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小説:「恋の奥志賀高原音楽塾」 第一話


あらすじ

若くして世界的な人気ピアニストになったマコは、悩みを抱えていた。忙しすぎて演奏のレベルが落ちているような気がする。知り合いの批評家にも酷評された。

そこでマコは、夏の2週間、詰まっている予定をキャンセルして世界的指揮者セージが主催している奥志賀高原音楽塾で同年代の学生達に交じって室内楽を勉強することにした。

奥志賀高原音楽塾では、四重奏の勉強を行っている。だからグループは4人になる。つまり、マコには3人の仲間ができた。ハーフだけど全然外国語の喋れないミサキ(ビオラ)、ちょっといい男のタツヤ(チェロ)、ちょっと年下で芸大出身のヒトミ(バイオリン)と一緒に室内楽を作っていくことになった。

<↓第一話始まり>

リサイタル、リサイタル、リサイタル


ヨーロッパの小さな都市。小さいけど歴史のあるホテルの一室で、若い女性がインタビューを受けている。

「夢がかなったけど、思ったより大変。リサイタル、リサイタル、リサイタルで移動ばっかり」

インタビューアーの女性が苦笑する。

「そうなの?マコ?世界的ピアノ奏者になったわけだから、別の風景が見えるでしょう?」

「まだ見えないみたい。いま、私に見えてるのは、ホテルと飛行機とタクシーからの風景だけ」



都市の街角にマコのポスターが貼ってある。

「ピアノの妖精 マコ・ヤン リサイタル 4月25日 大ホール」



大ホールの舞台で、マコがピアノを弾いている。赤いミニスカートのドレス。
ピアノの音がやむと、聴衆は大きな拍手を贈る。マコはイスから立ち上がって、なれた様子で立礼する。


夜の都市をタクシーが走っている。後部座席にマコが座って、窓からぼーっと外を眺めている。

空港のエントランスからマコが出てきて、タクシーに乗る。どんよりと曇った古い町並みを走るタクシー。後部座席から、マコがぼーっと外を眺めている。

グリーンのミニスカートのドレスで、マコが演奏している。

マコが、飛行機の座席でアイマスクをつけて寝ている。

とんでもない数の自転車が走っている。その中をぬうように走っているタクシーの後部座席から、マコがボーッと外を眺めている。

ブルーのミニスカートドレスで、マコが演奏している。

マコが会場のエントランスで、CDを買ってくれた人にサインをしている。作り笑いで顔がこわばるので、時々両手で顔をほぐしている。

飛行機の座席で、マコが機内食を食べている。

強い陽の光がさす海のそばを、タクシーが走っている。マコが後部座席に乗って、ぼーっと外を眺めている。

ホテルの一室で、マコがピアノの練習をしている。ふと横を見ると、ルームサービスが運んできた食事の残りの食器が3食分置いてある。マコが「ふー」と、小さくためいきをつく。

空港から出てくるマコ。すぐにタクシーに乗り込む。




楽屋で新聞を読んでいるマコ。そこで、マネージャーのノエミが入ってきて声をあげる。

「あ!読んじゃってる!」

マコが顔を上げて、力なく作り笑いをする。ノエミが新聞を取り上げる。

「マコ、気にしないのよ。批評なんて、当てにならないんだから。ストラヴィンスキーの「春の祭典」だって、最初は不評だったんだから。あんな名曲が」

マコ、力なく作り笑いしている。少しの沈黙のあと、

「いいの。なぐさめないで。この批評の人、あたしのこと応援してくれてたのよ。2〜3年前に会ったことあるんだけど。その人が、こんな辛辣なこと書くんだから、あたしはきっと何か間違ってるのよ」

二人が向かい合って沈黙する。



マコが会場でCDを買ってくれた人にサインしている。

タクシーが空港に到着する。マコが降りてきて、空港に入っていく。

飛行機の中で、小さなコップでワインを飲んでいるマコ。小さなため息をつく。

空港の出口からマコが出てきて、タクシーに乗り込む。



マコが地味なセーターとジーパンで、広々とした楽屋に座っている。しきりに指を動かしている。他に誰もいないが、応接セットがある。ドアが開いている。

ドアから急に指揮者のセージが入ってくる。手に楽譜の束をかかえている。

「マコー、久しぶりー。今回もよろしくねー」

セージとマコがハグする。マコも満面の笑顔。

「セージ、お元気そうで」

セージのうしろから、楽団のスタッフが2人入ってくる。みんな応接セットに座る。

「さーて、譜読みやろうか。プロコフィエフの3番は誰かとやったことある?」

「えーと、クラウディオかな?」

「あぁ、なつかしいなー、クラウディオ、最近会えなくてさー。胃がんで入院したらしいけど、経過はいいみたいだね」

「そうね。ベルリンフィルの頃よりだいぶ痩せちゃったけど、お元気そうだったわ」

「うーん。この機会にちょっと一回電話しとこうかなー。一度見舞いがてら会いたいって思ってんだけど、イタリアの方のオーケストラがオレのこと呼んでくれなくてさー」

セージは笑いながら電話をするために出て行く。



10分ほどして、セージが部屋に戻ってくる。

「いやー、ごめんごめん。あいつ、元気そうだったよ」

「クラウディオとは知り合いなの?」

セージが座って、ケーキを一口食べる。

「知り合いというか、若い頃からのトモダチだよ。恩人なんだ」

「恩人?」

セージがケーキをもう一口食べる。

「うん。あれ?」

セージがマコの前に出てきた時のまま置いてある紅茶とケーキを見る。

「なんでケーキ食べないの?」

「だって、目上の人待ってるのに、先に食べちゃ、礼節がない人じゃない?」

セージは複雑な顔。

「マコは古い日本人みたいだな」

「(笑)だって、半分日本人だもん。セージ、こーゆー古いタイプの日本人、嫌いでしょ?」

「(苦笑)クラウディとはさ、レニーのニューヨーク・フィルで修行してた時、初めて会ったんだ。ずいぶん昔の話だな」

マコが「ふーん」と言いながらケーキを口に運ぶ。セージが続ける。

「オレがカラヤン先生に言われて初めてオペラ振るってなった時にさ、あいつイタリアから飛んできてくれて、色々教えてくれたんだ。オペラなんて日本じゃ勉強しなかったから、よく知らなくてさ、英語もよくわかってなかったオレがイタリア語のオペラ振るのが自分のことのように怖かったんだろうな。いいヤツなんだ」

二人で、少しの間だまってケーキを食べて、紅茶を飲む。マコが急に口を開く。

「セージ、お願いがあるんだけど」

セージが紅茶を飲みながら答える。

「なに?」

「あなた、夏に音楽塾やってるって教えてくれたよね?」

「うん。スイスと日本の山の中で、若いヤツに向けてね。若いヤツに室内楽教え込んでんだ」

「それ、参加させてくれない?」

セージは紅茶を持ったまま目をむく。

「へ?」

セージは紅茶を一口飲む。

「あんたを?」

マコがうなづく。セージは目をむいたまま。

「講師料なんか出ないぜ」

「講師じゃなくて、生徒で」

セージはさらに目をむく。

「へ?」

目をむきながら、紅茶を一口飲む。

「なんで、あんたが生徒になるの?」

マコが「うーん」と言って、開いたままのドアを見ると、廊下をチェロを抱えた二人が通り過ぎる。

「なんか、忙しすぎて、少しちゃんと勉強しなおしたいと思って。理論とかじゃなくて、音楽の芯ていうか、そんなとこを。セージ、まえ言ってたじゃない。「音楽の根本は室内楽だよ」って」

「(うなづく)言った」

「四重奏をちゃんと勉強すると、一人で勉強してるよりも、音楽の質が高まるよ、って」

「(うなづく)言った」

「それ思い出してさ」

セージが「うーん」と言いながらケーキをつまんで口の中に入れてモグモグして、紅茶を一口飲む。

「事務所は?だいぶ予定つまってるんじゃないの?」

「セージがOKしてくれたら、何とかする」

セージが、またケーキをつまんで口の中に入れてモグモグして、紅茶を一口飲む。

「よし。わかった。事務所がOKなら、おいで。でも、今月中に決めてな。ピアノの人初めてだから、楽器とか人数合わせとか、色々あるから」

マコ、ビッグスマイルでセージに抱きつく。



マコがピンクのミニスカートドレスで演奏している。指揮はセージ。



マコが荷物を持ってタクシーに乗り込む。

飛行機に乗り込むマコ。

空港から出てきてタクシーに乗り込むマコ。

オレンジのミニスカートドレスで演奏するマコ。

CDを買ってくれた人にサインしているマコ。



ホテルの部屋でシャワーを浴びているマコ。バスローブを着て部屋に出てくると、応接セットにノエミが座っている。

「マコ、8月は5カ所もリサイタルがあるのよ」

マコはバスタオルで頭を拭きながら、

「日本に行ってるのは2週間だから、3カ所だけでしょ?だいじょぶよ。カティアに代役頼めるから。その日の予定は空いてるから、やってくれるって。ほら、あたしが出るより、カティアの巨乳見る方がお客さんも喜ぶよ」

「(怒る)そんなわけないでしょ!」

マコがノエミの正面に座る。

「わかってよ。こーゆー生活には憧れてたけど、そーなってみると不都合なことってあるのよ」

マコが目の前に置いてあったシャンペンを飲んで、続ける。

「忙しいのはいいけど、あたし位のトシで忙しすぎちゃうと、音楽のレベルが保てないみたい。あたしは、一生懸命やってるつもりなんだけど、聴く人が聴くと、わかっちゃうのよ」

「(しかめっ面)あんなヘボ評論家の言うこと気にしなくてもいいじゃない」

「(微笑)あたしが何で売れっ子だかわかる?若くて、ピチピチで、ナマ足出してて、そしてピアノがうまいからよ。多くのお客さんはピアノを聴きにきてるんじゃないの」

「(しかめっ面)そんな、、、」

マコがさえぎる。

「うぅん。わかってるの。そして、いつか、若くなくなって、ピチピチじゃなくなって、ナマ足出せなくなる時が来るでしょ?その時に残るのは音楽しかないじゃない?その時がきて、自分の音楽がスカスカだったら、困るじゃない」

「(しかめっ面)うーん、、、」

「だからさ、やっぱり、1年に一度くらいは、どっか行って鍛え直すっていうか、見つめ直すっていうか、そーゆーことしうなきゃいけないなー、って。ね」

沈黙が流れる。かなり長い沈黙。マコが目の前に置いてあったシャンペンを2口飲む。ノエミがやっと口を開く。

「うーん、わかる気がするけど、予定こなしてからにすれば?」

「それじゃ、3年後になっちゃうじゃなーい。2週間だけ。2週間だけ休みちょーだい。お願い、お願い、お願い」

「(しかめっ面)マコ、あなた、いま大事な時なのよ。若いウチに名前を売って、評価を高めておかないと、今後の演奏活動に響くわよ?」

「演奏活動って言ったって、音楽が良くなかったら、どーしようもないじゃない。お願い、お願い、お願ーい」

ノエミがやっと笑う。

「もー、しょーがないわねー、わかったわよ。で、どこ行くの?ホテル取ろうか?」

マコは、ノエミも投げキッスしながら答える。

「いいの。セージの音楽塾に参加させてもらうの」

「(ビックリ)えぇー、他をキャンセルして、別の音楽祭出るなんて、ダメよー」

マコは首を横に振る。

「ううん。違うよ。出演するんじゃないの。生徒になるの」

ノエミ、ビックリして目をパチクリ。マコが続ける。

「それに、音楽祭じゃないの。塾。音楽塾。「奥志賀高原音楽塾」」



一日目 奥志賀高原音楽塾


新宿の大きなホテルの前に、大型バスが止まっている。行き先の札に「奥志賀高原音楽塾行き」と書いてある。

ホテルの大きめの会議室の中に、10代〜20代の男女が30人弱座っている。女の子3人組の一人が、他の二人に話しかける。

「ねぇ。あれ、マコ・ヤンじゃないの?」

他の二人が疑う。

「なんで、世界的ピアニストがこんなとこにいるのよ?」

「似てるけど、違うんじゃない?」

会議室の真ん中あたりの席で、マコが花柄のかわいらしいワンピースで座り、楽しそうにあたりを見回している。




会場の前の方に、セージと関係者らしき3人の年配者が入ってきた。セージがマイクを持って話し出す。

「はい。どうも、おはようございます」

会場から「おはようございます」と声が上がる。セージが馴れた様子で続ける。

「じゃ、これから奥志賀に行くよ。だいたい2週間ね。最終日に奥志賀の音楽堂で発表会やって、次の日に山降りたふもとにある山ノ内町の中学校で発表会やって、それから東京に帰ってきて1週間後に飯田橋の凸版ホールで発表会ね」

