた。僕らは同じ年に産まれた。
僕は、「うん」と言った。
そして、「二人ともうまいものなぁ」。
でも、二人とも今日は坊主だった。
ここは横浜中央卸売市場の岩壁。横浜では中央市場と呼ばれていた。
大人になりそこに行ったら、岩壁に一般人は入れなくなっていた。さみしい思いをした。時代は変わっていたとその時は感じた。
僕らは三ツ沢に住んでおり、自転車で中央市場までギアなしの自転車で三十分ほどの時間で着く。学区を超えていた。
それぐらいの冒険はできるぐらいにはなっていた。親たちもなにも言わなかった。
小学校が早く終わり、家に戻って、おやつを食べてから、みんなで自転車をこいで来ていた。
そのおやつがなにだったかは覚えていない。ケーキやスナック菓子の資本主義が生み出した大量生産品ではない。
まだ、そのようなものを日常的に食べられるほど、僕たちは豊かでは無かった。母親が作ったホットケーキあたりだったのだろう。あるいは当時、まだ安かった果物。
えさは神奈川新町の釣具店でみんなのお小遣いを出し合って買い、分けあっていた。
僕らの街は公園がなく、野球やサッカーをやるには小学校の校庭でやるしかなかった。
校庭は子どもであふれていた。場所取りが大変だった。
そこでちょっと勇気のある僕らは遠出して釣りに来ていた。
ビデオゲームはまだなかった。子どもは外で遊ぶのが日常だった。釣りもその一つ。
いま思えば、親たちもよく心配しなかったと思う。
とくになにも言われなかった。遊びに行ったと話すと喜んでくれたくらいだ。
おだやかな時代だったのだろう。
自転車で学区外へ行くことはそれなりに冒険だった。
自転車は冒険のための道具だった。
まだ、高度資本主義の時代の前で、自転車も釣具も単なる道具いや遊び道具にすぎなかった。
アウトドアが好きというような記号ではなく、あくまで遊びの道具。
僕は丈雄より背が高かったが、潤と同じくらいの背だった。ただ、二人ほど運動は上手くなり、野球、サッカー、めんこにも勝てなかった。この後の時代に出てくるビデオゲームでも勝ったことも一度もなかった。
いまなら、それならいじめられているのではないのかと言われそうだが、そういうことがない牧歌的な時代だった。なにか馬が合い三人で自転車に乗って冒険していた。そりゃ、けんかがなかったと言ったら、うそになる。だが、けんかの原因なんかはすぐに忘れて仲直りをした。
子どもなんて、そんなものだ。けんかをしない方がどうかおかしかった。みんな、真正面でぶつかりあっていた。そして、認めあった。
平日、午後の岩壁は春の陽が気持ちよかった。東京湾の海は波、ひとつなく、春の陽と同じくおだやかだった。僕らの他には釣り人はいな。停泊している船はなく、岩壁のどこでも釣りはできた。
親からは、ここはハゼしか釣れないよとは聞いていたが、僕らはなにを釣れるかわからなかった。いや、なにを釣ろうかも意識していなかった。当然、ネットなどない時代で、親たちも正確にはなにが釣れるかの情報など持っていなかった。情報化時代ではなかった。中央市場の店が市場の関係者以外の一般人に開放される前だ。その頃に埠頭へ入れなくなったらしい。
大人たちも、伝え聞いたことを子どもに教えていただけだった。そうやって人から人へ情報が伝聞される。それが当たり前だった。
こうやって、竿を投げることが楽しかった。腕を振り、釣り糸が伸び、おもりが飛び、リールが回る。それをしているだけだったようなものだ。だが、こうすることのために冒険していた。無意味な時間とは違う。想像的な時間だった。
当時の横浜の雰囲気がよくわかるドラマです。
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