会場が少しザワザワする。セージがデスクの上の何かを探している。

「それから、えーと、紙どこだっけな、あ、あった。えー、長瀬さん、荒川さん、黒川さん、立ち上がって」

3人バラバラに立ち上がる。セージ、その人達を指さして、

「この人たちが2回目とか3回目とかの参加なんで、よくわかってるから、なんかわかんないことあったら頼りにして」

3人、一礼して座る。セージ、続ける。

「それから、講師紹介するよ。こちらのみなさんは、」

と言って、セージの横に立っている女性の方を向く。

「バイオリンの安芸晶子さん、ヴィオラの今井信子さん、チェロの原田サダオさんね」

3人、一礼する。

「みんな世界的奏者だから、知ってるでしょ?知らない人はいないと思うけど、知らなかったら調べて。この人たち、ボクの桐朋の後輩で、子供の頃から仲間なんだ。じゃ、楽しくやりましょう」

会場のみんなが「よろしくお願いしまーす」と言った。セージが言う。

「はい。じゃ、これからグループ分けして、自己紹介しあって、それから奥志賀向かうけど、なにか質問ある?」

会場静まる。恐る恐る手をあげる男子生徒がいた。セージが「はい、どーぞ」と当てる。

「あのー、そちらにお座りの方は、マコ・ヤンさんですか?」

マコ、質問した男子生徒の方に振り向いて手を振る。男、ビックリする。セージ、苦笑する。

「そうです。マコです」

別の女性生徒がたずねる。

「マコさんは講師として?」

セージが答える。

「違うよ。生徒として」

会場、どよめく。セージ、ちょっととまどう。

「あぁ、そーか。気になるか。いや、なんか、マコが室内楽を一度みっちり勉強してみたいって言うんでね。みんなとトシも同じくらいだし、ボクのやってる音楽塾参加してみれば?っていうことになってね、で、スイスより奥志賀の方がいいっていうんでね。ま、そーゆーことで。ちなみに、ピアノで参加する人初めてなんだけど、これはマコだから特別。はい、他に質問は?」

会場、静まりかえる。マコがニコニコしている。



みんな立ち上がってグループ毎に集まり始めている。セージがマイクで告げる。

「ミサキくん、黒川ミサキくん、ちょっと前にきて」

ミサキがセージの前に立った。セージが笑顔で言う。

「あぁ、久しぶり。あなたさ、マコと同じグループにしたから、マコの面倒みてやってよ」

ミサキが驚く。

「いいですけど、なんであたしなんですか?」

セージが言う。

「明るいしさ、英語できるでしょ?」

ミサキが不服そうに笑った。

「やーっぱり。セージ先生、去年説明したのにぃー。あたしは外国人みたいな顔しているけど、山形県朝日町の生まれ育ちで、日本語しかできないの」

セージ、目をむいて、笑いをこらえながらに言った。

「あ?そうだっけ?なんだよー」

でもすぐに笑いをこらえられなくなって、笑う。

「ははははは。マコに頼まれた時さ、すぐにあなたの顔が浮かんだのよ。あなたのような顔さ、シカゴで毎日見てるから、英語できないっての忘れてたよー。そっかー」

セージ、まだ笑っている。ミサキ、セージを叱るように

「セージ先生ね、お忙しいでしょうけどね、可愛い〜後輩の情報、少しは覚えといてくださいよー」

セージ、相変わらずの笑顔で、

「だいじょぶ、だいじょぶ。マコ、日本語もできるから。でもさ、「明るい」ってのは覚えてたぜ。あなたの顔も、ちゃんと覚えてたしさ。そこは褒めてくれよ」

ミサキ、笑顔になって、

「そこはエラい。さすが、世界のセージ先生」

セージのうしろから、関係者が耳打ちをする。セージがうなづく。

「オレ、行かなきゃ。じゃ、マコのことよろしくね。何かあったら言って」



会議室にいくつもの4人グループができている。

マコが一人で座っているところへ、ミサキがビッグスマイルで近づいてくる。ミサキが小さく手を振ると、マコも小さく手を振り返す。ミサキが言う。

「はじめまして」

マコが言う。

「ハーイ」

ミサキがちょっと「うっ」ってなる。

「に、日本語だいじょぶだよね?」

マコがにっこりしてうなづく。

「うん」

ミサキが「ふー」っと言いながら、マコの横に並んで座る。

「セージ先生から、あなたのガイドを申しつけられたミサキです。よろしく、どーぞ」

マコが一礼する。

「それは、それは、ご丁寧にありがとうございます。マコです。よろしくお引き回しください」

ミサキがビックリする。

「あなた、日本語うまいのねー」

マコが少し笑う。

「そう?ママが日本人だから」

ミサキが言う。

「あたし、こー見えて、ひとっつも外国語できないから。英語もフランス語もロシア語も、なーんにもできないの。おとーさんは米国人だけど、日本にムコに来て、山形県の朝日町ってとこで酪農してて、あたしも山形県の朝日町の生まれ育ちなの」

マコが気の毒そうに言う。

「へー。外国語で話しかけられるでしょ?」

ミサキが表情豊かに答える。

「そーなのよー。話しかけられんのよー。だから外国行くのがイヤ。すごくイヤ」

話し終わって、ミサキがふと横を見ると、遠くはないけど、近くもないところに、男とメガネをかけた女が立っている。ミサキが男の方に尋ねる。

「あれ。タツヤ。何やってんの?マコのサイン欲しいの?」

尋ねられたタツヤは、遠くもないけど、近くもないところから「それを見ろ」というジャスチャーをした。「机の上に置いてある紙を見ろ」と。

ミサキは机の上に置いてある紙をみた。「これ?」とタツヤにジェスチャーで確認して、紙を見た。納得した。

「あー、あの人たちが一緒のグループみたい」

マコが机の上に置いてある紙を見て言う。

「ミサキは日本語読めるの?」

ミサキは何を問われたのかよくわかんない顔で

「う、うん。山形県の朝日町育ちだから」

マコが困ったような顔で言う。

「あたし、ダメなの」

ミサキが真面目な顔で言う。

「いいじゃない。マコ・ヤンなんだから」

マコがぼんやりした顔でミサキを見つめた。ミサキが遠くはないけど、近くもないところに立ってるメガネをかけた女の子に呼びかけた。

「あなた、ヒトミさん?」

ヒトミは無言でコクりとうなづいた。うなづいたまま黙っている。タツヤと二人、だまって立ちすくんでいる。ミサキが「やんなっちゃうなー」という顔でマコに話しかける。

「しょーがないなー。あいつら、世界的ピアノ奏者を前にして、ビビっちゃってんすよ」

マコがビックリして自分を指さす。

「え?あたし?」

ミサキは苦笑。

「あなたよ。そーよ、あなたよ。わたしのわけないじゃない」

マコは続けてビックリしながら、

「あー、どーも朝から、なーんか見られてると思った。さっきなんて、質問まで出ちゃって」

ミサキが「へ?」という顔でマコを見た。



会議室の一角で、マコ、ミサキ、タツヤ、ヒトミが車座になってイスに座っている。ミサキが口火を切る。

「えーと、じゃ、タツヤから行こうか。はい。自己紹介して」

タツヤ、イスに座り直す。

「はい。えー、どうも。タツヤです。ミサキさんの大学の後輩です。ミサキさんに紹介されてきました。チェロ弾きます。出身は福島の三春町です。よろしくお願いします」

3人拍手。マコがミサキに尋ねる。

「先輩なの?」

ミサキがエラそうになって答える。

「うん。先輩。高校の頃から、一緒に新幹線で先生の家に向かった仲よ。ちょっと二枚目でしょ?紹介しようか?」

タツヤがツッコむ。

「聞こえてますよ。いま、紹介してるとこでしょ」

ミサキが「ははは」と笑い、ふと思い出すようにみんなに向かって話し出す。

「あ、あたし、ミサキ。ヴィオラやります。タツヤのステキな先輩。うふふ」

ミサキが立ち上がって、レディーのように一礼し、次にタツヤに向かって一礼した。タツヤがツッコむ。

「なにやってんすか。みんなビックリするからヤメなよ」

ミサキが口をとがらせる。

「なによ。淑女はこーするものなのよ。ねー、マコ」

マコ、尋ねられて困っている。ミサキ、思いだしたように、みんなに言う。

「あ、このマコね、確かに世界的ピアニストなんだけどね、話しやすい、さっぱりした人だから。日本語で話せるから、気さくに話しかけてあげてね」

タツヤ、困り顔で、

「まーた、先輩、まだ知り合ったばっかりなのに、」

タツヤ、マコの方を向いて、

「すいませんね。マコさん、この人、ちょっと、これがアレなもんで、、、」

ミサキが声を上げる。

「なによー。これがアレってなによー。なにがアレなのよー」

マコがクスクス笑っている。ミサキが、それを見て喜ぶ。

「面白い?面白い?笑った?」

マコが笑いながら、

「うん。笑った。あなたたち面白い」

ひとしきりクスクス笑ったあと、「はー」とため息をついた。気づくと、3人が見ているので、自己紹介を始めた。

「あたし、マコ。台湾人のパパと日本人のママがいます。台湾で生まれて、それからアメリカに行って、フランスに行きました。ピアノを弾きます」

少し沈黙。マコが言う。

「ミサキ、あとなに話したらいい?」

ミサキが急に話しかけられてビックリする。

「え?えーと、演奏活動は何歳から?」

マコが答える。

「うーんと、9歳かな。台湾でテレビ放映されたよ」

ミサキ、ビックリする。

「9歳?さーすが天才は違うねー。小学生じゃない。学校行きながら?」

マコが答える。

「うぅん。学校は行ってないの。家とか楽屋とかで父に勉強教えてもらったの」

3人ビックリする。タツヤが尋ねる。

「ここに来る前はどこにいたんですか?演奏で?」

マコ、少し考える。

「えーと、東京へはクリーブランドから来た。クリーブランドでは、フランツが指揮だったな」

タツヤが、静かに、しかし強く、ビックリする。

「フランツ・ウェルザー=メストとクリーブランド管弦楽団!世界だ。ここに世界がいる!」

3人がビックリしながらマコを見つめている。

「いやー」なんて感じで、マコが照れている。

少し沈黙がある。

少したって、3人が同時にヒトミの方を見た。ヒトミはメガネをかけ直しながら、小さな声で言う。

「・・・」

ミサキが耳に手を当てる。

「え?なんて?」

マコが翻訳する。

「ヒトミです。よろしくお願いします。横浜出身で芸大通ってます。19歳です。だって」

ミサキが目をむいた。

「じゅ、じゅ、19歳?なーんか若そうだと思ったら、19歳?ゲーダイ、若いんだねー」

3人の頭の上に?マークが上がる。タツヤ、苦笑しながら、

「彼女の呼び名はゲーダイになるのね。ヒトミさんじゃなく」

ミサキ、ふくれながらマコに話しかける。

「ね。19歳だって。わっかいねー」

マコ、苦笑しながら、

「あたしたちだって若いでしょ?あなたいくつよ?」

ミサキが答える。

「23」

マコ、苦笑しながら、

「あたしも23。そんなに変わらないじゃなーい」

ミサキが難しい顔で言う。

「いやー、やっぱりさー、髪のツヤとか、頬のベニの差し具合とか、違うよねー」

ミサキが腕を組みながら、頭を左右に振った。マコが笑う。

「そーゆーこと、いつも、おじさま・おばさま達にあたしが言われている」

みんな笑った。



奥志賀高原音楽塾行きのバスが、関越道を走っている。上信越道に入る。関越道はわりと車が走っていたが、上信越道はあまり車がなく、ゆったりと走っている。

バスは信州中野インターで降りて、山に向かって走っていく。

郊外のロードサイドという感じの中を少し走っていくと、長野オリンピックで整備された高速道路のような道にでる。そこをまた少し走って行くと、上林から空気も景色も変わって、志賀高原へ続く緑の回廊のような道に入る。

登って、登って、登って、サンバレースキー場が見えてくると、なんだか楽しくなってくる。また少し登って、蓮池から左に入り、いくつかトンネルを抜けると、宿もホテルも建物がほとんどなくなり、焼額山の麓に屹立する3つのプリンスホテルを過ぎると、奥志賀高原に到着する。

奥志賀高原に向かう坂を上がっていくと、大きな建物が3つ見えてくる。ミサキがマコに説明する。

「ほら、あそこ、あそこの左側に見えるのが、あたしたちが泊まる奥志賀高原ホテル。で、真ん中が奥志賀高原のセンターハウスで、右側に見えるのがグランフェニックス奥志賀。皇室の方も泊まる志賀高原で一番の高級ホテル」

バスが奥志賀高原ホテルの前で止まる。みんなが降りてきた。マコも降りてきて、カバンを置いて、回りを見渡して、深呼吸した。

「いいとこだねー。涼しいねー」

ミサキも同じように深呼吸した。

「ほんとだー。何回来ても、夏は天国だなー」



奥志賀高原ホテルの横に建っている従業員用の食堂に、全員が座っている。セージが前に立って話している。

「はい、じゃ、これから約2週間ね、ここの奥志賀高原ホテルにお世話になります。ここの1階を借り切ってるんだけど、2階とか3階とかには一般のお客さんも泊まってるから、そこんとこ気をつけて。

それから、練習は、このホテルの中とか、あっちのペンションとか、あっちの従業員寮とか、回りにある色んなとこに行くことになるけど、挨拶はキチンとしてな。みなさん、ボランティアで練習場所を提供してくれてるから。

じゃ、それぞれの部屋割と予定表確認して、今日は移動で疲れただろうから、ちょっと休もう。夕食が6時。レストランに集合!」



関係者がグルーブ毎に部屋割表と練習予定表を配り始める。マコやミサキも座って待っていると、セージが近づいてきた。

「あのさ、マコのチームはピアノ使うから、練習は音楽堂な。他のチームも使うけど、優先的に割り当てたから。すまないけど、音楽堂以外に練習に使えるピアノないんだよ」

ミサキがビックリする。

「え?音楽堂って、そこの音楽堂ですか?」

セージが微笑する。

「そうだよ。そこの音楽堂」

マコがすまなそうに言う。

「セージ、ゴメンね。色々お手数かけて」

セージが言う。

「いいんだいいんだ。マコ、気にするなよ。ピアノの人いれるの初めてだからさ、色々、ま、あると思うけど、なんか問題あったら言ってな」

みんな、うなづく。セージが去っていく。ミサキが言う。

「音楽堂で練習できるってのはいいわよー。音いいもん」

マコが言う。

「そうなの?」

ミサキが言う。

「そうよー。近いしさー、音いいのよー。ここのホテルも練習さしてもらうペンションも、ほら、ほんとは宿泊施設だから、どこで練習しても音がデッドでデッドで困っちゃうのよ」



マコが奥志賀高原ホテルのフロントでカギを受け取っている。ミサキとゲーダイとタツヤが少し離れて立っている。ミサキが言う。

「マコは1階に泊まるんじゃないんだ」

タツヤが言う。

「やっぱ、世界的ピアニストが相部屋はないでしょーな」



4人が奥志賀高原ホテル内を見物している。奥志賀高原ホテルの2階から、奥志賀高原スキー場に出られるようになっている。音楽堂は、奥志賀高原ホテルの2階からスキー場に出た向こうにある。みんなで音楽堂の中に入って、マコが感嘆する。

「わー。すごーい。全部の窓から緑がいっぱーい」

ミサキも同意する。

「ほんと、何回来ても素晴らしいわ。さーすが世界のセージ先生が作った音楽堂」

タツヤも感嘆する。

「音いいねー」

4人がそれぞれの場所に立って、音楽堂を堪能している。ゲーダイが言った。

「・・・」

ミサキが耳に手を当てる。

「え?なんて?」

マコが引き取る。

「「発表会、楽しみですね」って」

ミサキが苦笑する。

「あなた、よく聞こえるわね。やっぱ、耳がいいんだねー」

入口から他のグループが入ってきたので、4人は見学を終えた。



奥志賀高原ホテルの従業員レストランで、4人がお茶をしている。ミサキが声を上げる。

「そーそー。あたしも、それ不思議だったの。でも、遠慮して聞けなかったの。タツヤ、エラい。で、どしてここに参加してるの?生徒として。」

マコが紅茶を一口飲んで、答える。

「うーん、毎日、毎日、練習と移動でさ、忙しくて忙しくて、他に何もできないの。でさ、一度じっくり音楽を勉強し直すっていうか、音楽の位置を確認するっていうか、そーゆーことが必要だと思ったんだ。あたし、ミサキと同じトシだけど、もう10年以上こんな生活だからさ」

ミサキが気の毒そうに言う。

「へー。天才もツラいんだねー」

マコが続ける。

「それにさ、あたし小学校はロクに行ってないし、中学も高校も大学も一日も通ってないし、子供の頃からまわりは大人ばっかりだったから同世代の友だちいないし、だからかな。セージから聞いたこの音楽塾のこと思い出したの。みんな同じくらいのトシで、楽しそうだなーって」

ミサキが言う。

「ま、楽しいよね。涼しいし」

タツヤが疑問を口にする。

「でも、オレたち、レベル合うの?」

マコが答える。

「だって四重奏だからさ、みんなで音楽作るわけじゃない。それも、いいとこよね。あたしが上手くたって、下手だって、みんなで音を重ねて音楽ができるわけだからさ」

ゲーダイが久しぶりに声を発した。

「・・・」

ミサキが耳に手を当てる。

「え?なんて?」

マコが引き取る。

「「素晴らしいです。あたしも勉強させてもらいます」だって」

ミサキが感心する。

「あなた、よく聞き取れるわねー」



奥志賀高原ホテルの横の従業員用食堂で、音楽塾のみんなが夕食を食べている。セージが色んなテーブルを回って話しかけている。マコたちのテーブルにやってきた。

「ちょっといい?」

4人、声をそろえて「はい」という。セージが尋ねる。

「マコ、どう?楽しめそう?」

マコが笑顔で答える。

「えぇ、ありがとう。セージ。みんな面白い方だわ」

セージが笑いをこらえきれない感じになって、ミサキを指さす。

「このミサキ君ね、とっても明るくて、うんと良い人だから、困ったら、この人を頼りなよ」

マコが笑顔で答える。

「えぇ。そうするわ。ありがとう、セージ」

セージが続ける。

「あとさ、マコが個人的に練習するピアノさ、悪いけど、やっぱ音楽堂使うしかないんだよな。他のみんなも四重奏の練習で使うんだけど、予定表見てさ、空いてたら朝の6時頃から11時頃までなら使っていいよ。話つけといたから。だいじょぶだと思うけど、音漏れたらアレだから、それ以外はヤメてな」

マコが喜んで立ち上がり、セージをハグする。

「セージ、ありがとー。助かるー」

セージ、ドギマギする。

「や、やめろよー。オ、オレにも立場があるんだよー」

マコ、すぐに気づいて離れる。

「あ。日本じゃダメなのね」

セージ、ドギマギする。

「「日本じゃ」って、外国じゃ、いつもやってるみたいじゃないかー」

セージがふと見ると、ミサキとヒトミとタツヤがジッと見つめている。セージがドギマギしながら、3人を見て言う。

「えー、みんなもね、世界的ピアニストが目の前にいるんだから、この機会をうまく利用すんだぞ」

ミサキ、手を打つ。

「ほんとねー。考えてみれば、すごいことねー。世界的指揮者と世界的ピアニストが、実際に目の前にいるんだからねー」

ヒトミとタツヤ、強くうなづく。ミサキの目がキラッと光って、セージを見て立ち上がって両手を広げる。

「セージ先生、ありがとー。お礼にチューしてあげる。チュー」

セージ、笑いながら困惑する。

「や、やめろよー。オ、オレにも立場ってもんがあんだってー」

タツヤがミサキを座らせる。

「ほらほら、先輩、座って座って。酒の席じゃないんだから」

ミサキ、不服そうに、

「なによー。せっかくピチピチの若い娘がチューしてあげるって言ってるのに、、、」

セージ、笑いながら、

「うん。それはね、ちょっと惹かれる」

みんな笑う。

セージが去って行く。

タツヤが言う。

「やっぱ、マコさんだねー。「ありがとう、セージ」なんつっちゃうんだもんなー」

マコ、驚く。

「あら。間違ってた?いつもセージとは、半分英語で話してるからさー。英語だと敬語あんまり使わないでしょ?いや、使うけど、あからさまには使わないじゃない」

3人「あー」と納得する。マコが尋ねる。

「何て言うのが正解だったの?「ありがとう、セージさん」とか?」

タツヤが答える。

「「ありがとうございます。セージ先生」じゃないかな。ボクらが言うとしたら」

ミサキがいたずらっぽく笑って言う。

「「ありがとうござります。セージどの」じゃない?言ってみ」

タツヤが止める。

「ダメダメ。マコさん、ウソだよ。この人の言うこと聞いちゃダメ」

マコが少し居住まいを正して言う。

「「ありがとうございます。セージ先生」。どう?」

ミサキが笑いながら言う。

「声は低くしないでいいでしょー」

みんな笑う。



夕食が終わると、歓迎会が始まった。音楽塾生それぞれの机の前に夕食とワインが置かれた。一番前でセージがワインを掲げて「カンパイ」と発声すると、「カンパーイ」と歓声が上がり、一斉にワイワイし始めた。セージの声が聞こえる。

「未成年は酒飲むなよー」

食事をして、お酒を飲んで、みんなどんどんボルテージが上がって騒がしくなった。

ミサキが飲みながら言う。

「ゲーダイ、ゲーダイ、」

と、向こうで大きな歓声が上がった。見ると、セージがみんなとポルカみたいなのを踊っている。ミサキが少しそれを見て、ゲーダイに振り返った。

「あんた、カレシいるの?」

ゲーダイ、ワインをグビッと飲んで、

「いない。あたし、今、それどこじゃないの。もっともっと練習しなくちゃ。だから、マコさんと一緒になって、」

ゲーダイ、キョロキョロする。

「あれ?マコさんは?」

ミサキもキョロキョロする。タツヤが言う。

「あれ。いない」

ミサキ、うつろな目でタツヤに言う。

「タツヤ、探してきなさいよ。迷ってるのかもよ」

タツヤが立ち上がって、食堂の外に出て行く。マコを探そうと従業員用食堂から一旦外に出ると、向こうの音楽堂に灯りがついている。近づいてみると、マコが一心不乱にピアノを弾いていた。タツヤは真剣な顔で眺めている。



二日目 スイートルーム、練習


朝。奥志賀の朝霧が美しい。

マコとミサキとゲーダイとタツヤが、奥志賀高原ホテル横の従業員用食堂で朝食を取っている。タツヤが大きなアクビをする。ミサキがとがめる。

「あんた、ちゃんと寝なかったの?ダメよ。練習に響くじゃない」

タツヤがコーヒーを飲みながら、

「だってさー、2人部屋だしさー、同室のやつがさー、チェロやっててさー、太っててさー、イビキがうるさいんだよー。ありゃ、寝られないよー」

ミサキが言う。

「あら。おととしも、そーゆー人いたよ。事務の人に言って、部屋代えてもらってたから、あんたもそーしなよ」

タツヤ、うれしそうに、

「え?ほんと?じゃ、尋ねてみよー」

タツヤ、立ち上がって、外に出て行く。



3人が食後の紅茶を飲んでダベっていると、どんよりしたタツヤが帰ってきた。

「ダメだって。今年は人がいっぱいで、代えてもらえないんだって」

3人が「えぇー!?」という。ミサキが言う。

「それは困ったわね。あんただけの問題じゃないよ。あたしたちチームの問題だよ。ま、さ、相部屋って、確かにちょっとツラいよね。あたし3回目だけど、やっぱ、ちょっとツラい。」

ゲーダイが同意して強くうなづく。ミサキとゲーダイとタツヤが、どんよりする。そんな3人を見て、マコが言う。

「じゃ、みんな一緒にあたしの部屋泊まれば?その方が色々便利だし」

ミサキとゲーダイとタツヤが喜色を浮かべるが、ミサキがいぶかしそうに言う。

「「みんな一緒に」って、あなたの部屋、どんだけ広いのよー」



マコの部屋に入ったミサキとゲーダイとタツヤが息を飲んでいる。ミサキがつぶやく。

「ひ、ひろい」

タツヤがつぶやく。

「あぁぁ、すごい、すごい。ベッドと別にソファーセットがある。なにこれ?なにこれ?スイートってやつ?スイートルーム?」

ゲーダイもつぶやく。

「・・・・」

3人が同時にマコの方に向いて、欧州騎士のように、ひざまずいて礼をした。マコ、笑う。

「な、なによ、それ?」

ミサキがマコの手を取る。

「ありがとう。マコ。あなたのお陰で、こんなステキな部屋に泊まれる。良い思い出が一つ増える。ありがとう。ほんとに、ありがとう」

ミサキがマコの手にキスをした。マコが「はははは」と笑った。

「いいのよ。ここ、あたしが払ってるから。あたしは自費参加だからさ、みんな気にしないで、一緒に楽しもうよ。チームだもん」

3人とも、欧州騎士のようにひざまずいたまま、もう一回礼をした。ゲーダイの姿は、欧州騎士というより、休憩中の忍者だったが。



4人が音楽堂で練習している。

曲が終わる。ミサキが苦笑する。

「なんか、ぜんぜんダメだね」

タツヤも苦笑する。

「ほんと、ぜんぜんダメだ」

ゲーダイとタツヤがチューニングを始める。ミサキが言う。

「ま、とりあえずさ、今日が初めての合わせだから、みんな、それぞれにみんなの音聞いてさ、毎日毎日、何十回も何百回も練習してるうちに良くなってくよ」

タツヤが言う。

「先輩、いいこと言う。けど、ほんと?」

ミサキが口をとがらせる。

「ほんとよー。セージ先生もサダオ先生も言ってたことだもーん」

音楽堂のドアを開けて、男が一人と夫婦が一組入ってきて、客席に座った。マコがミサキの方に体を向けて尋ねる。

「ねぇ、あの方々はどなた?」

ミサキが答える。

「この近くの別荘地の人とか、ホテルとかペンションとかに泊まってる人。練習を見学できるの」

マコが納得する。

「へー。いいシステムね」

音楽堂のドアを開けて、サダオが入ってきた。背が高く、恰幅が良く、メガネをかけている。体格に似合わない小さい声で言った。

「どーも。どーも。サダオです。よろしく」

みんな立ち上がって、ペコリと頭を下げる。サダオ、マコに笑いかける。

「マコ、久しぶり。ケルン以来かな?」

マコ、答えようとして一旦やめて、右上を少し見て考えてから、

「えー、その節はありがとうござりました。サダオどの」

みんな笑う。観客席も笑う。サダオも笑って、声が大きくなった。

「なんだよー。それ。やめろよー。いつも通りでいいだろー」

マコ、少し思慮顔になって、

「でも、日本語だと、それは失礼でしょ?」

サダオ、苦笑しながら、

「いーんだよー。そんな、みみっちい日本人的な話は。オレたちは世界人だろー」

ミサキが首を振りながら、

「さーすが、室内楽で世界を獲ったサダオ先生」

サダオが手を振って「やめろよ」と小さな声で言った。

「じゃ、ボクがこのチーム担当するけど、とは言ってもセージさん達も来て意見言うけど、ま、音楽の先輩からの助言だと思って、気楽にやってな。重要なのは、君たち、自分たちで君たちの表現を探すことだから。ミサキくん、曲は決まったの?」

ミサキが言う。

「ドヴォルザークの2番です」

※参考↓


サダオがつぶやく。

「ドヴォルザークか。。。」

サダオが少し上を見て、タツヤを見た。

「きみ、ミキオくんの息子なんだってな」

タツヤが驚く。

「えっ!父をご存じなんですか?」

サダオがうなづく。

「そんなによくは知らないけど、オレより5年後輩なのかな?一緒にオケでドヴォルザーク弾いたことあるよ。学生の時に。可愛らしい小学生でな。オレより全然若いのになー。何年前?亡くなったの」

タツヤが答える。

「4年前かな?5年前かな?そのくらいです」

サダオが何回もうなづく。

「そーか、そーか。もったいなかったなぁ。きみ、日本学生音楽コンクールで優勝したんだろ?ミキオくんも楽しみにしてたんだろうになー」

タツヤ、愛想笑いを浮かべながら、ちょっと下を向いた。



ミサキとマコとゲーダイが楽器を片付けている。マコがミサキに言う。

「タツヤ、なんで練習終わる前に黙って出てっちゃったんだろう?」

ミサキが少し深刻な顔で、

「あいつねー、少しねー、打たれ弱いっていうか、何ていうか、オヤジさんの話がちょっとまだダメみたい。いや、ダメっていうか、ビミョーな話題なのね」

ゲーダイが尋ねる。

「日本学生音楽コンクールで優勝したの?」

ミサキが答える。

「まね、日本学生音楽コンクールも微妙な話題なんだけど、あんた達には言っとくね。あの子、15歳で日本学生音楽コンクールに優勝して、「天才少年」って、福島の方じゃちょっと話題になったんだけど、コーチだったお父さんが翌年亡くなっちゃって、なんかダメになっちゃったみたい」

マコが尋ねる。

「なにがダメになったの?」

ミサキ、上を向いて、ちょっと考える。

「なにかなー。意欲がなくなっちゃったのかなー?あんまり練習しなくなって。あんまり人前で弾かなくなって」

マコが「ふーん」とうなづく。ミサキが続ける。

「あたしさ、高校の時、東京の小平の先生のとこまで週に一回通ってたんだけど、タツヤはその先生のダンナさんのとこに通ってたから、週に一回、新幹線で一緒に通ってたのよ。あたしが山形で乗って、あいつが郡山で乗ってくるの」

ゲーダイが笑う。

「不倫カップルみたい」

ミサキが笑う。

「だから、教室の先生とかあいつのお母さんとかから色々相談されたんだけどさ、そんなの本人の問題だから、あたしにはどーしようもないんだけど、なんかあればいいなぁと思って、色んなとこに誘ってんの。奥志賀もその一環」

マコが感心する。

「へー。あなた、いい人ねー」

ミサキが立ち上がって、貴族みたいなお辞儀をする。マコが続けて言う。

「しかし、タツヤ、体大きいのにねー」

ミサキがツッコむ。

「それは関係ねーっしょ」



タツヤが一人で奥志賀高原ホテル横の従業員用食堂でコーヒーを飲んでいる。

マコがから入口から顔を出す。

「あ!タツヤいた!」

マコが自分の後ろの方を見て、手招きする。少しして、ミサキとゲーダイが顔を出す。

「あ!いた!」

3人がタツヤの座っているテーブルに座る。ミサキが尋ねる。

「なに?ここ、ランチ以外でもコーヒー飲めるの?」

タツヤが答える。

「うん。フロントに聞いてビックリした。奥志賀高原ホテルの好意で、音楽塾の生徒は飲み放題だって。「旅のしおり」に書いてあるんだって。みんな読んだ?」

3人、首を横にふる。ミサキが言う。

「あたし、紅茶飲も。あんた達も飲む?」

マコとゲーダイが手をあげた。



紅茶が出てきて、3人が一緒に一口飲む。憂鬱な顔でミサキが話し始める。

「タツヤ、さっき決まったんだけどさ、明日の朝、あそこの白樺池行くから」

タツヤ、ビックリする。

「え?練習は?」

ミサキ、答える。

「来週になると一日中練習してなきゃダメだから、最初の週に観光を全部終わらせて仲良くなろう作戦。仲良くなると、音が違うのよ。あたしが去年編み出したの」

マコとゲーダイが「よっ」と言いながら拍手した。「さすが先輩。ナイス提案」と囃し立てた。ミサキが沈んだ顔でタツヤに言う。

「でもね、タツヤ、今年は出るって」

タツヤがおびえた顔で突っ込む。

「な、なにが?なに?その導入部」

ミサキ、生気の無い顔になる。

「さっきさ、あそこのさ、高原リゾートの事務所の前にさ、「クマに気をつけましょう。共存していきましょう」なんて看板が出てたのよ。去年まで、あんなのなかったから、事務所の人に聞いたらさ、

「今年は出ますよー。たっくさん、いますよー。気をつけてくださーい」

なんつってさ、都会から人たちを楽しませるアトラクションみたいな感じで言うのよ。「楽しんでくださーい」みたいなノリで」

タツヤの顔もどんよりしてきた。

「えー。やだよー、そんなの。練習してよーよー」

マコが取りなす。

「まー、まー、楽しそうでいーじゃない?なんかね、「ここに人間がいるぞー」って知らせると、クマは逃げてくれるんだって」

タツヤの顔がさらにドンヨリする。

「えぇー?なに?その大雑把な対応策」

ゲーダイが取りなす。

「野生のクマなんて、見たことないじゃない。この先もきっと見ることないじゃない。せっかくだから見に行きましょうよ」

タツヤがどんよりした顔をしながら、マコとゲーダイを交互に見る。

「我らの世界的ピアニストと、我らの第一バイオリンがそう言うんですか。仕方がないのかな。あきらめるしか、ないのかな」

マコとゲーダイがニコニコしている。



マコとミサキとゲーダイとタツヤが、マコの広い部屋のソファーセットでダラダラしている。

ミサキが、イヤホンをしてテレビを見ている。

ゲーダイは、ヘッドフォンをしてMDウオークマンを聴きながら楽譜を読んでいる。

タツヤは、コーヒーを飲みながら、イヤホンをしてカセットウォークマンを聞いている。

マコは、そんなみんなを交互にながめて、ニコニコしている。

マコが、タツヤに手を振る。タツヤが耳からイヤホンをはずして「なに?」というと、マコが言った。

「なんか、楽しいね」

タツヤはキョトンとした。

「え?た、楽しいかな?」

マコが言う。

「楽しいでしょ?みんなで一緒にいて、別々のことしてるなんて」

タツヤがキョトンとしている。

「そ、そうかな?」

マコが言う。

「そーだよ。あたし、初めて」

とニコニコ笑うので、タツヤもつられてニコニコ笑った。



午後6時から、奥志賀高原ホテル横の従業員用食堂で、夕食会がまた始まった。一番前でセージがワインを掲げて「カンパイ」と発声すると、「カンパーイ」と歓声が上がり、また盛り上がり始めた。

食事をして、お酒を飲んで、みんなどんどんボルテージが上がっていく。

ミサキが飲みながら言う。

「ゲーダイ、ゲーダイ、」

ゲーダイがワインを飲みながら、

「なに?なに?」

ミサキがうなづく。

「あたしたち、いいチームになるかなー?」

向こうで大きな歓声が上がった。見ると、セージがみんなとフラメンコみたいなのを踊っている。ゲーダイが少しそれを見て、ミサキに振り返った。

「なるでしょ。マコさんもいるし」

とマコを見ると、口いっぱいに食べ物をほおばって、一生懸命モグモグしてニラんでいる。ゲーダイが笑う。

「マコさん、にらんでるんだけど」

マコも笑う。

「にらんでないよ。なんか言われたから見てたんでしょ」

タツヤが言う。

「マコさんは、これから練習があるから急いでるんでしょ」

ミサキもゲーダイも「あ、そうか!」と気づき、マコに話しかけるのをやめる。



タツヤが、奥志賀高原ホテルの大浴場から出てきて、スイートに帰る。部屋に入ると、ミサキとゲーダイがワインを酌み交わしている。

「マコさん、やっぱり練習なんだ」

ミサキがどんよりした目で答える。

「あれ?わかんない。練習かな?」

タツヤが2階に行って外を見ると、音楽堂に灯りがついている。音楽堂に近づいて、そっと中を見ると、マコが一心不乱に練習している。タツヤは、その姿を真剣に見ている。



三日目 クマ、ディナー


朝霧にけむる奥志賀高原。濃い緑色が目にまぶしい。

マコ、ミサキ、ゲーダイ、タツヤが奥志賀高原ホテルのエントランスに立って、ガヤガヤしている。タツヤが言う。

「ダメだよー。先輩。そんなに音出してたら、クマ逃げちゃうでしょ」

ミサキが10個ほどのスズを体中の色んなとこにつけてる。ミサキが憤慨する。

「何言ってんの?あんた、バカなの?クマは逃げた方がいいでしょ?」

マコが割って入る。

「ダメよ。ミサキ、だいじょうぶだから。だいじょうぶよ」

と言って、スズを外し始める。ミサキが憤慨する。

「何言ってんの?あんた、ちょっとピアノが上手いからって、クマは気にかけてくんないんだよ」

ゲーダイとタツヤも一緒にスズを外し始める。

不服そうなミサキ。

マコがスズを外しながら、したり顔で話し始める。

「だいじょうぶよ。あれから色んな人に聞いたから。ここら辺でクマに襲われて亡くなったのは、この50年で一人だけなんだって。その人も、タケノコ獲りに森の中に深く入ってたんだって。だから、ハイキングコースはだいじょぶよ」

やっぱり不服そうなミサキ。



緑に囲まれた細いハイキングコースを歩くゲーダイとタツヤ。その後ろにマコとミサキ。スズの音はしない。ミサキはマコの腕につかまりながら歩いている。ミサキが言う。

「恐ろしくてしょーがないから、なんか話してよ−」

マコ、微笑しながら、

「なによー。この美しい自然を楽しみなさいよー」

ミサキが言う。

「なにノンビリしたこと言ってんのよー。あんた、男いるの?」

マコ、一つ高い声で言う。

「えー、いないよー」

ミサキがマコの腕につかまりながら、言う。

「なんでよ。ナマ足見せてる著名若手美人ピアニストなんだから、色んな男が言い寄ってくるでしょ?」

マコが言う。

「うーん。忙しくて、それどこじゃないよー」

ミサキが言う。

「タツヤどう?一緒に練習できるし。この機会に」

すぐ前を歩いているタツヤが苦笑する。

「聞こえてますよー」

ミサキが大きな声を出す。

「聞こえた方がいいのよー。あんたに聞こえれば、クマにも聞こえるでしょー。ったく、あんた達は恐れ知らずなんだから」

ミサキがマコの方をむき直す。

「で、どんな男が好みなの?もしくは女?」

マコが言う。

「男よ。恋愛対象は。好みは、わかんないよー。あんまり人を知らないからさー。あ。でも、タツヤは好み」

少し前を歩いているタツヤ。満面の笑み。満面の笑みのまま、うしろを振り向く。それを見たマコも満面の笑みを浮かべる。二人で微笑み合う。ミサキがブーたれる。

「いーなー。楽しそうだなー」

マコが尋ねる。

「あんたはどうなの?恋人いるの?」

タツヤが答える。

「去年までよく会ってたけど、いまはご無沙汰。地元で農業やってる人」

ミサキが苦笑する。

「うるさいわね。あんたが答えないでよ。その通りよ」

マコが少しビックリする。

「へー。結婚するの?」

ミサキ、ちょっと困る。

「うーん。しないかなー」

マコが興味深そうに尋ねる。

「恋ってどうなの?」

ミサキが答える。

「どーなのって、この状況でちょっとステキな言葉もつむげないけれども、いーわよ。とってもいーわよ」

マコが興味深そうに尋ねる。

「音楽はよくなる?」

ミサキが答える。

「当たり前じゃない。ショパンだって、ベートーヴェンだって、恋をして名曲を書いたのよ」



そうこう言ってるうちに、白樺池についた。小さな池。あたりが白樺で囲まれていて、とても静かな場所。ほとりにベンチがあり、4人が並んで座っている。マコがみんなに話しかける。

「スゴいねー。いいとこだねー」

ゲーダイとタツヤがうなづく。ミサキが文句を言う。

「いいなー。あんた達、ノンキで。あたし、帰った後、練習できるかなー」

マコが笑う。

「なによ。あんた。自分で提案しといて」

ゲーダイもタツヤもクスクス笑った。

「ガサガサ」とベンチの右後方で音がした。4人がビックリして振り向くと、すごーく可愛い子グマが4人を見ていた。ミサキの表情がゆるむ。

「か、かわゆい」

ミサキが手を出して、子グマに寄っていこうとすると、マコが服を引っ張って止めた。

「ダメ。子グマがいたら、近くに母クマがいるから気をつけないと」

みんな、じっとしてあたりをうかがう。

子グマがパタパタと4人に向かってくる。

あまりのかわいさに、ミサキが手を振る。

と、子クマの5mくらい後ろから、大きな母クマがのっそりとあらわれた。大きい。タツヤより大きい。

4人みんな、それぞれに目をむいて、それぞれに少し口が開いた。

ミサキは手を振った体勢のまま止まって、やっぱり目をむいて少し口を開いている。

タツヤが声をあげる。

「急に動いちゃダメ。急に動いちゃダメ。ゆっくり立ち上がって、目をそらさないで、少しずつ後ろに下がって、少しずつ、少しずつ」

みんな、ゆっくり立ち上がって、ゆっくり後ずさりを始める。タツヤは止まってミサキを見ている。

「ミサちゃん!」

ミサキは、さっきの座って手を振った体勢のまま止まって、やっぱり目をむいて少し口を開いている。

タツヤがベンチの所に戻ってきて、ミサキを後ろから両脇で抱えて立ち上がらせて、引っ張って、ゆっくり歩き出す。ミサキとタツヤは、熊の方を向いたまま後ろ向きで下がっていく。タツヤが大きな声で、みんなに言う。

「走っちゃダメだよー。走っちゃダメだよー。クマの方がぜーんぜん足速いからねー。走っちゃダメだよー。ゆっくりねー」

マコとゲーダイが、目をむいて、少し口をパクパクさせながら、やっと湖の入口のハイキングコースに逃げ込めそうになった。タツヤが声を出し続ける。

「もうすぐだよー。もうすぐハイキングコースだからねー」

と、その時、可愛い子グマがピョコピョコみんなの方に向かって走り始めた。タツヤに両脇を抱えて引っ張られているミサキが叫んだ。

「もうダメー。もうダメ。あたし走る。あたし走る」

ミサキが急に自分で立ち上がり、反転してダッシュで走り始めた。それに釣られて、マコもゲーダイも何も言わず、全力で走り始めた。



セージが、奥志賀高原ホテルのフロントを横切って歩いている。ふと玄関の向こうを見ると、ドアの向こうにマコとミサキとゲーダイとタツヤがヒザをついたり、仰向けに寝転がったりしていた。

「どしたんだ。君たち」

セージが近づいて声をかけると、みんな目や口から色んな液を出して、化粧はグチャグチャで、アイラインが思い切りにじんでクマができたような顔になっている。

声をかけられたので、4人が険しい目でセージを見る。ジッと見る。と、一斉に、ハイキングコースの方を指さした。

「え?」

セージが不思議そうに4人を見た。

みんな険しい目で、ヒジを折り曲げて、もう一回ハイキングコースを方をビッと指さした。



4人が音楽堂で合わせている。ミサキがつぶやく。

「クマに追っかけられて生死の境をさまよったあとでも、練習はできるのねー」

タツヤが言う。

「どっちかっていうと、研ぎ澄まされた感じじゃない?」

マコが笑う。

「言えてる、言えてる」

音楽堂のドアを開けて、お客さんが一人入ってきた。それを見て、マコがミサキに小さな声で話しかける。

「ねぇ、あの人、昨日も聞いてたね」

ミサキが小さな声で答える。

「うん。あの人、去年もいた。毎年別荘に来てるのかな。わりかしカッコいいね」

マコが小さな声で言う。

「うん。カッコいいね。若そうなのに、別荘持ってるんだ」



音楽堂の外に灰皿が置いてある。さっきのお客さんがタバコを吸っている。そこでミサキがやってきて、タバコに火をつけて煙をはいた。

「よく見学されてますね」

お客さん、話しかけられて少しビックリして間があく。

「、、、え、えぇ。きみ、去年もいたよね?」

ミサキが答える。

「えぇ。あなたも」

二人が一服して煙をはく。ミサキが尋ねる。

「マコ・ヤン、ご存じですか?」

お客さん、ビックリする。

「やっぱ、あの娘、マコ・ヤンなの?」

ミサキがうなづく。お客さんが続ける。

「へー。なんか似てるなーと思ってたんだけど、本人なのかー」

ミサキ、うなづいて、悪そうに微笑む。

「まさか、なんすよ。マコ・ヤンなんす」

二人とも一服して、煙を吐く。ミサキが急に言う。

「せっかくだから、お食事でもどうすか?マコ・ヤンと」

お客さん、ビックリする。ビックリのあまり、一歩しりぞく。

「マコ・ヤンと?」

ミサキ、悪そうに微笑む。

「えぇ。お客さんステキだから、コーディネートしますよ」

お客さん、タバコを2回すって、1回吐く。

「いやー、そりゃー光栄だけど、ぜひお願いしたいけど、キンチョーしそうだなー。君も一緒に行こうよ。グランフェニックスでイタリアンのディナー食べようよ。すごく、おいしいから」

マコが一服して、タバコの煙を吐くと、シクシク泣き出した。お客さん、あたふたして「え?」、「どしたの?」と尋ねる。

「さっきね、」

ミサキが嗚咽しながら話し始める。

「ハイキング行ってね、クマに襲われそうになったの。もー、ほんとーに恐かったんす。水分という水分が、体の色んなとこから出ちゃったんす。そんな折、ダンナのお情けがうれひい。しみる」

お客さん、苦笑する。

「ダンナって(笑)」

ミサキが嗚咽しながら続ける。

「でもね、ダンナ、、、」

お客さんが言う。

「ダンナはやめろ(笑)佐田です。よろしく」

と言いつつ、ポケットから名刺を取り出して、ミサキに渡した。



セージが奥志賀高原ホテルの2階から外に出て、深呼吸をしている。ふと見ると、右手の大きな木の下のベンチにマコが一人で座って、難しい顔をしている。セージが手を振りながら近づいていく。

「マコー」

マコ、少し微笑んで、手を振り返す。セージがベンチの隣に座る。

「どしたの?」

マコ、難しい顔に戻る。

「昨日、今日と合わせてみたんだけど、なーんか固い音っていうか、なじまない音っていうか、これでいいのかなーって思って」

セージがビッグスマイルで言う。

「だいじょーぶ、だいじょーぶ。もう何日か一生懸命やってみな。グーンと良くなる時があるから」

マコ、疑わしげな目で、

「サダオも、そー言うんだけど、ほんとなの?」

セージ、ビッグスマイルのまま、

「ほんとだよ。ほんと。ダメだよ。サダオさんの言うこと信じないと」

マコが言う。

「だってさー、あたし日本語読めないからさー、英語で探すと、サダオ、Wikipediaに載ってないのよー。検索でも、あんまり引っかからないしさー。だから、どんな実績の人か、よくわかんなくて。ドイツで何回かご一緒したことはあるんだけど」



奥志賀高原ホテルのフロントのカウンターの上にノートパソコンが置いてあり、お客さん側に向いている。メガネをかけたセージが画面を見ている。横からマコも覗いている。

「あら、ずいぶんいい男」

ノートパソコンの画面に、東京カルテットの最初のアルバム「ベートーヴェン&バルトーク」が写っている。1人の女性と3人の男性が、笑いながら写っている一番上で、若き日のシュッとしたサダオが笑っている。セージが笑う。

「ほんとだねー。ずーいぶん爽やかだねー。今とは全然違うなー」

マコも笑った。セージが画面を読み上げる。

「えーと、東京カルテットのことは知ってる?」

マコが答える。

「えぇ。それは英語のWikipediaに載ってたし、フランスでポスター見たことある」

セージが画面を読み上げる。

「じゃ、えーと、サダオさんのお父さんはNHK交響楽団のチェリストだ、と。で、サダオさんは日本音楽コンクールに優勝して、東京交響楽団で最年少の首席チェリストをつとめたあとアメリカに渡って、アスペン室内楽オーケストラとナッシュビル交響楽団の首席奏者をつとめた、と。」

マコが「へー」と感心する。セージが続ける。

「それからジュリアード音楽院に入って、ロバート・マンとかラファエル・ヒリヤーとかに室内楽を学んで、それから桐朋の仲間と東京カルテットを結成して、ミュンヘン音楽コンクールとかアメリカのコールマン・コンクールで優勝した、と。それで世界的に有名になって、30年ほど世界各地で演奏したんだ。な?エラい人だろ?」

マコが驚きながら答える。

「ほんとねー。ミサキが「世界のセージ先生、世界を獲ったサダオ先生」って言ってる意味が、やっとわかった」

セージがメガネをはずしながら言う。

「サダオさんはさ、オレなんかよりも室内楽の専門家なんだよ。東京カルテットのオリジナルメンバーはさ、みんなオレの後輩なんだけど、日本人で初めての世界的室内楽奏者の人達かもな。そいえば、なんでミサキくんに尋ねないの?」

マコが少し困った顔で、

「えー、なんか、日本の人間関係って、よくわかんなくて。先生のことを尊敬してる生徒に、その先生のことを聞いていいのかどうか、わかんなくて」

セージがうなづく。

「あー、そーか、そーか。日本は色々と面倒だからなー。いーよ、いーよ。オレに何でも聞けよ」

マコがうれしそうにはしゃぐ。

「わーい」

と、急に真顔になって尋ねる。

「あの、、、」

セージが不思議そうに、

「なに?」

マコが真顔で尋ねる。

「この場面でセージにハグしていいの?」

セージ、考える。

「うーん。ちょっと、ここでは、不適切かな。日本では」

マコがブーたれる。

「ちぇ」

セージが微笑する。

「でも、いいよ。いいよ。ここなら。あんまり人もいないし。ほら、おいで」

と両手を広げる。マコが笑いながら少し逃げる。

「やーよー」

セージが微笑して、両手を広げながら追いかける。

「なんだよー。マコが言い出したんだろー。ほら、おいで、おいで」

マコが笑いながら逃げる。

「やーよー、いや。きゃー」

二人でフロントの前で動き回って、追いかけっこになった。二人とも楽しそうに笑いながら、ふと視線を感じて、同時に少し離れた廊下の方を見ると、サダオが首にタオルをかけて二人を凝視していた。セージとマコ、急に反転して別々の方向に歩き出す。



夕陽が奥志賀高原の向こうの山に沈みそうになっている。

ホテルグランフェニックスのロビーで、マコとミサキがキメた格好で立っている。マコが腕時計を見ながら言う。

「早く来すぎじゃない?男は待たせた方がいい、ってママが言ってたよ」

ミサキが答える。

「だってさー、すぐそこに泊まってんのに、遅れたらいけないでしょ?」

ホテルの前にマイクロバスが止まった。人が10人ほど降りてきて、ホテルのロビーを通る。みんな、マコとミサキの方を一瞥して通りすぎる。ミサキが困ったようににつぶやく。

「やっぱ、あたしムネ出し過ぎたかなー」

マコがしたり顔で喋り始める。

「それでいいわよ。最高よ。デートにおいて、セクシーは重要な要素なのよ。ママが言ってたわ」

ミサキが、やっぱり困ったようにつぶやく。

「だーから、あんた、そんなに足出してんのね」

マコ、したり顔でうなづく。

「でも、デートがあるなんて思わなかったから、ドレス持ってこなかったのが悔やまれる」

ミサキが苦笑する。

「えぇー?ドレスなんか着てったら、佐田さんひくよー」

マコ、したり顔でミサキを見る。

「あら。恋に落ちるかもよ」

ミサキが嘲笑する。

「ぶ、ひひひひひ」

マコも笑う。

「い、ひひひひひ」

マイクロバスから降りてきた人のうちの夫婦二組が、エレベーターの前で止まってマコとミサキの方を見ている。ミサキがそれを見つけて、心配顔でマコに言う。

「あたし達、夜の女に見えない?」

マコが笑う。

「ははははは。見えるかも。でも、見えたっていーじゃない」

ミサキが一層心配顔になる。

「夜の女が、ふっとい客待ってるように見えるよね?」

マコが笑う。

「ははははは。いーぢゃない。見えたって」

エレベーターの前で話していた人たちのうちの一人の男性が近寄ってきて、マコに話しかけた。

「あのー、失礼ですが、もしかしてマコ・ヤンさんですか?」

マコは得意げにミサキの方を一瞥してから、優雅に答える。

「ぬえぇ。マコ・ヤンでございます。ごきげんよう」

男性、驚く。

「やっぱりー!なんでこんなとこに」

マコが微笑しながら答える。

「セージ先生の奥志賀高原音楽塾に参加してるんですよ」

男性、驚いて、ふと気づいてエレベーターの前から注視してる3人に向かって叫ぶ。

「やっぱ、マコさんだってさ」

エレベーターの前の3人が「えぇぇ?」とか言いながら近づいてくる。ミサキが両手をあげて割り込む。

「はいはいはい、サインしましょうか?」

近寄ってきた女性が言う。

「サインしてほしいけど、あいにくCDとか持ってないので、握手してください」

ミサキが整理を始める。

「はいはいはい、じゃ、握手して写真撮りましょー。3分で済ませてくださーい。ヤン先生、お忙しいものでねー。はーい、こちらこちら。お宅に帰ったら、ヤン先生のCD買ってくださいねー。お友達のぶんと3枚づつ買ってくださいねー」

マコが握手をして写真を撮り終わって、夫婦2組がエレベーターに戻ったころ、佐田が玄関から入ってきた。二人をみつけて「やぁ」と言った。マコとミサキが佐田に近づいて会釈して佐田を見ると、佐田の視線が尋常じゃないほど泳いでいた。ミサキのムネ、マコの生アシを交互にみて、ムネ、ムネ、アシ、ムネ、ムネ、ムネ、アシ、ムネと、視線が泳ぎまくっていた。



マコとミサキがグランフェニックスの玄関から出てきて、奥志賀高原ホテルに向かって歩き出した。マコが笑いながら愚痴る。

「ダメよー。あの人、会った時からディナーの間中、ずーっと、あんたの谷間見てたじゃなーい」

ミサキも笑いながら、少し申し訳なさそうに、

「そだねー。ちょっと思いがけない人だったねー。でも、あんたのナマ足も見てたよ。ほら、テーブル座っちゃうと、足見えなくなっちゃうから」

マコ、やっぱり笑いながら、

「あんたにお膳立てしてもらって、文句言うのも悪いけどさー、あんな、あんたの谷間ばっかり見てる人なんてヤだよー」

ミサキ、苦笑しながら、

「そだねー。でも、あたしはちょっと好きよ。素直で」

マコ、口を曲げながら、

「そりゃ、あんたに引っかかったんだから、可愛いものでしょーよ」

ミサキ、笑いながら、

「ごめん、ごめん、またいい男探すからさ」

マコが言う。

「お願いねー。友だちもできて、ロマンスも生まれれば、最高の夏だから」

ミサキ、言う。

「がんばる」

マコが言う。

「でもさ、タツヤもいいよねー。今朝もカッコ良かったじゃない?あんたのこと助けてさ、みんなに指示だしてさ、」

ミサキ、「うん」とうなづいて、ふと空を見る。星で空が一杯だ。

「うわー。すごい数の星だ」

とつぶやくと、マコも、星空を見上げた。二人で星空を見上げて、両手を広げた。



四日目 バイオリンを歌わせろ


朝。首からタオルをかけたサダオが、ペンション街を散歩している。


マコとミサキとゲーダイとタツヤが奥志賀高原ホテル横の従業員用食堂で朝食をとっている。マコが尋ねる。

「ミサキ、午後はどこに観光に行くの?」

ミサキが悪そうに微笑する。

「今日はね、あんた達、あたしの企画力にうっとりするはずだわ」

タツヤが笑う。

「なにそれ。教えてよ。でも、ハイキングはもうやめてよ」

ミサキが悪そうに微笑してタツヤを見ながら、言う。

「カヤの平高原に行くの。日本一美しいブナ林があるのよ」

タツヤ、驚く。

「えぇー、どこそれ?」

ゲーダイも驚く。

「えぇー、そんなとこ志賀高原のガイド本にあったっけ?」

ミサキが悪そうに微笑して、みんなを見る。

「でしょ?意表をつかれたでしょ?「ミサキさん、さすがだなー」って思ったでしょ」

マコが笑う。

「なに誇ってんのよ。それ、どこにあるの?」

ミサキが言う。

「ここまでくる時、下の道を左に曲がって奥志賀に来たじゃない?」

3人「うん」とうなづく。ミサキが続ける。

「あそこを曲がらないでまっすぐ行くと「奥志賀林道」ってやつなんだけど、その先よ」

ゲーダイが驚く。

「り、林道!?バス通ってるの!?」

ミサキ、言う。

「バスなんか通ってないよ。林道だもん。昔は「奥志賀スーパー林道」と呼ばれていたそうよ」

タツヤ、驚く。

「えー!?どうやって行くの!?」

ミサキ、悪そうに微笑する。

「タクシーよ。貸切タクシー。だいじょうぶ。お代はあたしが持つから」

マコが言う。

「なんでよー。ダメよー。あんたに持ってもらうなんて。あたしが持つよー」

ミサキ、反論する。

「いいのよー。たまにはあたしにもいいカッコさせなさいよー。あたしとあんたがこのチームで一番年上なのに、あんたばっかりいいカッコしてー」

マコが反論する。

「学生がなに言ってんのよー。あたしもう働いてるんだから、、、」

二人であーだこーだ言い合ってるので、タツヤが割って入る。

「いいです。いいです。どっちでも。ありがとうございます。心から感謝します」

ゲーダイも同意する。

「ほんと、ほんと。ほんとうに、ありがとうございます。」

ゲーダイとタツヤが深々と頭を下げる。



4人が音楽堂で練習している。サダオもいる。観客席には佐田もいる。マコがサダオに尋ねる。

「あたし、ソロのことばっかり考えてきたから不勉強なんだけど、室内楽の理想型ってなに?」

サダオが少し外の緑を見ながら、言う。

「うーん。4人で一つの楽器を奏でてるように聞こえる、みたいなことかなー」

ミサキがうなづく。

「あー、東京カルテット、たしかにそんな感じですねー」

サダオが遠い目をする。

「あの頃は、メシ食ってる時以外は合わせてたからなー。若かったなー」

タツヤがキョトンとして質問する。

「東京カルテットってなに?」

マコとミサキがキッとタツヤをにらみつける。ミサキが叱る。

「なに言ってんの?サダオ先生が世界を獲ったバンドじゃない」

マコが続く。

「そうよ。若い頃のサダオは、ずいぶんいい男なのよ」

みんながマコを見る。観客席の佐田も見る。タツヤが困ったようにゲーダイに尋ねる。

「ゲーダイは知ってる?」

ゲーダイが得意げに答える。

「あたりまえよ。ザ・ドリフターズから派生した小野ヤスシ率いるコミックバンドよ」

会場静まる。サダオが低く響く声で言う。

「それは、ドンキー・カルテットだな。。。きみ、よくそんな古いこと知ってるな」



音楽堂備え付けのCDプレーヤーで、東京カルテットのベートーヴェンが流れている。みんな聴き入っている。タツヤが、東京カルテットのCDジャケットを見てビックリしている。

「ほんとだ。いい男だ」

横からゲーダイが見て驚く。

「ほんとだー。東宝のニューフェースの人みたーい」

ミサキが吹く。

「あんた、いつの時代の人よ。ねー、サダオ先生」

と、サダオの方を見ると、サダオが涙を流していた。ドッカリと座って目をつぶって音を聞きながら、涙をポロポロ流している。4人、一斉にビックリする。その向こうで、佐田もビックリしている。ミサキが呼びかける。

「サ、サダオ先生?」

サダオ、目を開いて、照れくさそうに、顔の前で手を左右に振りながら答える。

「いや、スマン、スマン。あの頃のこと、思い出しちゃってさー。みんな赤坂だったけど、がんばってたなーって」

東京カルテットのベートーヴェンが佳境に入った。サダオが、またポロポロ涙を流す。みんなボーゼンと見ているが、ミサキがみんなの思っている疑問を口にした。

「あ、赤坂?」

サダオ、照れくさそうに、顔の前で手を左右に振りながら話はじめる。

「ま、とにかく、あの頃は練習したよ。みんな高校・大学の同級生だったけど、改めてあいつらの音をじっくり聞いてさ、あいつらもボクの音を聞いてさ、次にどのくらいの長さで弾くとか、強さとか、弱さとか、全部頭に叩き込んでさ、、、」

サダオが少し聴いてから、続ける。

「だからかな。今聴くと涙出るんだ」

東京カルテットのベートーヴェンが流れている。サダオは、目をつぶって涙を流している。音楽堂の外は緑でいっぱいだ。



音楽堂で4人が練習している。タオルを首に巻いたサダオが聴いてる。演奏が終わると、サダオが言った。

「うん。よく合ってきた。合ってる。でも、奥行きがないね。面白くない。インフォメーションしかないよ。マコ、どう思う?」

マコが困る。

「えー?」

サダオが微笑みながら、尋ねる。

「マコさ、英語で話してる時と感じが違うな。ドイツの時は、もっとガツガツやってなかったっけ?」

マコが困り顔で、

「だってー、「日本の人と話す時は、あんまり本当のことを行ってはダメよ。オブラートにくるむのよ」って、昔っからママに言われてて、どこまで言ってもいいのか、よくわかんないのよー」

サダオが少し笑った。

「あー、わかるなー。オレもセージさんも、日本に帰ってくると、少しおとなしくなるもんな」

みんな笑う。サダオが続ける。

「でもさ、お互いに本音で意見を言い合わないと、いいものはできないよ。相手を攻撃してるわけじゃなく、いいモノを作ろうとしてるわけだから。みんなもさ」

みんな、シーンとする。サダオが続ける。

「室内楽は、音楽の基本だよ。室内楽の醍醐味は、チームの誰かに音で問いかけができたり、その答えが返ってきたりすることだよ。音で、濃いコミュニケーションが取れるんだ。君らも、もっと演奏でコミュニケーションとらないと」

マコが恐る恐る手をあげる。サダオが指さす。

「はい、マコ」

マコが小さな声で言う。

「あの、みんな、あたしも意見言っていい?」

ミサキが不思議そうな顔で言う。

「なんでよ。当たり前でしょ。言いなさいよ」

マコが言う。

「だって、みんな何となくあたしを特別扱いしてるっていうか、恐れてるっていうか、ミサキは違うけど、、、」

ミサキ苦笑する。

「いやいやいや、あたしだって恐れてるわよ。特別扱いしてるわよ。あんたは世界的ピアニストのマコ・ヤンよ。でも、あんたたち」

と言って、ゲーダイとタツヤを見る。

「せっかく世界的な人が目の前にいるんだから、どんどん学びましょうよ。何でも言い合って、学びましょうよ。こんなこと、人生で二度とないかもしれないのよ」

ゲーダイとタツヤが黙って何回もうなづく。ミサキ、マコの方に向き直して、言う。

「わかるよ。マコ。なんか、みんなが後ずさりしてるような感じよね。あたし、ハーフでこんな顔だから、幼稚園でも小学校でも中学校でも高校でも、最初はそんな感じだったよ。ほら、山形県の朝日町くらいの田舎にはあんまり外人いないから、みんな初めて見る外人だったみたい。でもさ、最初のビックリが収まればさ、みんな普通になるから、だいじょぶ。だから、何でも言っていいのよ」

サダオが感心する。

「ミサキくん、いいこと言うなー。オレさ、この6月、7月と禁煙してたんだけどさぁ、珈琲を飲むとタバコが吸いたくなるから怖くて紅茶飲んでたんだよ。そうしたら凄い調子悪くなってさ、身体に良くないと思って、健康の為に慌ててまた吸い始めたんだよ。そんな感じだなー」

みんな、どんな感じか一つもわからなかった。少し間を置いて、マコが言った。

「みんな、もっと歌わせないと。最初の方のタツヤはステキだけど、ミサキとゲーダイのレガートがつまらない。もっともっと歌わせないと」

ミサキとゲーダイがビックリしてマコを見る。

「え?」

マコがサダオを見る。

「ね?サダオ?」

サダオが微笑しながら言う。

「オレはそーゆー意見は言わないようにしてんだ。君らで決めることだから。ミサキくん、どう思う?」

ミサキ、困った顔で。

「うーん。ごめんなさい。わからない。今は自分のことで精一杯で」

サダオ、微笑しながら、

「それはダメだよ。他の人の音を聞いて、そこに自分の音を合わせていくのが室内楽なんだから。タツヤくん、どう?」

タツヤも困った顔で、

「うーん、そうなんでしょうねー。ぼくも自分のことに精一杯だけでよくわかんないけど、みんなもっと歌わないとダメなんでしょうねー。そしたらインフォメーションの音楽じゃなく、パッションが産み出されるんでしょうね」

マコ、笑顔でタツヤを見る。

「そーそー、タツヤ、そーなの。あたし本業ピアノだからさ、歌わせるのがすごい難しいのよ。だから、みんなの演奏聞いてるともったいないなー、せっかくの弦楽器なのに、って思うの」

シクシク泣いている音が聞こえてきた。みんな、音のする方を見た。ゲーダイがシクシク泣いていた。



ホテルのレストランで、マコとタツヤがお茶を飲んでいる。タツヤが話し出す。

「オレたちってさ、あんまり「個性を出せ」っていう教育受けてないんだよね。あんまり指摘しあったりしないし」

マコが不思議そうに尋ねる。

「じゃ、曲の解釈とかどーするの?」

タツヤがお茶を飲みながら即答する。

「先生の言う通り弾くの」

マコがビックリする。

「えー?そんなんで、だいじょぶなのー?」

タツヤがうなづく。

「だいじょぶでしょ?ソロ取らなきゃ。だって、オーケストラだって同じじゃん。指揮者の言う通り弾くでしょ?」

マコ、ちょっと納得。

「あ。そうか。。。うーん。。。でも、なんか違うような気もする」

タツヤ、興味深そうに尋ねる。

「そう?どこが?」

そこへ、ミサキがゲーダイの肩を抱いて歩いてきた。ゲーダイは口にハンカチをあてている。マコとタツヤのテーブルにきて、ミサキが口を開く。

「ゴメンね。落ち着いたから」

ゲーダイをタツヤの横に座らせ、ミサキはマコの横に座った。小さな声でゲーダイが話し出した。

「すいません。練習を中断させてしまって」

マコが心配顔で話しかける。

「あのさ、ゲーダイの人格を否定したわけじゃないのよ。あたし達の音楽がもっと良くなるために提案したのよ」

ゲーダイが口に当てていたハンカチを目頭にあてた。

「わかってます。そうなんです。マコさんの言う通りです。もっと歌わなきゃいけないんです。何年も前から先生にも言われてるんです。「あなたのバイオリンは技術はあるけど、心がない」って」

ゲーダイが少し声を上げて泣いた。マコは困ってミサキを見た。ミサキはゲーダイを見ている。ゲーダイが続ける。

「自分が情けないんです。自分が情けないんです」

ミサキが口をはさむ。

「だから、マコにもみんなにも、もっとどんどん指摘してほしいんだって。ね、ゲーダイ?」

ゲーダイがハンカチを目頭から口に戻して、うなづいた。マコが笑顔になる。

「なーんだ。よかった。じゃ、ゲーダイもあたしに指摘してね」

ゲーダイ、ギョッとする。マコが笑う。

「なーにギョッとしてんのよ。当たり前でしょ。仲間なんだから。対等じゃない」

ヒトミ、やっぱりギョッとしている。マコが続ける。

「だいたいさ、音楽に上下関係なんてないんだから、もっと言い合おうよ。だから、ゲーダイはあたしのこと「マコ」って呼んでね。タツヤもね」

ゲーダイとタツヤ、ギョッとする。

「そ、それはー」

「ちょ、ちょっとー」

マコが言う。

「なによ」

と、腕組みして聞いていたミサキが声を発した。

「その通り。マコ、いいこと言う。これからは、みんなファーストネームで呼び合いましょ。決まり」

ゲーダイとタツヤがギョッとしたままミサキを見た。視線を感じながら、ミサキが続ける。

「ここだわね。あたしがあたためていたプランを発表するのは」

ゲーダイとタツヤがギョッとしたまま声を合わせた。

「な、なにが?」

ミサキが得意そうに語り始める。

「明日の午後はね、温泉に行くわよ」

ミサキの声が少し大きくなる。

「混浴よー!」

誰も何も答えず、少し間があった。ミサキが落胆したように言う。

「あれ。今こそ、裸の付き合いで、もっと近づき合うべきでしょ?」

マコが両手を挙げた。

「コンヨクー!聞いたことあるけど、入ったことなーい!入りたーい!」

ゲーダイとタツヤ、ギョッとして、マコとヒトミを交互に見た。タツヤが言う。

「え、えぇー!?ど、どこにあるの?ホントにあるの?」

ミサキが自信ありげに微笑みながら言う。

「万座温泉よ」

ゲーダイが言う。

「えー!?万座温泉て、志賀高原から行けるのー?」

ヒトミが、さらに自信ありげに微笑みながら言う。

「夏は行けるのよ。冬は通行止めだけど」

タツヤが感心した。

「へー、ミサちゃん、なかなかのプランナーなんだねー。知らなかった」

ミサキが指をL字型にして、アゴに手をあててキメてる。マコがいたずらっぽく笑ってタツヤに言う。

「タツヤ、あたしの体見たい?」

タツヤは目を白黒させた。横からゲーダイが言う。

「タツヤ、あたしの体でしょ?見たいの」

タツヤが少し目を見開いて、ヒトミを見た。ミサキが言う。

「なによ、ゲーダイ。ここぞとばかりに。タツヤは、あたしの体が見たいはずよ。ねー?」

タツヤ、目を見開いたまま、3人を順番に2回見た。ミサキがマコに向かって、文句を言った。

「だいたい、あんたはいーじゃない。ピアノうまいんだから。その方向で男つかまえなさいよ」

マコが反論する。

「なによ。あんたには、巨乳で釣り上げた佐田さんがいるでしょ!」

ミサキが言う。

「ヤよ!あんな、オッパイばっかり見てる男!」

そこへゲーダイが割って入る。

「うっさいわよ。あんたたち。タツヤは、あたしみたいな中肉中背の奥ゆかしい小柄な女が好きなのよ」

そして、横に座っているタツヤの方を向いて、胸元を手で引っ張って少し谷間を見せながら、上目遣いで言った。

「でもね、タツヤ、こう見えてもDカップなのよ。えへ」

タツヤがアワアワ言い始めた。ミサキが対抗する。

「なによ、あんた。見せないでよ。タツヤにヘンなモノ見せないでよ。上野公園にいい男いっぱい歩いてるでしょ。上野公園で見つけなさいよ」

マコも対応する。

「あたしなんか、Bカップよ。目一杯寄せて上げてBカップよ。でも、タツヤが望むならEカップにするお♥」

ミサキがさえぎる。

「なによ、あんた。金があるアピールして。タツヤ、あたしには純情と真心があるわよ」

ゲーダイがせせら笑う。

「ジュンジョーとマゴコロなんて、誰にでも言えるわ。タツヤ、どーなの?誰の体を一番見たいの?」

3人がタツヤを凝視した。タツヤは、3人を順番に見ながら、アワアワ言っている。



奥志賀林道を、白い長電タクシーが走っている。1996年生産のクラウンコンフォート・タクシー。舗装された、1.5車線ほどの道が続く。緑のトンネルの中を走っているように、木々が生き生きと生い茂っている。

助手席にミサキ、後部座席はタツヤが真ん中に座り、マコとゲーダイがその左右に座っている。みんな、外をしげしげと眺めている。ミサキが前を指さして、小さく叫ぶ。

「あっ!またクマ!」

みんな前方を見るが、クマはすぐに道ばたに逃げ込んで見られない。マコが残念がる。

「あぁ、また見えなかった。みんな素早いなぁ」

ミサキが小さくうなる。

「うーん。この数日で、野生のクマを5頭も見ちゃったよー。ラッキーなんだか、アンラッキーなんだか」

マコが言う。

「でもさ、すごいとこだねー。ほんとにスーパーな林道だねー。道と川と森以外、なんにもないよー」

タツヤが言う。

「ほんだねー。すごいわー。言葉を失うわー。ミサちゃん、ありがと」

ミサキが満足そうに笑う。

奥志賀から30分ほど走ると、急に視界の開けるところがあり、草原が広がる。牧場が見えて、牛が数頭草をはんでいた。カヤの平高原に到着した。

ちょっと大きなログハウスといった風情のカヤの平高原総合案内所の前でタクシーが止まり、4人が降りてくる。みな一様にノビをして深呼吸をした。マコが言う。

「空気が澄んでるねー。自然の音以外、なーんにも音しないや」

何回か深呼吸したのち、ミサキが言う。

「ハイキング行きたいとこだけど、今日はナシね」

タツヤが喜んで、マコとゲーダイがブーたれる。

「えー!?」

「えー!?日本一美しいブナ林はー?」

ミサキがうなづく。

「見えるじゃない。この周りがそうよ。ほら。ま、中に分け入りたい気持ちはわかるけど、今日はナシ。クマに会うから。この調子だと、ぜーったい会うから」

マコとゲーダイがブーたれる。タツヤは喜ぶ。

4人が、やっぱり少し大きなログハウスといった風情のカヤの平ロッジでお茶とケーキを楽しんでいる。離れた机で、タクシーの運転手さんもお茶とケーキを楽しんでいる。ミサキが言う。

「お礼よ。あんたたちへの。クマが出てきた時、助けてくれたじゃない」

マコとゲーダイとタツヤが深くうなづく。

「あー、そーゆーこと」

ミサキがケーキを一口食べて、言う。

「でもさ、つまんないことしたくないわけ。飲み代持つとかさ。ほら、あたしもアートにたずさわる人間だから」

3人、ちょっとポカーンとする。ミサキがちょっとエラそうに言う。

「だからさ、普通に志賀高原に来たんじゃ、あんまりできない体験を贈ったのね。あんた達にね」

マコが言う。

「へー。ミサキって、ちょっとバカっぽいけど、すごく深い人なのねー」

ミサキが耳に手をあてて、口をとがらす。

「え?バカっぽい?」

タツヤが同意する。

「うん。バカっぽいけど、ふくよかな人格なんだねぇ。長い付き合いだけど、知らなかったよー。一緒に過ごしてみないと、わかんないもんだなー」

ミサキが耳に手をあてて、口をとがらす。

「え?え?ゲーダイ、あたしってバカっぽい?」

ゲーダイがケーキを食べながら言う。

「バカっぽいかな?うーん。滑稽ではあるけど」

ミサキが、ゲーダイをニラむ。

「こ、こっけい?こっけい??」

マコがゲーダイを指さす。

「あー、そうそう。そっちの方がピッタリ。こっけい。はははは」

3人が笑ったが、ミサキは腑に落ちない顔をしている。



マコが音楽堂で一人で練習していると、セージが入ってきた。

「マコ。ちょっといい?」

マコが言う。

「あら。セージ、どーぞ、どーぞ」

セージが中に入って、ピアノの正面の座席に座る。

「あのさ、明日の午後は練習?観光?」

マコがちょっと考える。

「うんと、万座温泉って言ってたような気がする。万座高原ホテルって言ったかな?混浴の」

セージがビックリする。

「こんよく?へー。きみのチームは面白いとこ行くねー」

マコが微笑しながら言う。

「ミサキがいいプランナーだから。セージ、良い方紹介してくれて、ありがとう」

セージが手を左右に振る。

「あのさ、ちょっとお願いするかもしんないんだけどさ、草津で一曲弾いてもらえないかなー」

マコが不思議そうに言う。

「草津?温泉の?どこにあるの?」

セージが答える。

「志賀高原から行くと、万座温泉と反対側に降りていくんだ」

マコが「へー」と言う。セージがすまなそうに言う。

「草津でさ、音楽祭やってんだ。で、マスタークラスもやっててさ、つまり、ここと同じようなこともやってんだけど、昔、とーても世話になった人が来てるのよ。その人がマコが奥志賀にいる、ってなぜか知ったらしくて、「ぜひ一曲でいいから弾いてくれ」って、すごい勢いでお願いされちゃってさ、、、」

マコが尋ねる。

「その人は、セージにとって、どんな人?」

セージが少し考える。

「むかし、桐朋出てフランス行く前に、仕事なくてさー、フランス政府給費留学生の審査も落ちちゃうしさー、仲間はみんなテレビとかで活躍してんのにさー、そん時に、その人が紹介してくれて高崎のオケで振らせてくれたんだ。群馬交響楽団ていうんだけど。群響から給料も出るようにしてくれて。何年かな?2年くらいかな?一年半くらいかな?群響を紹介してくれて、後押ししてくれて、色々支援してくれた人なんだ。だから、なんていうか、若くて無名な、なんだかわかんない若者を支援してくれたわけなの。だから、すごく感謝してんの」

マコが言う。

「へー。恩人ね」

セージがうなづく。

「そうなんだ。大恩人なんだ。ダメかな?アレだったらオレから事務所に連絡するけど」

マコが言う。

「いいよ。事務所に言うと大ごとになるから。あたしの恩人のセージの恩人なら、あたしにとっても恩人でしょ?いいよ。弾くよ」

セージの顔が明るくなる。

「え?オレ、恩人ってほどじゃないだろ?ま、そこはいいや、そう?やってくれる?ありがとう、ありがとう。よかった。明日、草津言って挨拶ついでに詳細聞いてくるから、帰りに万座温泉寄るよ。そこで話そう。」

スキップしそうな勢いでセージが出ていった。



奥志賀高原ホテルの長い廊下を、首にタオルを巻いたサダオが歩いていると、うしろから女の声がした。

「サダオ先生!サダオ先生!お、お、お願いがあります」

サダオが後ろを振り向くと、ゲーダイが駆け寄ってきた。

「サダオ先生、お願いします。バイオリンの歌い方を教えてください」

急に思いもかけないことを頼まれて、サダオが返事もできず困惑していると、ゲーダイが土下座を始めた。

「先生、お、お願いします。お願いします。バイオリンの歌い方を教えてください」

サダオがビックリしてしゃがんで、ゲーダイの肩に手をかける。

「なんだよ。やめろよ。やるよ。わかったよ。でも、なんでオレなの?ヴァイオリンなんだから、安芸さんに頼めば?」

ゲーダイが答える。

「なるほど。深く考えてませんでした。でも、サダオ先生、昔、いい男だったし」

サダオが苦笑する。



ホテルの横の従業員用食堂で、ミサキとゲーダイが夕食を食べている。そこへ、マコが夕食のプレートを持ってきて座った。

「あれ?タツヤは?」

ミサキが答える。

「もうちょっと練習してからだって。マコのお陰で、がぜんやる気出てるわよ。あいつ」

マコが苦笑する。

「あんたもやる気だしなさいよ」

ミサキが口を動かしながら苦笑する。

「あたしはいいの。なんか、自分のプレーヤーとしての実力わかっちゃってるから。朝日町に帰って音楽教室開いて、町議会議員を目指すの」

マコ、夕食を食べながら笑う。

「町議会議員?」

ミサキ、うなづく。

「うん。音楽に造詣の深い町議会議員になって、朝日町の人々に音楽の歓びをもたらすの。お祖父さん、国会議員だし」

マコがビックリする。

「えぇー?エラいのねー」

ミサキが首をふる。

「エラかないわよ。国民の公僕だもん。あたしんちは、地域のために尽くすのが家訓なの」

マコが感嘆する。

「へー。だから、あんた、、、」

ミサキが微笑する。マコが微笑を返す。夕食を食べる。ミサキが思いついたように言う。

「でも、タツヤとゲーダイは、あんたに刺激を受けて、プレーヤーとしての自分を精一杯伸ばしてみようと考え始めたみたい。でしょ?ゲーダイ?」

ゲーダイがうなづく。ミサキが言う。

「だからさ、うまくいくかどうかわかんないけど、なんかあったら手を貸してあげてね」

マコがすかさず言う。

「あたりまえでしょ。あたしにできることなら何でもするから、言いなさいよ。あんたもね」



奥志賀高原ホテルの近くの従業員寮の個人練習室で、タツヤが、汗をかきながら懸命にチェロを弾いている。



奥志賀ペンション街にあるペンションの個人練習室で、ゲーダイが全身を使ってヴァイオリンを弾いている。対面にはサダオがいて、全身を使って教えている。



音楽堂で、マコが一心不乱にピアノを弾いている。


第2話↓


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